第42話* 退院
歩いてでも行けるメキシカンレストランは騒々しくてそれが僕たちにはひどく心地よかった。セビーチェ、ビール、タコス、ビール、アヒージョ、テキーラ、ポークビーンズ、テキーラ、テキーラ、テキーラ。姉の明るく軽快なおしゃべりとメキシコ音楽の賑やかさが不思議とマッチする。それはさながらパーティーのようだった。
まだ姉は完治には程遠いがこうして日常生活を送れるようになれただけでも充分だ。これからもどんどん快復していくだろう。僕は満ち足りた気持ちになった。
駅前から大通りまで開運橋を通って徒歩で向かう。今の姉には少しハードかも知れないが酔い醒まし兼リハビリだと思って頑張ってもらった。
物静かなバーの店内に入ると興味津々で辺りを見回す姉。いきおい声もささやき声になる。
「ふわー、おっとなー」
目を丸くする姉。
「姉さんだって、もう大人だろ」
つい笑いがこみあげてくる僕。
「姉ちゃんここで浮いてないかな?」
「ばっちり。大丈夫。浮いてない浮いてない」
「良かった」
窓際の小さなテーブル席につく。窓から下界を望む姉。
「ふははは、人がごみのようだあ!」
「前言撤回。姉さんは子供だ」
「あ、あたしジャックローズって飲んでみたい」
「え、じゃあ普通にジントニックからにしようかな」
この後僕たちは昔話に花を咲かせた。それでも核心に至るような話題は二人とも避けた。
「ゆーくんはほんっとボドゲ弱かったよねえ」
「『兄ちゃん』ほどじゃないわい」
「懐かしー、『兄ちゃん』! もう何年あってない?」
「10年くらいかな? 伯父さんの米農家継いだんでしょ」
ふと「兄ちゃん」の顔を思い出す。中2の僕に「
「姉さん」
「ん? なんじゃ?」
「僕、ちゃんと姉さんを守れたかな。守りきれたかな……」
姉はほほ笑みながらカクテルグラスを差し出す。僕は一瞬意味が分からなかったが慌てて自分のグラスを差し出した。ガラスの触れ合うささやかな音が響く。
「ったり前じゃん」
姉は笑顔で僕を見つめながらドライ・マティーニを飲み干した。
話は尽きなかった。彩音との会話だと互いに仕事の愚痴を言い合ったりしてお通夜みたいになってしまうことがある。甘えだと思う。でも姉と話しているとそんなことはない。自然に言葉が湧いてきて、相手の言葉も耳に心地よい。非科学的だけどこういうのを「波長が合う」とでもいうのだろうか。
バーを出たころには僕たちは控えめに言って「へべれけ」だった。肩を組んでバカ話に花を咲かせながらよろよろと歩く。酒に強い姉にしては珍しく腰が抜けたので、笑いながら僕が背負ってやる。相変わらず軽い。もっともっと肉を付けて健康な体になってもらわないと。僕はそう思った。
「ねえええ、ゆーくうぅん」
「なに?」
「ありがとうね」
「なあに、姉さん軽いからどうってころないさ」
「違う」
「何が?」
「姉ちゃんの病気治してくれて」
「まだ全部治ったって決まったわけじゃないって」
「うん、それでもありがと。感謝してます」
「感謝してるなら少しは言うこと聞けよな」
「それとこれは別さあ」
「こいつ」
「あはははは」
その時突然の雷雨に見舞われる。稲妻が走る中猛烈な雨に打たれる。姉は笑ってるのか怖がってるのかわからない叫び声をあげ僕の背中から降りると裸足になって走り出した。
ずぶ濡れの僕らはようやく僕の部屋にたどり着いた。しかし靴までぐっしょり濡れた状況でどうしようかと明かりも点けずにぼんやり思いながら姉に目をやる。姉がいなければこの場で全裸になって風呂場に行けるのに。
その姉は僕を見つめていた。何かをつぶやくが激しい雨音と雷鳴が入り混じって聞き取れない。稲光に照らされる濡れたその顔はその瞳はその髪は美しかった。僕は真剣な顔になって姉の髪を
姉も真剣な顔になっていた。僕の首に腕を回し裸足で爪先立つ。テキーラやラムの甘くて刺激的で途轍もなく危険な香りがする姉の息が僕の鼻腔をくすぐる。
視線と視線が重なり合う。それは何かを求めあっていた。何か、背徳的なものを。深酒をして散々走ったせいで隅々までアルコールに侵された僕たちの脳は完全に麻痺していた。互いの瞳の奥しか見えていなかったし、互いの濡れて冷たい肌の感触しか感じられなかったし、それ以外は何も考えられなかった。
何が正しくて、何が間違っているのかも。
「優斗……」
「ね、姉……さん……」
そこから先の記憶はない。
(※)「茜川の柿の木――姉と弟の風景、祈りの日々 第23話 初冬の誓い」より
https://kakuyomu.jp/works/16816700429251377326/episodes/16816927859069775697
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