第50話* 惜別

 そこにはオレンジの小型車があった。リアには障害者シールが貼ってある。運転席には姉が座っていた。姉がどや顔でウィンドウをあげる。


「いつの間に免許と車を? 驚いたな……」


「へへっ、その顔が見たかったんだよー。ささ、寒いから助手席座って」


「ああ」


 日中の嵐は収まったもののまだまだ雪は降り積もる。この時間の気温はただでさえ低い上に、低温注意報が出るほどの寒さだった。僕は助手席に滑り込む。


「ふーっ、あったかい」


「でしょ」


 いたずらっぽく笑う姉が眩しい。


「はいこれ」


 姉の手には温かい缶コーヒーがあった。それを受け取るとき僕と姉の指先が触れ合う。姉の手がビクッと震えた。僕はそれに気づかないふりをしてコーヒーを一口すする。姉も自分の缶コーヒーを開ける。


「でもどうしたんだ? こんな時間に」


「ん? うんまあちょっと寝られなくてね」


 そんな腫れぼったい目をしてちょっとも何もないだろう。


「ここだけの話だけど……」


「ん?」


「僕の論文に教授が注目して、それを糸口に更に新しい治療法ができそうなんだ」


「えっすごい」


「これによって姉さんはもう寛解ではない、完全な治癒への道が開けたことになる」


「そうなんだ…… ありがと」


「そうすればもう姉さんは自由だ。好きに生きればいい」


「好きに生きれば…… ね……」


 姉は寂し気に顔を伏せる。


「どうしたんだよ」


「今までさ、三十何年? 姉ちゃんって優斗と一緒に生きてきたわけじゃん」


「あ、ま、まあそうだな……」


「それがこれからはさ…… あーちゃんと過ごす時間が増えていって、いつかは姉ちゃんと過ごした時間を追い抜いていくんだね」


「……」


「ふふっ、そんなしみったれた顔すんなよ新郎」


「僕が小一の頃かな? 『ジャガーの道』憶えてるか?」


「懐かしい! 二人でよく見てたね! ズブロンギとの決戦なんか手に汗握っちゃったよ」


「ズブロンギとかよく憶えてたな。実際こたつの中で凄い手汗かいて僕の手握り締めてたもんな」


「あの時のゆーくんの手なんだか頼もしかったよ」


「そういう思い出ってさ、僕と彩寧では作れないんだと思うんだ」


「えっ?」


「子供の頃の、とかさ、青春時代の、とかの思い出ってこと。スキーとかホオズキ市とかクリスマスとかバレンタインとか。僕たちもういい大人だから」


「優斗……」


「だから僕たちの中にある一番輝いていた頃の思い出はかけがえのないものなんだ。これからの僕たちにあるのは職場での人間関係のつまんない悩みとか、住宅ローンの償還とか、子供の教育だとか、親の介護とか、そんなんばっかだよ」


「うん、そっか、ありがと……」


 姉は缶コーヒーを一気に半分くらい開けるとほうとため息を吐いた。


「どれもこれもいい思い出たちばっかりだったねえ……」


「そうだな……」


「キラキラしてる……」


「そうだな……」


「でももうおしまいなんだね……」


「どうやらそうみたいだ」


「今まで本当にありがと。優斗がいなかったらあたしだめになってた」


「役に立てたんならよかったよ」


「うん、すごい役に立った。どんな医者より頼りになった。おまけに本当に治療法を見つけちゃうし。天才かよ」


「天才じゃないよ。姉さんを救いたい一心だった」


 目が合う。瞳が視線と視線が絡み合う。そうだ、僕の今までの人生は全てこの女性一人に捧げていた。ヤングケアラーとして、医師として。そしてそれは…… その想いは……


 気が付くと僕は姉と唇を重ね合わせていた。初めて自分の気持ちに正直になった瞬間だった。


 長い長い口づけのあと、姉は頬を上気させいつもより照れくさそうな顔をしていた。


「あなたの方からしてくるなんて思わなかったから驚いちゃったよ」


「これでもうおしまいだから、かな」


「うん……」


「さすがにもう帰らなくちゃ。一応休暇中だけどね」


「うん……」


 僕が助手席から降りると、姉も車から降りた。


「じゃ」


 と言って振り向きホテルに帰ろうとすると、まるで体当たりするかのように姉が後ろからしがみついてきた。僕はゆっくり振り向いて姉を抱きしめた。もうこれで一生感じることはないであろう姉の感触を身体中の細胞に刻み込んだ。きっと姉もそうだったと思う。無我夢中になって姉とまた唇を重ねあう。求めあう。


 しばしの抱擁の後、最後にまた僕の方から唇を一瞬だけ触れ合わせると踵を返してホテルへ向かった。


「さよなら」


 姉のすすり泣きが聞こえる。背後のその唇は僕には見えなかったけれど「大好き」と動いていたに違いない。

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