第48話* 引越

 姉の引っ越しの日が来た。


 姉の表情は暗かったり硬かったりするかと思ったら、そんなことは全くなくいつものようにアホみたいにへらへらしていた。


「しっかし、これだけでいいのかよ」


 僕はマゼンタカラーの小さなキャリーバッグたった一つの荷物しかない。


「そうそう、姉ちゃんシンプルライフを是としてたからねえ」


「じゃ、外に車停めてあるからさ」


「ん」


 引越と言っても医学生時代と同じまた同じ町内だ。


「二度目の引っ越しだね」


 助手席で姉がぽつりとつぶやく。


「だな」


「あの時は結局なし崩し的に同居生活に戻っちゃったけど、今度はちゃんと自立した女になるんだからね」


「ああ、はいはい、話半分くらいで聞いておくよ」


「こいつ」


 僕の脇腹を突っつく姉。


「うわっ、運転中に何をする!」


「あははっ、ごめん」


 ものの数分で姉の新居にたどり着く。室内はベッドと小さなタンス以外には何もなくがらんとしたところだった。


「ほんとに何もないなあ」


「これから揃えるからいいんだよ。家具買いに行くのつき合ってくれると嬉しいんだけどなあ」


「だあめ、自立した女になるんだろ」


「ちぇっ」


「メシ食いに行く?」


「おっ、いいねえ、どこ行く?」


「焼肉!」


「えっと、先週バーベキューしたよね」


「いいじゃんいいじゃん」


「はあ」


 僕は早速電話で大等舎の予約を取った。観光客はみんなもっと有名なお店に流れていくが、地元の人の多くはここが一番うまいと言う。だからいつも予約客でいっぱいだ。


 ここでも僕は焼いて焼いて焼いて、姉は食って食って食った。ネギ塩牛タン、カルビ、ロース、ハラミ、ミノ、カイノミ、ホルモン、鶏もも、姉は特にハラミと鶏ももが好きだった。そしてシメに冷麺。ここの冷麺は盛岡一美味いと思う。会計時にミントのガムをもらってそれを噛みながら姉の新居に戻る。そんな必要なんてなかったのに。


「じゃ、僕もう帰るから」


「お茶ぐらい飲んでいきなよ」


「お茶なんか出せないくせに」


「まあまあ細かいことは気にしない気にしない」


 リビングに座ってペットボトルから注いだプラカップのお茶をすする。姉はすすっと僕の隣ぴったりに座る。


「もうこういうこともできなくなるね」


「ん、ああ、まあな」


「優斗、今までいっぱいありがとうね」


「いや僕はそんな大したことは……」


「姉ちゃんの病気を治してくれた」


「いやそれはまだ寛解しただけで完全に治ったわけではないからな。油断しちゃだめだぞ」


「うん、それでもありがと」


 ありがとうと言う割には姉の表情は今日初めて暗くなった。


「あーあ、もうこれから一生こういうことはできなくなっちゃうんだよ」


「一生って言うのは大げさだろ」


「大げさじゃないさ。これからそっちのマンションにはあーちゃんが入居するでしょ。そしたらおいそれと外出はできないよ」


「んー、まあ夜勤してたらその頃に会えるけど……」


「いやだってそれ完全に『不倫』じゃん。姉ちゃんさすがにそれはできない」


 どこか寂し気に目を伏せて紙コップを置く。


「ん、んん、まあ『不倫』、か……」


 僕も目を伏せる。『不倫』相手が姉だなんておかしな話だが、僕たち姉弟が会うのはただ普通の姉弟が会うだけじゃない、特別な意味合いが含まれていることくらいは僕も自覚していた。


 もう退散しよう。疲れたし、それにこのままここにいたら何か恐ろしいことになる予感もした。


「じゃ、帰るよ」


「あ、うん」


 姉は玄関まで送ってきてくれた。


「ねえ……」


 靴を履いた僕に姉は口に手をかざしてひそひそ話をするような仕草をする。ここでそんなことする必要あるのかと思いながらも、僕はかがみこんで姉の口元に耳を寄せる。


「ご褒美もらってないよ」


 とたんに姉はすごい勢いで僕の首に腕を回し僕の唇を奪った。はじめは唇が重なるだけだったが、次第にそれ以上のものになっていった。僕の頭は真っ白になって倫理も道徳も何もかを考えられなくなり、姉弟してこの背徳行為に耽った。一体どれくらいの時間がたったのだろう。僕たちの唇が離れると姉はうっとりとして紅潮した頬を見せていた。


「嬉しい……」


 一方の僕は暗澹たる気分だった。


「僕は苦しい……」


「うそつき」


 僕の言葉を完全にスルーする姉。


「ふふっ、ファーストキス」


「ファーストキスが弟ってヤバくないか」


「ヤバいね、ふふっ」


 見つめ合う僕と姉。今度は僕の感情が激発し、もう一度口づけを交わすと僕は足取りも重く姉の部屋を出た。


「じゃあな……」


「今日はありがとっ。気をつけて帰ってね」


 はじけるように明るい姉の声を背にマンションを出る。夜天にはまるで心臓を貫けそうな針に似た三日月が浮かんでいた。

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