第52話* 移住
それは過疎に苦しむ地方公共団体の移住あっせん施策を紹介したパンフレットだった。
「どうしてそんな……」
僕は言葉が続かない。
「んー、なんていうのかなあ…… 心機一転?」
「そんなのここでだってできるだろう!」
身を乗り出して怒鳴る僕は明らかに動揺していた。姉が遠くへ、遠いへき地へ行ってしまう。いつ会えるとも知れない地へ。
「……できないんだよ」
姉の顔は静かに笑っていたが目は真剣で何かを語ろうとしていた。なんだ、一体何が言いたいんだ姉さん。僕から目をそらした姉は彩寧に声をかける。
「農業とかやってみたいんだよねえ、あーちゃんどう思う?」
「ど、どうでしょう。簡単ではないと思いますが……」
僕の怒声にうろたえた彩寧はしどろもどろだ。
「やっぱだよねえ…… じゃあ漁業にするか……」
「あ、あまり変わらないかと……」
僕は一言ぽつりと漏らした。
「本気なのか?」
「え? 漁業にすること?」
「違う。移住すること」
「本気だよ」
「だめだ」
「なんでだよ」
「治療のことがある」
「三月に一回おっきい病院に行けば大丈夫だって。先生も紹介状書いてくれるってさ」
「僕は許さないからな」
「あたしはもう自由だ。そう言ったのはあんたでしょ。だから自由にさせて」
初めて真剣な顔で姉は僕を見つめ返してきた。
「ちっ」
僕はリビングの隅っこでふてくされたまま、姉と彩寧のやり取りを見つめ続けていた。いつも通りにどこかふざけた調子の姉に対し、明らかに不機嫌な僕を気にして気もそぞろな彩寧は何を聞かれてもちぐはぐなものだった。
姉と彩寧の二人の協議はさしたる成果もないままロング缶六本三リットル、バーボンウイスキーの三分の一を飲んだところで顔色一つ変えない姉は帰ることにした。僕の車でドライバーはやはり僕だ。姉は助手席にどさっと腰を下ろすと大きなため息を吐いた。僕は車を発進させる。発車するとすぐ僕は口を開く。
「なんであんな気まぐれを思いついたんだ」
「気まぐれじゃないよ……」
さっきとは一転して心細そうな声だった。
「じゃあなぜ!」
「ちょっとは分かってよ!」
バッグを抱えて泣きそうな叫び声をあげる姉に僕は仰天した。
「このまま手の届く場所にあなたがいるのがつらいの! そんな手の届く場所にいるのに触れることもできないのが切ないの! あたしもう何度も何度もあなたの家の前まで行って引き返してるのよ! このまんまじゃもうあたし頭おかしくなっちゃう! だったら物理的に距離を開けるしかないじゃん!」
その時ちょうど車は姉のマンションの前に着いた。僕は茫然とした。改めて、いや初めて姉の僕への想いの深さを知った。
僕が姉の方を向くと姉はしゃくり上げながら鼻をすすっていた。
「ごめん。ありがと」
ちらりとこちらを見た姉は逃げるように助手席から滑り降りた。
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