②代償

 サラは帰宅するなり父の書斎へ駆け込んだ。彼女の父親、ハオラン・シンチーは既に午後十時を過ぎているというのに背広を着込んで、執務用デスクの前に置かれたソファに腰掛けていた。

 突然息を切らして飛び込んできた娘を見て、鳶色をした目が見開かれる。

 豊かな赤毛の巻き毛をしたアイルランド人の母親と瓜二つのサラだったが、唯一父から遺伝したのがこの瞳の色だった。


 喫茶店を飛び出した後、サラの胸中に渦巻いていたのは恐怖と後悔だった。

 なんということをしてしまったのだろうか。怪物の正体を暴いてしまうなんて。吸血鬼はいまに報復に来る。自宅を突きとめられて、一家全員血を一滴残らず吸い尽くされるに違いない。一刻も早く父を連れて避難しなければならない。


 「パパ、大変なの!さっき……」

サラは言いかけて、はたと気付いた。ハオランの向かいに誰か座っている。

「おやまあ、お嬢様。随分早いお帰りで」

客人の方もまるで今サラに気付いたかのように言った。その正体はサラもよく知る人物だった。

「っアリギエリさん……」

「お邪魔しておりますよ、サラさん」

黒い髪を後ろに撫でつけた痩せぎすの男がにやにやと笑いながら会釈した。鷲鼻気味の高い鼻がやけに目立つ男だった。


 男の名はセザール・アリギエリという。サラが物心つく前からハオランの秘書をしている男で、二人の間には娘のサラにも入り込めない独特の空気があった。

 サラはこの男を嫌っていた。父との時間を奪うこの男を。サラの内心を察してか、セザールの方も彼女を忌み嫌っているようだった。


「サラ、ノックをしなさいといつも言っているだろう」

ハオランがため息を吐いた。

「セザールと大事な話があるんだ。席を外しなさい」

そう言ってドアの方を指差す。サラは絶句した。実の娘より赤の他人を優先するなんて。


「サラ?」

動こうとしないサラにハオランが訝しげな顔をする。

 次の瞬間サラはハオランの腕を掴んで引っ張った。

「吸血鬼が襲いに来るの!住民を消している犯人だった!一刻も早くこの家を出ないと!」

「吸血鬼だと?」

ハオランの眉が神経質にぴくりと動いた。セザールが後ろでくっと喉を鳴らして笑う。それが引き金になったのか、ハオランが声を荒げる。

「まだあのくだらないオカルト部なんかの活動にうつつをぬかしているのか!吸血鬼?そんなものはいない!もう十四歳になったんだぞ、いい加減現実を見なさい!」

「本当に見たのよ!」


 そういえば父はこういう人だったとサラは思い出した。人のやることなすこと頭ごなしに否定する。あまりに久々に顔を合わせるものだから今の今まで忘れていた。


 睨み合う親子にセザールがまあまあと割って入ってきた。

「このぐらいの年頃ではよくあることですよ空想の世界に浸るというのは。吸血鬼、良いじゃないですか。この町にいるなら是非私も会ってみたいものですなあ」


 馬鹿にしたような台詞にサラが反論しようと口を開くと、セザールは今度は彼女の方を向いた。

「何をおっしゃりたいかわかりますとも。しかしサラさん、シンチー様はお嬢様を心配するあまり厳しいことを言っておられるんですよ。部活動に熱心なのはいいですが、若い娘が毎晩出歩いて不埒な輩に目をつけられたら……ああっ想像するだけで恐ろしくて涙が。これでもお嬢様のことは歩き出す前から知っているので、実の娘のように思っているのです」

そう言ってわざとらしく目尻を拭う。


「涙が出ていませんよ」

指摘してやると、セザールは嘘泣きをやめた。声にこそ出さなかったものの口の動きで「クソガキが」と呟いたのをサラは確かに見た。


 しかし今はそんなことどうでもいい。サラはその鳶色の瞳でハオランをひたと見据えた。

「……どうでしょうね。父はわたしのために言っているのではないと思いますけど。だってこの人、娘が今の今まで出掛けていたことには何も言ってくれないんだから」


 ハオランがサラを叱責するのは彼女のためではない。世間体のためだ。今だって秘書の前で自分の面子を潰されたから怒っているのだ。

そうだ、映画館でデトリに言った言葉は全部嘘だ。父親はサラを愛してなどいない。それどころか憎んでさえいる。

 案の定ハオランは何も反論しなかった。ただ口を固く引き結んで俯いている。


「……出ていきなさい、サラ」

やがて彼が絞り出した言葉は先程と同じだった。

「わたしを信じなかったことを後悔するわよ!パパなんて吸血鬼に殺されちゃえばいい!」

サラは捨て台詞を吐いて、夜の町へ飛び出した。


 この時放った言葉を一生後悔することになるとも知らずに。



          *

 その晩、サラは結局あの吸血鬼に再び遭遇することはなかった。翌朝ばつの悪い思いをしながら家路についていると、サラの脇をサイレンを鳴らした救急車が走り去っていった。


 それを見た瞬間、サラは酷い胸騒ぎを覚えた。

 自宅まで走ると、玄関前の柵に何重にもテープが巻かれ、黒山の人だかりが出来ていた。


 「すみません、通して!通してください!」

周囲の制止を振り切って玄関の戸を開けると、中から出てきたのは警察官だった。


 「もしやこの家のお嬢さんですか?」

次に警察官の口から出たのは思い出すのも忌まわしい言葉だった。


 ━━貴方のお父様が自宅で倒れている所を発見され、先程病院に運ばれました。全身から血液が抜き取られており、意識不明の重体です。


 あの吸血鬼の仕業だ。そう理解するのに時間はかからなかった。サラは意識が遠のくのを感じた。

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