⑤恋
ハンター達を見送った後、ウェステンラは疲れ果てて聖堂の長椅子に倒れ込んでいた。起きた時には室内はすっかり暗くなりステンドグラスから月明かりが差し込んでいた。
ウェステンラの傍らにはラカムの秘書が置いていった林檎の籠があった。もう何十年と口にしていない生の果物だ。
艷やかな赤色の果実にウェステンラはどうしようもなく惹かれたが、口にしてはいけないとすぐに思い直す。
その途端聖堂の戸を叩く音がして、ウェステンラの心臓が跳ねた。風の音だと思い込みたかったが、その後も二度三度と続け様に叩かれ、否が応でも客人の来訪を認めざるを得なかった。
「誰だこんな時間に」
渋々と重い腰を上げ玄関の覗き穴を覗き込んだ瞬間、ウェステンラの心臓は止まりそうになった。
そこにいたのは漆黒の髪に爛々と輝く暗褐色の瞳をした美しい男だった。あのダーウェルが僅か数センチの扉を隔てた所にいる!
「良い夜だなルシウス」
ダーウェルはウェステンラを馴れ馴れしくファーストネームで呼んだ。
「や、やはり、貴様私のことを!」
吸血鬼はふっと笑って懐から煙草を取り出した。
「ああ一目でわかったよ、君があのいたずら好きの悪餓鬼と同一人物だと。懐かしい。変わらないな、この村も君も。アストリーが死んだ夜から何もかもそのままだ」
ダーウェルは煙を吐き出しながら歌うように言った。
「今日、私の家に鼠が入り込んだよ。呼んだのは君かなルシウス」
ウェステンラは今にも恐怖でどうにかなりそうだったが、ぐっと耐えて不敵に笑った。
「私を消しに来たのだろうが無駄な足掻きだ。既にお前のことは吸血鬼ハンターに全て話した!そしてお前は招かれない限り、私に手出しはできない!」
しかし吸血鬼ハンターという言葉を聞いてもダーウェルは余裕ぶった態度を崩さなかった。
彼はゆっくりと煙を吸い込むと、まだ大分長さのある吸い殻を投げ捨てた。
ウェステンラが眉を顰めていると下の方からかすかにチリチリと焼ける音がした。
ウェステンラの中に燃え盛るアストリー家の記憶がまざまざと蘇った。
「火を消してくれルスヴン!」
ウェステンラは扉を叩いて叫んだ。炎の音ははっきりと認識できるほど大きくなっていた。
「自分で消せばいい。まだ小火だ」
吸血鬼は神父の懇願には応じず二本目の煙草を吸い始めた。そして彼は慈愛に満ちた顔で笑った。
「大丈夫、君のことを見捨てはしない。ずっとここで見守っていてあげよう」
ウェステンラの悲鳴はごうごうと燃える炎にかき消された。
*
ケニンゲールが目を覚ますと白い砂浜の上にいた。ダーウェルの城下にあったごつごつした岩礁ではない。すぐ傍にはウシアが濡れた赤いドレス姿のまま膝を抱えていた。
「うっ……ここは?」
「どうやら二人とも気絶して違う海岸に流されてきたようです。ほら、あちらに教会の十字架が」
ウシアが指差す先には確かにウェステンラ神父の教会の屋根の先があった。
ケニンゲールはウシアが震えてるのに気付いた。
「待ってろ、焚き火を」
そう言って懐からいつも使っているライターを取り出したが、何度試しても点火出来ない。
「駄目だ。湿気っている」
ケニンゲールは肩をすくめて使い物にならなくなったライターを放り出した。
ウシアの横に並んで座ると彼女が口を開いた。
「ごめんなさい、わたくしのせいで」
「ああ、どうせ安物さ」
「そうではなくて。これから大変なことになりますよ。お父様は決してあなたを許さないでしょう。命が危ういかもしれません」
「お父様? ダーウェルじゃなくてか?」
ケニンゲールが尋ねると彼女はそっと目を伏せた。
「あの人はダーウェルなんかよりもよっぽど恐ろしい人です」
ケニンゲールは英国での諍いを思い出した。確かにあの男は不気味だった。
「あいつは何者なんだ? なぜ仮面なんかで顔を隠している」
「……父の顔にはとても人に見せられない醜い傷があるのです」
「傷?」
「昔愛し合った女性につけられたそうです。父は今でも彼女を憎んでいます」
「その女性というのはもしかして……あんたの母親のことか? 辛くないのか? 親がもう片方の親を憎んでいるなんて」
ウシアは無言で頭を振った。
どういう意味だろうか。辛くないということか?それとも──。しかし尋ねようとした時、既にウシアは立ち上がっていた。
「さあ、いつまでもこんなところにいては風邪をひいてしまいます。まずは着替えませんか? まだ服屋が開いているはずです」
まだ聞きたいことはいくらでもあるのだがそう言われては仕方がない。ケニンゲールはしぶしぶ立ち上がった。
村で唯一の洋品店は人の良さそうな老婆が経営する店だった。
水浸しの姿で二人が現れると老婆は大層驚いてシャワーまで貸してくれた。
洋品店にはいくつか銀細工も置いてあり、ウシアは「駄目にしたお詫びです」となんと綺麗な魚の模様が入ったライターをケニンゲールに贈ってくれた。
店内で買った服に着替え、二人は店を出た。ウシアは白いシャツに薄茶色のサスペンダーパンツを合わせた姿、ケニンゲールは同じく白いシャツにジーンズ姿になった。
「次はどうしますか?」
ウシアがそう尋ねた途端、ぐううとケニンゲールの腹が鳴った。ケニンゲールは顔を真っ赤にした。
「ちっ違うんだこれは」
「食事にしましょうか」
ウシアは微笑むと「あちらからいい匂いがします」と言ってケニンゲールの手を引っ張っていった。
二人が入ったのは古びた小さな酒場だった。一番奥の壁際の席に腰を落ち着け、運ばれてきた魚のフライを口に放り込んでビールで流し込むとケニンゲールはようやくほっと息を吐いた。
「あんたは何か頼まないのか?」
ぼんやりと店内を眺めているウシアに尋ねると彼女は首を振った。
「わたくしは大丈夫です。食欲が湧かなくて」
その時ウェイトレスが、運んでいた大量のグラスを落とした。
派手な音がして床にビールとガラスの破片が散らばる。
「ああっやっちゃった!」
ウェイトレスは焦った様子で破片を拾い集めようとして手の平を切った。
その光景を見ていたウシアの瞳孔が広がる。
「ウシア?」
突然黙りこくったウシアをケニンゲールが怪訝な顔をして見つめるが、ウシアは心ここにあらずといった様子で立ち上がり、ふらふらとウェイトレスの方へ歩いていった。そして彼女はウェイトレスの手をとると恍惚とした表情で傷口を嘗め出した。
ウェイトレスは初め何が起きているのかわからない様子だった。しかしウシアがいつまでも離れないとみると青ざめた顔で叫んだ。
「こ、こいつっあたしの血を吸ってる!」
周囲は騒然となった。客達はウェイトレスからウシアを引き剥がそうとする者、店から逃げ出す者、武器を取りに走る者など三者三様の反応を見せた。
「やめろっ違うんだ!」
ケニンゲールは酒瓶でウシアに殴りかかろうとする男を止めに入り頭部を殴られた。
意識が薄れ、喧騒が遠のいていく。ケニンゲールは最後に誰かの笑い声を聞いた気がした。
*
次に目を覚ました時ケニンゲールは埃の積もった床の上にいた。
一体ここはどこだ?
起き上がろうとしたが腕が上がらない。それどころかまるで首から下が消えて無くなってしまったかの様に一切の感覚がなかった。
「おや、起きたようだね」
軽やかだが無機質な声に目玉だけを動かすと、目の前に黒檀で出来た棺桶があり、その上に一人の男が腰掛けていた。
いけ好かない野郎だ。男を一目見た瞬間ケニンゲールはそう思った。
なんと表現したものか、外面を取り繕うため香水を振り撒いているが、それが染み付いた死臭と混じり合い悪臭を放っている、そんな男だった。
「ここは一体どこだ?」
男はひっそりと笑った。
「君は今ルスヴン卿の霊廟の中にいる」
その名を聞いたケニンゲールはさっと青褪めた。
「じゃあてめえがルスヴンか」
「今はダーウェルと名乗っているがね」
「そんなことはどうでもいい! てめえ何が目的だ!?」
「落ち着きたまえ。今はまだ君に危害を加えるつもりはない。花嫁との婚礼が終わるまでは」
「花嫁……?」
ダーウェルが指を鳴らした。その途端、ケニンゲールの背後の扉が勢いよく開き、冷たい風が吹き込んでくる。
自由を奪われたまま目玉だけを動かすと、そこにいたのは純白のドレスに身を包んだウシアだった。
彼女はケニンゲールに気付いていない様だった。虚ろな目で前を見据えたまま滑るような足取りで脇を通り過ぎていく。
いつの間にか棺桶から降りていたダーウェルは恭しい仕草で彼女を迎え入れた。
「ウシア、そいつから離れろ!」
ケニンゲールは叫ぶが、ウシアは足から根が生えた様に動かなかった。すぐにその原因に思い至った。ダーウェルの権能だ。今ケニンゲールが動けないのも酒場での騒動もこいつが引き起こしたのだ。
「くそっ彼女に触るな!」
今度はダーウェルに向かって叫ぶと、奴は肩をすくめた。
「自分の花嫁に触れるのになぜ他人の許可がいるのだ?それも私の屋敷を燃やした相手からの」
「屋敷を燃やした?」
身に覚えのない話に眉を顰める。
「とぼける気か? かわいい狼に睡眠薬入りの肉食わせて眠らせ、中庭の木に火を放っただろう。私は君が窓から花嫁を連れて飛び降りる姿も見ている。だから私もお返しに村の友人と旧交を温めさせてもらった……彼、ウェステンラ神父は熱くなりすぎて消し炭になってしまったが」
ケニンゲールは激昂しかけたがかろうじて耐えた。とにかく会話を引き延ばして隙を伺うのだ。
「お前はなぜ自分の妻を殺す!?」
ダーウェルは肩をすくめた。
「なぜって。これでも私は敬虔なカトリック教徒なんだ。死別しないと次の結婚が出来ないだろう?」
そんな単純なこともわからないのかという口振りだ。
「そんなに警戒しなくて大丈夫さ。式が終わるまで君を殺しはしない。二人の愛が認められるには司祭の立ち合いが必要だ」
「何が愛だ。意識を奪わねえと女一人繋ぎ止めておけねえくせに。吸血鬼と人間の間に愛なんて生まれるわけねえだろうが」
その瞬間ダーウェルが盛大に吹き出した。
「ふっふふ……ふふふ……」
「なんだよ!」
「その言葉、是非あの男にも聞かせてやりたいものだ」
「あの男……?」
ダーウェルがふう、とため息を吐いた。
「昔、吸血鬼の女に心を奪われた一人の愚か者がいたのだ。そいつは女と共に永遠の時を生きるため、なんと自らを吸血鬼にしてくれと私に頼み込んできた。……君、人間が吸血鬼になる方法を知っているかね?」
突然問われてケニンゲールはまごついた。人間が吸血鬼になれるだと?
そんな話は聞いたことがない。
「さあな。知りたいとも思わないね。俺ならそんなことは死んでもご免だ」
ダーウェルは困った坊やだと呟いて、話を続けた。
「人間を仲間にする方法を知る者は少ない。君には特別に教えてあげよう。人間を吸血鬼にする方法、それは強い想いを持って吸血鬼自らの血を人間に流し入れることだ」
「想い?」
「対象の人間に対する強い親愛の情だよ。男は女と共に生きるためなら家宝の指輪を差し出すとまで言って私に懇願した。私はその期待に応えてやった」
しかし、とダーウェルは途端に沈痛な面持ちになった。
「儀式は完遂出来なかった。女吸血鬼は男を心から愛していなかったのだ」
「その男はどうなったんだよ」
「哀れなことに男は吸血鬼にも人間にもなり切れない怪物になってしまった。さて、今はいったいどうしているのか。なにせ八十年以上前の話だ。果たして彼は永遠の命を手に入れたのか否か、それは誰にもわからない」
ケニンゲールはいつしかダーウェルの話に惹き込まれていた。感傷に浸っていると吸血鬼が急に冷酷な笑い声をあげた。
「何がおかしい」
刺々しく尋ねると奴は一層激しい笑い声をあげた。
「私はね、儀式が失敗に終わることを知っていたのだよ。全て私が計画したことなのだから。私があの男に女吸血鬼を差し向けたんだ」
「なぜだ……なぜそんなことをする……」
ケニンゲールは絶句した後、ようやく言葉を絞り出した。するとダーウェルは涙を拭いながら答えた。
「昔から好きなんだ、人が自ら破滅に向かう姿が」
「っ!」
戦慄した。会話は通じるのに理解できないという経験は初めてのことだった。
「お前は俺が今まで出会った吸血鬼の中でも最低最悪の外道だ」
「最高の賛辞をありがとう。さあ、そろそろ余興は終わりだ」
いつの間にか吸血鬼の手には銀色に光る指輪が握られていた。
「見てご覧。これはあの憐れな男から預かった指輪、カーン家に伝わる家宝だ。私の花嫁にこそふさわしい。さあ花嫁、手を出して」
「駄目だウシア、そいつに従うな!」
静止も虚しくウシアは促されるまま手を差し出した。
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