⑨暗転
デトリは己の左腕を見て顔を歪めた。ツェペシュとの戦闘で力を使ってからずっと血が止まらない。契約違反の罰だ。
猟犬が力を使うには主であるハンターの許可がいる。左腕に刻まれた十字架の刺青は契約の印だ。主に無断で力を使用すれば、印から苦痛が与えられ、主人に居場所が知らされる。
教会から逃げ出して十年、とうとう恐れていたことが起きた。主人に自分が生きていることが知られた。その手で廃棄したはずの猟犬が生きていたとあれば、あの方が黙っているはずがない。
「くそっ」
腹立ちまぎれに寄りかかっていた壁を殴る。
人間なんかに関わるからこうなるんだと頭の中でもう一人の自分が罵る。なぜあんな小娘一人放っておけなかったのか。それは彼女を突き動かしているものが肉親への愛情だったからだ。あんな風にまっすぐひとを愛せるのが、妬ましくて、羨ましくて、眩しかったからだ。自分は絶対あんな風にはなれないから。
でも、裏を返せばただそれだけのことだった。サラ個人に対して特別な情などない。今後自分の預かり知らぬ所で幸せになろうが不幸になろうがどうでもいい。たとえ二度と会えなかろうが━━未練などなかった。
ともかく一刻も早くこの国を出なければ。暗い内に徒歩で距離を稼いで、朝になったら廃屋に隠れてやり過ごそう。まだ力は一度しか使っていない。私がこの国にいることは既にばれているだろうが、それ以上の情報は握っていないだろう。国境を越えて二度と力を使わなければ主人は私を追えない。
月が沈む頃、ようやく市の外れにたどり着いた。何もない道沿いに遊園地の跡地があった。広大な駐車場の奥に竹馬をしているピエロを模した、ペンキの剥がれ掛けた入場ゲートがそびえ立ち異様な存在感を放っている。
脇を通りすぎようとした時、スピーカーの電源が入る音がした。次の瞬間、賑やかな音楽が流れ出す。
ぞっとして立ち止まると、ゲートの向こうで誰かが駆け回っているのが見えた。風になびく鮮やかな赤い髪が目に焼きつく。
「……サラ?」
返事はなかった。
嫌な予感がする。ゲートを潜ってはならないと脳が警告を発している。しかし今見たのが本当にサラだったら?
葛藤の末、デトリはとうとう遊園地へ足を踏み入れた。
*
遊園地の中には誰もいなかった。踵を返そうとしたその時、視界の端に人影が横切った。
「っ……!」
振り返るとあの赤毛の女性がアトラクションの一つへ吸い込まれていく所だった。
それは屋内型のアトラクションで入り口の看板には「メイズ」という文字と共に入場ゲートと同じピエロのイラストが描かれている。
「サラ!」
中へ飛び込むと突然数十ものこちらを睨む赤い瞳に取り囲まれた。よく見るとそれは自分のものだった。
どうやらここはミラーハウスらしい。不可解なことに館内には電気が通っていて音楽も鳴っていた。怪しいネオンの光で通路が照らされている。
「私が悪かった。謝るから出てきてよ」
そう呼びかけながら彼女の姿を探す。
自分と一緒にいる所をハンター達に見つかれば彼女も追及を免れない。そうなる前に早く家に帰さなくては。
体感で迷路の三分の二まで進んだ時だった。いい加減じれったくなって叫んだ。
「サラ、遊んでる場合じゃないんだ!今すぐ出てきて━━」
「昨日ぶりだな猟犬」
呼び掛けを遮って信じられない声が降ってきた。
「ヴォイド・ツェペシュ……」
それこの手で殺したはずの同族の声だった。
くっくっと喉を鳴らして笑う音が館内に響く。
「お前……なぜまだ生きている」
昨日、この男が太陽に灼かれて消える姿をこの目で確かに見たのに。
「権能を使ったのよ。俺はアブラコウモリに変身することが出来る。身を焼かれながら変身してスーツの中に隠れたんだ。危ない所だったぜ、本当に焼け死ぬところだった」
「そんな……!じゃあ、サラは!あの子は無事なのか!?」
「他人のことを気にしている場合か?」
ツェペシュはデトリの問いを一蹴して高らかに宣言した。
「さあ、狩りを始めようじゃないか。今度は猟犬、お前が狩られる番だぜ」
*
嘲るような笑い声が響く。
「ほらほら早く逃げねえとまた傷が増えるぜ」
「ぅぐっ!あぁっ!」
声のした方を向くが全く別の方向から切りつけられる。鏡像のない相手に鏡の世界で戦うのはあまりに不利だった。
吸血鬼の再生力も追いつかず、デトリはみるまに血塗れになった。
とうとう力尽きて地面に倒れた頃ツェペシュがようやく姿を現した。
「くっあはは!まさかこんな単純な手に引っ掛かるとは!ざまあねえな猟犬。シンチーの娘が今更お前なんかに構うと思ったか?ほら、助かりたけりゃ地面に額を擦り付けて懇願してみろよ」
得意気に捲し立てるツェペシュを見ている内デトリにある疑問が沸いた。
「……待てよ、サラがここにいないなら誰がお前をここに引き込んだんだ」
ツェペシュの動きが止まった。腹に一物も二物も抱えていますといった表情でこちらを見下ろしている。
「お前のことをようく知っている奴さエルシーちゃんよ」
時間が止まった様な心地がした。からからに乾いた喉から声を絞り出す。
「なんでその名を……じゃあこの状況を仕組んだのは……」
「あたしよ」
その声を合図にツェペシュの背後から修道服の男女が続々と現れた。首には杭を二つ組み合わせた様な特殊な形の十字架を下げている。
そして最後にヒールの音を響かせて現れたのは、同じく黒い修道服に身を包んだ美しい女だった。
黄金に輝く髪、薔薇色の頬、そして青空を閉じ込めたかのような青い瞳。
「ご主人様……アミーラ様……」
見間違えるはずがない。それはかつてデトリが仕えていた主その人だった。
吸血鬼ハンターのアミーラは這いつくばる元下僕の傍らにそっと屈み、彼女の顎を掴んで持ち上げた。
「久しぶりねエルシー」
「ご主人様、これは……あぐっ!」
アミーラは花が綻ぶような笑みを見せると次の瞬間、その顔を渾身の力で殴りつけた。
「不思議なこともあるものね。廃棄したはずの猟犬が動いて喋っているなんて」
「申し訳ございまっ……うぐっ」
デトリは謝罪の言葉を口にしたがそれが余計癇に触ったのか、主人はますます怒りを露にして立ち上がり、何度も下僕の身体を蹴りつける。
「だから!その卑屈な口調はやめろって何度も教えたでしょうが!」
黒い靴が真っ赤に染まる頃、ようやく静止が入った。
「もう気絶してる」
ツェペシュに肩を叩かれてアミーラは動きを止めた。
「──ああ、あたしとしたことが、少し熱くなりすぎたわ」
息を弾ませ頬を紅潮させている彼女にツェペシュはひきつった笑みを見せた。
「おい、とっととずらかろうぜ。もし民間人に見つかったら面倒だ」
「ええ。こいつを始末したらね」
アミーラが腕を天に掲げると、白い光が集まって短剣になった。
今まさにそれを振り上げ裏切り者の心臓に突き刺そうとしたその瞬間だった。
「ちょっと、何してるの」
無人のはずの廃墟に突然若い女の声が響いた。ハンター達が振り返ると人間がいた。燃えるような赤い髪、それはサラだった。
*
アミーラがため息を吐いて手を下ろす。すると光で編まれた剣も消えた。
「どうしてここに……」
ツェペシュがぼそりと呟いた。
「あなた一体何者?デトリとどういう関係?そのひとに何をしたのよ!」
サラは輪の中心にいる女を睨みつけた。
「危険な吸血鬼を退治していたのよ人間のお嬢さん」
アミーラは落ち着き払って答えた。
「こいつはね、本来もう殺処分されているはずだったの。民間人に被害を出す前に始末しに来たのよ」
「そのひとは誰も襲わないわ!大体何の権利があってそんなこと言っているの!?」
その時になってようやくデトリの意識が戻った。
誰かが言い争う声が聞こえてくる。
「サラ…………?」
霞む視界に赤毛が揺れるのが映った。
「いいから通して!」
サラがハンター達を掻き分けて輪の中へ入ろうとした。アミーラはため息をつくと腰のホルダーから拳銃を取り出した。
「ああ、うるさいわね」
一発、二発と銃声が響いた。
「え…………?」
デトリの意識はようやく完全に覚醒した。すぐ目の前に人間の女性が倒れていた。
赤い髪が床に広がって花の中に寝転んでいる様だった。
「サラ……サラ!」
返事は返ってこなかった。いつもの生命力に溢れた彼女の顔は今や紙のように白くなっている。
「なんでっ……同じ人間なのに……!」
そう詰られてアミーラはなんでもないことのように肩を竦めた。
「いやね、ハンターのあたしが手を下したのだから吸血鬼に決まっているでしょう?ねえ見ていたわよね。あたしが今撃ったのは人間だった?」
傍らに控えていた猟犬に問い掛ける。 彫像のように整った顔立ちの男の猟犬は無表情で答えた。
「…………いえ、あれは吸血鬼でした」
「ほら、これでわかったでしょう?廃棄物のお前の所有物にも価値なんてないのよ」
ハンターは勝ち誇った顔でデトリの傍らにしゃがみこんだ。
再び光の剣を作り出し、それをデトリの心臓に突き刺す。
完全に動かなくなったことを確認して、ハンターは剣を引き抜いた。
「全てから解放してあげる。今日限りで本当の本当にお前は自由よ……ってもう聞こえてないか」
デトリがいた場所には黒い塵だけが残されていた。
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