⑧父親

 エレベーターが鈍い音を立てて止まった。


 最上階は階下の喧騒が嘘のように静まり返っている。無機質な灰色の扉が左右に等間隔に並ぶ廊下をブラッドレーは迷いのない足取りで進んだ。


 向かうのは最奥の部屋だ。


 扉は自動で開いた。部屋は薬品の匂いがした。広い空間の中央に重厚な色をした木製のデスクが置かれその奥に頭髪の禿げ上がった痩せこけた老人が腰掛けている。


 身体のあちこちに管を刺され、かろうじて命を繋いでいるといった有り様だ。


 この老人こそが聖ヘルシング修道会の最高指導者、ジェローム・ラカムだ。


 老人はブラッドレーの姿を認めると沈んだ面持ちで口を開いた。


 「いつか来ると思っていたぞエリック……」


 ブラッドレーは荒々しい足取りでデスクに向かうと老人の胸ぐらを掴んで持ち上げた。輸液バッグが吊るされていたスタンドが音を立てて倒れる。


 「あの女はどこにいる!?」


 老人は弱々しく抵抗する素振りを見せた。


 「彼女は私のものだ……」

 「そんなことは今更どうでもいい! 腹の中に子供がいただろ! 俺の子は、エルシーはどこにいる!?」


 老人が抵抗をやめた。


 「ふっ……ふふ……」

 「何が可笑しい」


 ブラッドレーが凄むと老人は黄色い歯を剥き出しにした。


 「あの猟犬ならほんの一年前に殺処分にされたよ」          

 

 ――もう八十年も前になる。

 あの女は言った。「あなたと永遠に一緒に生きられる方法をついに見つけたの」と。


 しかし俺は躊躇った。既に仕えるべき神も仲間も裏切り堕落しきった身だったが、まだ微かに残った良心がここで引き返せと告げていた。


 「マノン、すまないが……」


 意を決して断りの言葉を口にしようとした時だった。彼女が俺の手を取って自分の腹に当てた。

 

 「ねえ、何か感じない?」


 その言葉で彼女が何を言わんとしているのか悟った。


 「まさか……」

 「そう、そのまさか。胎動もまだだけれど、知り合いの占い師に聞いたら女の子ですって」


 そう言って彼女ははにかんだ。彼女は放心状態の俺の手を掴んで腹を撫でた。


 混乱が落ち着いてくるにつれ、ある考えが頭に浮かんできた。


 この子は人間と吸血鬼、どちらなのだろう。

 

 もし吸血鬼の血が濃かったら、いやどうだろうが関係ない。この子はきっと人間と吸血鬼、どちらの世界でも爪弾きにされてしまうだろう。この子を産んだ彼女だって同族から追及されることは必至だ。


 女を見上げると、何の憂いもない表情で微笑んでいる。


 俺は全てを諦めて笑った。彼女の腹に自分から頬を寄せ、彼女とお腹の子、二人に囁いた。


 「何があってもずっと傍にいてやるからな」


 そして俺は彼女の提案を、吸血鬼の仲間になるという提案を受け入れた。

  


 ブラッドレーが我に返るとラカムが下卑た笑みを浮かべながら捲し立てている所だった。


 「お前を追放し、全てが順風満帆だった。ただ一つだけ汚点が残ってしまった。お前の子だよ。見掛けるたびに忌々しい気持ちにさせられた。いつか殺してやろうと機会を伺っていたが、昨年とうとうあやつは命令違反を犯した。もちろん速やかに殺処分の許可を出したよ。これでお前そっくりのあの顔を見ないで済むと思ったら清々しくてならなかった」

 

 言葉を重ねるごとに彼の目は生き生きと輝きだした。若い頃に思考が引っ張られて言葉遣いまでも青年の時に戻っていた。


 「お前のことがずっと目障りだった。優秀なのは私の方なのに問題行動ばかり起こすお前の方を皆が慕った。師匠もいつもお前にばかり目を掛けたな。先に弟子になったのは私なのに。だがどうだ?最終的な勝者は私の方じゃないかっ。教会も、愛も全て手に入れたのは私の方だ!」

 

 「もういい」


 ブラッドレーは彼の言葉を途中で遮った。


 「もう貴様は口を開くな」


 ブラッドレーはラカムの首に手を掛け、花を手折るよりも容易く捻り上げた。


          *


 ケニンゲールとウシアが院長室に辿り着くと、ブラッドレーが憔悴した様子で椅子に凭れていた。


 二人に気付くとブラッドレーは酷く大儀そうに顔を上げた。


 「なんだお前らか。俺は今気分が悪い。死にたくなければ消えろ」


 二人の目の前には変わり果てた姿のラカムが転がっている。


 ケニンゲールはラカムの元へ駆け寄った。抱き起こすと細い腕が力なく垂れる。


 「そんな、師匠……ブラッドレーてめえ殺してやる!」


 ケニンゲールは激昂して叫んだ。

 ウシアは努めて冷静に感情を抑えて説得した。 


 「投降してください。囚徒達は全員降伏しました。今ならまだ命だけは保証します。ダーウェルも……かつての仲間までも手に掛けて、望みは全て叶ったでしょう? これ以上罪を重ねないでください」

 

 しかしブラッドレーは乾いた笑いをあげるだけだった。


 「命? そんなものどうでもいいさ。もう全てが手遅れだ」

 「どうでもいいだと? 全てお前が始めたことだろうが。勝負を投げる気か?」


 ケニンゲールが詰め寄る。ブラッドレーが暗い目でケニンゲールを睨んだ。


 「──ああ、うっとおしい」


 彼の手が床に触れる。床の亀裂が蛇のようにのたくってケニンゲール達の元に迫る。


 ケニンゲールは咄嗟にウシアを突き飛ばした。床板が粉々に崩れ鉄骨が剥き出しになる。ケニンゲールは落下する寸前咄嗟に鉄骨に両手足を絡めてしがみついた。


 ほっと息をつく間もなく今度はケニンゲールの手に痛みが走った。上の方に目を向けるとブラッドレーが笑いながらケニンゲールの手を踏みにじっていた。


 「どうした? 勝負するんじゃなかったのか?」


 しかしケニンゲールは中々手を離さなかった。焦れたブラッドレーは舌打ちをして今度は鉄骨に手を掛けた。ブラッドレーの触れている所から亀裂が広がっていく。

 

 「くっ」


 その時、ケニンゲールはブラッドレーの頭上にあるものを見た。懐に手を入れ、ウシアからもらったライターの火をつけ頭上に投げた。途端にスプリンクラーが作動しブラッドレーが水浸しになる。


 「俺の祝福は直接手で触れていないと発動しないっ。お前はもう祝福を使えないっ」


 馬鹿か、とブラッドレーが吐き捨てる。


 「こんなものすぐに乾いてっ……」

 「わたくしもいることをお忘れですか」


 その時ブラッドレーの背後にいたウシアが彼の言葉を遮った。彼女が指を振るうと水が球体になりブラッドレーの顔を覆った。


 息が出来なくなったブラッドレーは鉄骨から足を踏み外した。


 そのまま落ちるかに思えたが、本能的な行動なのかブラッドレーはとっさに鉄骨を掴んだ。しかし指が滑り、ついには片手でぶら下がるだけになった。

既に傷んでいた鉄骨に男の体重が掛かり激しく軋む。

 ケニンゲールはウシアを地面に下ろし、ブラッドレーの最期を見届けるために近付いていった。


 彼はウシアを見て、それからケニンゲールを睨んで地の底に響くような声で言った。


 「……最後に一つ忠告してやろう。女は裏切るぞ。それも吸血鬼の女は」


 鉄骨が折れる。

 ケニンゲールとウシアは穴から身を乗り出して落ちていくブラッドレーを見守った。


 彼は顔面から数十m下の地面に激突した。ケニンゲールの目に白い仮面が砕け散る様子がありありと映った。そしてその背中に折れた鉄骨が突き刺さる様子も。


 ウシアはその場に泣き崩れた。その肩を抱いてケニンゲールは言った。


 「大丈夫、もう終わったんだ。全て」


           *

  一年後。


 「悪い、遅くなった」


 ケニンゲールが院長室に飛び込むと、既にウシアがいて、暇を持て余した様子で熱帯魚の水槽をつついている所だった。


 事件の後聖ヘルシング修道会の本部は補修工事が行われた。

 院長室の内装は以前と様変わりしていた。かつてはすっきりと整頓されていた部屋が今は乱雑に散らかっている。灰色の事務用デスクの上に書類や封書が山と積まれ、天井の梁にはワイヤーが通され、そこに洗濯バサミで挟まれた新聞の切り抜きや写真がいくつもぶら下がっている。


 部屋の隅には観葉植物の鉢やキャビネットが寄せられ、ウシアの希望で熱帯魚の水槽も置いてある。


 この部屋は現在ケニンゲールのものだ。自分の死期が近いことを見越していたラカムが彼を後継者に指名する遺言を書いていたのだ。


 この部屋の中のもので彼の所有でないものはない。ウシアでさえも。


 彼女は事件の後ケニンゲールの猟犬になった。

 

「寒かったでしょう。頭に雪が積もっていますよ。今お茶を入れますね……ケニンゲールさん?」


 ウシアがコンロの方へ向かうのを止め、不思議そうに振り向いた。ケニンゲールが無言で彼女に抱きついたからだ。


 「どうされたんですか」

 「渡したいものがあるんだ」


 彼が差し出したのはベルベット生地の小さなケースだった。

 ウシアが震える指でそれを開けると中には小さなダイヤのついた指輪が入っていた。


 「これ……」

 「ああ、どうか受け取ってくれないか」


 ウシアの指にはまだ指輪がはまっていた。指輪はカーンの家宝、かつてはブラッドレーが吸血鬼の女に送ったというあの指輪だ。


 ブラッドレーとの決着が着いた直後、本部ビルは倒壊した。元々老朽化していたのに加え崩壊の祝福を受けたせいだろう。


 幸いハンター達は全員すぐに避難したため怪我人はいなかったが、ブラッドレーは取り残されたままだった。後になって捜索したが奴の遺体はついぞ見つかることはなかった。


 それ以来ウシアはずっと弔いのため指輪をつけ続けている。


 「すぐにでなくてもいい。だがいつか君につけてほしいと思っている」

 「ケニンゲールさん……」


  急に気恥ずかしくなったケニンゲールはぱっとウシアから離れて咳払いした。


 「っと、急かすようなこと言って悪かったな。そんなに深刻に考えないでくれ。単に君に似合うと思って買っただけなんだ」

 「わかりました」

 「そうだよな。やっぱり重かったよな。忘れてく…………え?」


 予想外の返事に顔を上げると、ウシアが微笑んでいた。彼女の手には指輪のケースが大切そうに握られていた。


 「お待たせしてしまうかもしれませんが必ずあなたの気持ちに答えます」

 

 二人はどちらからともなく身を寄せ合い、並んで窓の外を眺めた。

 水平線の向こうで太陽が沈もうとしていた。闇の生き物の時間が始まる。


 「いつまでも待つさ。俺達にはこれから長い時間があるのだから」

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ヴァンプマン サプライズ吸血鬼理論 @kusodekadekadan

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