それぞれの思い(3)

 練習はすでに三度目だったが、ライラはまだ、ネイザンの補助なしで自転車に乗ることができなかった。

 今日もあっという間に日は傾き、冷たい風に指先も頬もじんじんとしだす。それでもライラは、ペダルを漕ぐ足を止めなかった。もちろん、ネイザンも諦めない。飽きもせずに、いつも公園の瓦斯燈がすとうが灯るまで、ライラにつきあってくれる。


「いいぞ、いいぞ。もう少し、頑張れ」

「う、うん。まだ、離さないで」

「大丈夫。僕を信じて」

「もちろん、信じてるけど」

「それは、ありがたい」

「ネイザン、前から人が来てるみたい」


 トップハットを被り杖を手にした老紳士が、石畳の上をこちらへと向かって来るのが見えた。ライラはふらつきそうになり、ハンドルを強く握る。


「ねえ、ネイザン、どうすれば……ネイザン?」


 ライラは肩越しにネイザンの姿を探す。しかし、自転車の腰掛けを支えているはずのネイザンは、どこにもいない。


「ネイザン、どこなの?」

「ハンドルを右にきって!」


 ネイザンの叫び声が聞こえ、慌ててライラはハンドルを右へと思い切り曲げた。


「きゃあ!」


 途端にバランスを崩し、体が宙に舞う。回転する景色が、コマ送りのように映った。もうだめだと思った次の瞬間、激しい音をたてて自転車が地面にぶつかり、ライラも何かに衝突した。


「うっ……」


 とっさに目を瞑り身構えたが、さほど痛みはない。とはいえ、無傷とはいかないだろう。ライラは恐る恐る目を開けた。


「危機一髪……いたた」


 間近にあるのは、ネイザンの整った顔。


「えっ?」


 驚いたライラは目を瞬く。

 痛みがないのも当然だ。ライラは、ネイザンを下敷きにしているのだから。どうやら、自転車から投げ出された体を、ネイザンに抱きとめられたようだ。


「ごめんなさい!」


 すると、ネイザンの手のひらが、そっとライラの頬に触れてくる。


「どこか痛いところは? 怪我はない?」

「私は、平気。ネイザンは?」

「鍛えているから、これくらい何ともないよ」

「びっくりした。突然、手を離すんだもの」


 安心したライラは自然と微笑んだ。


「そうだ、一人で自転車に乗れたんだ。よくやった!」


 ネイザンはそう言うと、ぎゅうっとライラを抱きしめてきた。


「えっ……あの……」

「一人で乗れたんだよ。ライラは、自転車に乗れた!」

「う、うん」

「夢がひとつ叶ったんだ!」


 自転車にはじめて一人で乗れたライラより、手伝ってくれたネイザンのほうが喜んでいる。


「すごいぞ、ライラ!」

 

 しかし、それどころじゃない、というのがライラの心境だった。

 地面に横たわったまま抱き合っている状態だ。とにかく、とても恥ずかしい。ライラは、どうにか逃れようと身じろぎするが、勝手に盛り上がっているネイザンはなかなか離してくれない。


 そこで、咳払いがひとつ、上から落ちてきた。


「こんなところで、みっともない」


 通りかかった老紳士が、渋い顔で見下ろしている。


「きゃっ!」

「うわっ!」


 二人は慌てて体を離し、飛び上がるように立ち上がった。

 ライラはきまりの悪さを誤魔化すように、熱心に服の泥を払う。ネイザンは愛想笑いを浮かべ、「良いお天気ですね」と、老紳士に話しかける。


「曇っているし、もう日暮れだ」


 呆れたように言うと、老紳士は立ち去っていった。


「警官の制服を着ていたら、大目玉をくらっていたな」


 ネイザンは、胸を撫で下ろしたように、ふう、と息を吐く。

 若い男女がひと目もはばからず一緒にいるのは、はしたないとされている。年配者が難色を示すのも仕方なかった。自由恋愛が許されている労働階級とは違い、上流階級のネイザンならばなおさら注意を払わねばならないだろう。


「練習、今日で終わりにしようかな」


 ライラは、ネイザンにこれ以上迷惑をかけるわけにはいかないと思った。


「まだまだ練習しないと、とても道では乗れないだろ」

「一度、乗ってみたかっただけだから。もう、じゅうぶんだよ」

「まさか、僕に気を使ってる?」


 ネイザンが、疑うような視線を向けてくる。ライラは、左右に首を降る。


「そうじゃなくて……だからその、怪我をして、仕事ができなくなると困るの」

「なるほど」


 どうやらネイザンは納得してくれたようだ。


「本当にありがとう。じゃあ、そろそろ……」

「だったら次は、あれがいいかな」

「えっ?」

「次は、舞踏会に行きたい、を叶えよう」


 ネイザンは、左手でライラの右手を軽く握り、右手を背中に添えた。それから何を思ったのか、ライラをリードして、ステップを踏みはじめる。


「舞踏会に行くのなら、ダンスの練習だ」

「ま、待って。私、踊れない……!」


 ライラは、くるくると体を回転させられ、目が回りそうになった。


「僕に合わせて動けばいいだけだから」

「無理、無理、無理、止まって!」


 ライラは、足を踏ん張り、ネイザンの体を押しやる。


「わ……私、舞踏会で踊りたいわけじゃないから」


 くらくらしながらも、真剣な表情で言った。


「流行のドレスや、宝石が見たいの。本物の貴婦人たちが、どんな宝飾品を身に着けているのか知りたいの。だけどそんなの、夢のまた夢だわ」


 庶民のライラが、上流階級のきらびやかな舞踏会に足を踏み入れることなど不可能だ。たとえネイザンでも、ライラを貴族令嬢に仕立て上げることはできない。


「その夢も、僕が手伝うから、叶えよう」

「どうやって?」

「近々、オウロ劇場で仮面舞踏会が催される。舞踏会には僕がエスコートするよ」


 驚いたライラは、口をぱくぱくと開いた。


「か、仮面舞踏会? 私が?」

「王族も密かに参加すると噂される、それなりの舞踏会だ。きっと、期待以上に着飾った、豪華絢爛な貴婦人たちにお目にかかれるはずだよ」


 ネイザンは、さらりと言う。

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