宝石工房の面々(1)
灰色の空から雪が舞い、街路樹の裸木を白く染め、氷の花を咲かせていく。王都にいながら遠く離れた故郷をふと思い出す、冬の景色だ。
赤毛の長い三つ編みを一本、背中に垂らした娘は、左耳を片手で塞いで空を見上げていた。消炭色の外套を羽織り、ありふれた編み上げブーツを履いた、どこにでもいる素朴な娘である。ただし、金色を帯びた緑色の、神秘的で珍しい瞳をしていた。
娘の名はライラ・アルモンド。年は十八になったばかりの宝石職人だ。
機械産業と貿易で大きな発展を遂げたグロノア王国は、王都ノクトンを中心に富や財宝を集め、宝飾産業までもさかんにした。ライラのような田舎から出てきたばかりの娘が、宝飾店の仕事にありつけたのは、都会での人手不足のためだ。
ライラはほぼ毎日、夜明けとともに家を出て、職場の工房へと向かう。晴れの日も雨の日も、そしてこんな雪の日も。
「魔女の静寂だ」
白い息を吐きながら、無音の世界に佇むライラはつぶやいた。
雪を被ったガス燈や店の看板まで、魔法で眠らされているように見える。
ライラは、静かな早朝の街が好きだ。このときだけは、音のない世界がデフォルトだと感じるから。
薄っすら凍った石畳の道に、誰かの足跡を見つけた。中流階級が多く暮らす地域とはいえ、ライラと同じように早起きの労働者が他にもいるのは当然だろう。
「急がなきゃ」
両手でスカートの裾を持ち上げ、慎重に一歩を踏み出したときだ。
唐突に、「待て!」と叫ぶ男の声が、左耳に飛び込んでくる。ライラは急いで辺りを見回した。
「止まるんだ!」
布袋を抱えた少年と、制帽を被った青年が、大通りから路地へと駆けてくるのが目に入った。二人は、ぐんぐんとライラのほうへ近づいてくる。少年の布袋から、白くてまんまるとした根菜が飛び出し、ごろんと道へと落ちた。少年を追う青年が、転がった根菜を飛び越える。
「邪魔なんだよっ!」
左耳へ届く、声変わり前の高音。
どん、と右側に衝撃を感じ、ライラはその場に尻もちをついた。少年がすれ違いざまに、ライラの体にぶつかったのだ。
「クソっ」
少年を追うのを諦めたのか、青年はライラの脇で立ち止まる。制帽をはじめ、袖なしの黒い外套に、携帯したサーベルや拳銃から、彼が軍警察であるのにはもちろん気づいていた。少年が抱えている布袋は、どこからか盗んできたものなのかもしれない。少年は何度か後ろを振り返ったのち、あっという間に路地を走り抜けていった。
青年が何か言いながら、ライラの隣にしゃがみ込む。右耳が聞こえないライラはそれに気づかず、道に転がる白い根菜を見つめていた。根菜はどうやら、白カブのようである。
重量感がある白カブは、見るからに美味しそうだった。みずみずしい食感を想像して、ごくりと喉が鳴る。
他の野菜と一緒に細かく刻んで、チキンストックで煮込みたい。
ライラが一心不乱に白カブのことを考えていると、いきなり目の前に、七芒星の帽章とやけに端正な顔があらわれた。どうやら、青年に顔を覗き込まれているようである。
「大丈夫ですか?」
「は、はいっ」
驚いたライラは、思いきり背を反らせた。
青年は階級の高さを窺わせる、目を惹く風貌をしている。
艷やかな銀髪に気品ある黄褐色の瞳。翻った外套の下には、引き締まった体躯とすらりと長い足。肩章の星の数は、二つだ。軍警察なのだから、少なくとも中流の上、もしくは貴族ということもありえる。少なくとも下流階級のライラが、頻繁に関わり合うような相手ではない。
ぼんやりしていると、青年は軽々とライラを引っ張りあげた。立ち上がったライラは、さりげなく体の左側を青年のほうへと向ける。
「良かったら、これ、どうぞ」
青年は、拾ってきた白カブをライラへと差し出した。
「でも、さっきの男の子が盗んだものじゃ……」
「まあ、そうなんですけど。店は分かっているので、僕が代金は支払っておきます。傷がついては、売り物にならないでしょうし。実は……」
青年はたまたま、早朝から賑わう市場の近くを通りかかり、少年が野菜の入った布袋を黙って持ち去ろうとするところに出くわしたらしい。街の警備は一般警察の仕事で、軍警察の担当ではないそうだ。それでも放っておけずに少年を追いかけたが、取り逃がしてしまったというわけだ。
「でしたら、私がお金を払います。あ、あれ」
ライラは、鞄から財布を取り出したが、肝心なお金が入っていない。いつもぎりぎりな生活とはいえ、今日はよりにもよって給料日の前日だ。
「職場はすぐそこなんです。少し待っていてください。親方にお金を借りてきます」
「お金は要りません。持って帰ってください。それから、あの、もしかして……」
「えっ?」
「いいえ、何でもありません。どうぞ」
青年に白カブを押し付けられ、ライラは表情を引き締める。
めったにお目にかかれない白カブだ。できることなら味わってみたいところではあるが、身分の高い人間から恵まれるのは、ライラのプライドが許さなかった。
「やっぱり、待っていてください」
「いや、もう時間が……」
「すぐに戻りますから」
ライラは転ばない程度の早足で、大通りへ向かった。角を曲がって三軒目のキルケイ宝石工房に着くとすぐ、ドアノッカーを鳴らす。
「ライラです。おはようございます」
しかし、店の中から反応はない。
「親方、起きてください」
ライラはいつもどおり、しつこくドアノッカーを鳴らし続けた。しばらくすると扉が開き、のそりと髭面の大男があらわれる。
この工房を営むのは、下街きっての腕利き宝石職人、ローガン・キルケイだ。
「相変わらず、早えなあ」
ローガンは酒焼けした声で言い、自慢の髭を撫でつけながら奥の工房へ引っ込もうとする。ライラは慌ててガラスのショーケースの上に白カブを置き、ローガンの背中に向かって叫んだ。
「親方、お願いがあるんです!」
「頼み事とは、お前さんにしては珍しいじゃないか。言ってみろ」
ローガンが、エプロンを着けながら振り返る。
「給料を少しだけ前借りできませんか」
「いくらだ?」
「中銅貨一枚」
びくびくしながら言うライラに、ローガンは顔をしかめる。
「はあっ? たった中銅貨一枚? そんくらいも持ってねえのか」
「今月は何かと入り用で」
「バカ野郎。だったら早く言え。中銅貨なんか何枚でもくれてやる」
ローガンは、吊りズボンのポケットから錆びついた銅貨を取り出すと、じゃらじゃらとライラの手のひらに乗せた。残念ながら中銅貨は一枚もないが、小銅貨を全部合わせれば中銅貨一枚分以上になりそうだ。
「こんなに要りません」
「面倒くせえ奴だなあ。くれるってもんは、黙ってもらっとけ」
ローガンにすれば、親子ほど年の離れた弟子のライラが困っているのを、見て見ぬ振りはできないのだ。
「じゃあ、ありがたく。必ず返しますから」
ライラは小銅貨を握りしめて、大急ぎで路地へと戻る。
「ああ……遅かった」
しかし、青年の姿はもうどこにも見つからなかった。
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