それぞれの思い(2)

「はい、今日はここまで。お疲れさん」


 机の上にエプロンを放り投げると、ローガンはいつものようにさっさと二階へあがってしまった。

 余程急ぎの注文がない限り、日が暮れる前に仕事は終わる。職人にとって何より大事なことは、栄養と休養、というのがローガンの持論だ。


『俺たちは芸術家じゃない。職人は体が資本。目利きの評価なんてクソ喰らえ。最高の賞賛は客の笑顔だ』


 ローガンは何度もその言葉を口にした。まだ半人前のライラではあるが、彼の言いたいことはなんとなく分かっていた。


「ライラ、お疲れさん。ジェイデンも。お先に」


 床を箒で掃くライラに向かって軽く手を上げると、レイモンドは店を出ていった。慌てて作業場から出てきたタイラーも、レイモンドを追うように帰っていく。


「そのくらいでいいだろ。俺たちも帰ろう」


 ライラは箒を持った手を止める。


「聞こえなかった? 帰ろうって言ったんだ」


 ジェイデンは、ライラが聞き取りやすいようはっきりと大きめの声で言うと、むすっとした表情で眼鏡を直すのだ。


「は、はい」


 いつもなら皆と同時に、いや誰よりも先に帰っていくはずのジェイデンが、まだ店に残っている事自体が珍しい。ジェイデンを待たせてはならないと、ライラは慌てて帰り支度を済ませた。


「あのさ、あれからどうなったんだよ? 毎朝会う男がいるって言ってただろ」


 店を出るとすぐ、ジェイデンが訊いてきた。ネイザンの話であることは、分かったが。


「えっ……」


 ライラは何も言えずに、固まってしまう。


「どうしたんだよ?」


 不審に思ったジェイデンが、顔を顰める。それでもライラの視線は、ジェイデンの後ろに立つ男に釘付けだった。ジェイデンは、ライラの視線を辿って、ゆっくりと背後を振り返った。


「うわっ!」

「どうも」


 ちょうど噂をしていたネイザン本人が、なぜか店の前に立っている。

 非番なのか制服は着ておらず、紳士らしい三つ揃えのスーツ姿だった。しかも、自転車に跨っている。


「ちょうど良かった。ライラを迎えに来たところだったんだ」


 ネイザンは、爽やかな笑顔で言った。


「もしかして、こいつ……彼が?」


 ジェイデンが左耳に囁いてきたので、ライラは何度も頷いた。


「はじめまして。ライラさんの友人の、ネイザン・ニールです」


 ネイザンは握手を求めて、ジェイデンに手を差し出す。


「キルケイ宝石工房で働いている、ジェイデン・マッシュです」


 渋々握り返しはしたものの、ジェイデンはすぐにその手を離した。


「仕事が終わったのなら、自転車に乗る練習をしよう」

「えっ、あのっ」


 ネイザンは、今度はライラの手首を掴んで、強引に連れて行こうとする。

 ジェイデンは、「自転車?」と、意外そうな顔をした。


「急がないと、日が暮れる」

「だ、だけどっ」

「駄目だ、危ない。こいつに自転車なんか無理だ」


 するとジェイデンも、ライラの腕を掴んで引っ張り返すのだ。


「無理じゃない。練習すれば、乗れるさ」


 ジェイデンに止められようが、ネイザンはひるまなかった。


「ライラは右耳が聞こえない。自転車に乗れたところで、接近してきた人や馬車に気づかずに事故になるかもしれない。危険な目に遭うくらいなら別に、自転車なんて乗れなくたっていいだろ?」


 ジェイデンが、ライラを心配してくれているのは痛いほど分かっている。

 それでも、ライラはすぐに返事ができずにいた。

 右耳が聞こえないから、危険な目に遭うから、自転車に乗ることを諦めなくてはならないと言われても、簡単に納得はできない。

 スカートを翻し、颯爽と自転車に乗る女性の姿をはじめて見た日から、ずっと憧れてきたのだ。


「大通りを避け、スピードを控えめにすれば、危険はいくらか回避できる。人や馬車の少ない早朝ならば、もっと安全だ。そうやって対策を考えていけばいい。やりたいことを諦める必要なんてない」


 おだやかな口調で、ネイザンは言う。


「僕がついているから、大丈夫だ」


 その言葉は、怖気づいたライラの背中を押してくれるようだった。


「わ、分かった。練習する」


 ライラの返事を聞き、ネイザンが、「よし!」、と拳を握りしめる。


「ちょっと、待て! だから、ええと……」


 それでもジェイデンは、ライラから手を離そうとしない。唸りながら、どうにかしてライラを引き止めようと、頭を悩ませているようだ。そして、何かを思いついたように、ぱっと目を見開く。


「あんたさ、そもそも、自転車を買う金、あるのかよ」

「あっ……それは、ない」

「だろう? やめとけ、やめとけ」


 ほっとしたのか、ジェイデンの表情が和らいだ。


「買えるようになるまで、僕の自転車を貸すよ」


 すると、ネイザンは自転車を降りて、壁に立てかける。

 借りるだけなら、いいかもしれない。闇雲に恵み与えられるのとは違う。

 ライラは心の扉を開きかけた。


「いいの?」

「もちろん。こっちへ」

「わっ!」


 ネイザンからいきなり腰を掴まれたライラは、驚いて声をあげる。そのまま軽々と持ち上げられ、自転車の腰掛けに座らされてしまった。


「ハンドルを握って」

「ハンドルってこれ? こ、怖いよ」

「倒れないよう僕が支えている」

「絶対に手を離さないで。きゃっ!」

「ここだと安定しないな。広いところで練習しよう」


 やたら体を寄り添わせる二人の様子を、ジェイデンは無言で睨みつけている。


「というわけなので、彼女は連れて行くけど、いいかな」


 少々申し訳なさそうに、ネイザンは言った。


「怪我でもして、仕事に支障をきたすことになっても知らないからな」


 ジェイデンは不機嫌そうに顔を歪めると、二人を残して歩き出した。

 ライラは自転車に乗ったまま、上半身を捻ってジェイデンを振り返る。


「ジェイデン、ごめんなさい。私、自転車にどうしても乗りたいの。ずっと前から、夢だったの。怪我しないよう気をつけるから」

「……勝手にすればいいだろ」


 ジェイデンの独り言のような声は、ライラには届かなかった。

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