それぞれの思い(4)

 ライラは、「信じられない」とつぶやく。

 オウロ劇場は上流階級の娯楽のために作られた、王立劇場である。そのような立派な場所で催される舞踏会に、ネイザンがエスコートしてくれるというのだ。

 貴婦人たちの華々しいドレスや、輝かしいばかりの装身具を想像して、ライラは胸を高鳴らせた。仮面舞踏会ならば、入場券さえあれば大衆が参加することも許される。しかし、その入場券は破格の値段だと聞く。


「一緒に舞踏会へ行こう」


 ネイザンは再び、ライラへと手を差し伸べる。

 この機会を逃せば、二度と舞踏会に行く夢は叶わないだろう。しかし。


「……無理よ、行けない」


 ライラは、瞳を伏せた。


「どうして? 夢なんだろう?」


 ネイザンは、優しく訊ねる。


「舞踏会に着ていくドレスがないの。ごめんなさい」


 ライラは、ひどく惨めな気持ちになった。

 乗れるようになったところで、自転車は買えない。

 舞踏会に行けるようなドレスなんて、持っていない。

 こんな思いをするのなら、夢を見ているだけのほうがましだったのかもしれない。


「良かったら、僕からドレスをプレゼントさせてくれないかな」


 ネイザンにすれば、精一杯、言葉には配慮したつもりだろう。それでもライラは、素直に受け入れられない。

 子供の頃の記憶が、施しを受けることを拒絶するからだ。


『雪に埋もれたのは、あばら家ばかりか』

『近くに、貴族の別邸があるそうだが』

『だったら、先に掘り起こすのはそっちだろう、急げ!』


 ライラが、奇跡的に雪の中から助け出された時、左耳はしっかりと男たちの会話を聞いていた。彼らは、村人たちの捜索を一旦止めて、誰もいない貴族の別荘へと向かったのだ。

 ライラは意識を朦朧とさせながら、「そこには誰もいない。おじいちゃんを助けて」とつぶやいた。あの貴族の一家はきっと、ほんの気まぐれでライラの村に別荘を持ったに違いない。

 上流階級の者たちにすれば、別荘を持つことも、ドレスを与えることも、きっと些細なことなのだ。


「要らない。とにかく、今日はもう帰る」

「送っていくよ」

「一人で帰れるから」


 ネイザンは倒れた自転車を起こして、すぐさまライラの後を追ってきた。


「もう暗いから、送っていく」

「だから、大丈夫だって」

「強情だな」

「強情なのはそっちでしょ」


 延々と言い合いながら、二人は進んでいく。

 そうしているうちに、ライラの家のそばまで辿り着いていた。


「ライラ、どうしたの!」


 そこへエレノアがやってくる。

 暗がりの中でも、前衛的な彼女の姿は目立っていた。頭には帽子の代わりに布製の花飾りを挿し、腰の当たりからふっくらと広がった鮮やかな青緑色のスカートを履いている。


「どちら様ですか? うちのライラが何か?」


 二人が揉めているのを見て、エレノアは急いで間に入った。彼女はライラを守るように、ネイザンの前に立ちふさがる。


「エレノア、この人が、私に自転車の乗り方を教えてくれる、ネイザンよ」


 ライラは、慌てて説明した。


「あ、ああ。失礼しました。ライラの同居人のエレノアです」


 ライラからネイザンの話を聞いていたエレノアは、作り笑いを浮かべる。


「こちらこそ、ご挨拶が遅くなりました。ネイザン・ニールです」

「ニール……まさか、グランベリー侯爵家の?」


 ネイザンの家名を聞いて、エレノアは驚いたような顔になる。ライラは、侯爵の名前が出てきたことに、軽く困惑していた。


「ええ。父をご存知でしたか」

「もちろんですわ。上院議員をされていらっしゃるグランベリー侯爵ですよね。名門の御子息じゃないですか!」

「といっても僕は次男なので、自分の食い扶持は自分でどうにかしなければならない身分です」

「ご謙遜だわ。軍警察なのでしょう?」

「ええ、そうです」

「ご結婚は? 独身ですか?」

「はい、独身です」

「でも、侯爵家の御子息ですもの、決まった方がいるのでは?」

「いいえ、僕にはそんな相手はいません」


 一通りネイザンの身辺調査を終えたエレノアは、にっこり微笑む。


「眼鏡の坊っちゃんよりも、彼の愛人になるほうがいいかも」


 ライラの左耳にこっそり囁いた。

 愛人というのは、婚姻関係にない恋人のことを言っているようだ。


「何言ってるの!」


 ライラは真っ赤になって否定した。


「これでも色々と心配しているのよ」

「だとしても、ネイザンに失礼よ」

「そうかしら。彼はライラに興味があるみたいだし、私たちのような仕事を持つ女には、手のかかる夫より金持ちの愛人のほうがいいに決まってる。調度いいじゃない」


 エレノアの早口に、ライラはきょとんとするしかなくなる。

 ネイザンは、そんな二人のやりとりを楽しげに眺めていた。


「ところでさっきは、何をそんなに揉めていたの?」


 エレノアはネイザンとライラを交互に見る。


「何でもな……」

「彼女を舞踏会に誘ったんですが、本当は行きたいはずなのに、意地を張って行かないと言うんです」

「なっ……!」


 ライラの言葉を遮って、ネイザンは平然と答えた。


「舞踏会! 素敵じゃない! どうして断るの?」


 舞い上がったエレノアは、ライラの肩を掴んで揺する。


「だ、だって、着ていくドレスがないもの」

「馬鹿ね。あなたの同居人はこの私よ!」


 エレノアは、ネイザンに向き直ると胸を張って言った。


「私、お針子をしていますの。ライラのドレスは私に任せてください」

「そうでしたか」

「だからぜひ、この子を舞踏会に連れて行ってください。お願いします」

「もちろんです。楽しみにしています」


 ライラ本人をよそに、意気揚々と、勝手に舞踏会の約束を取り付けるエレノアだった。

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