死ぬまでにやりたいこと(1)
キッチンストーブの上で、ことことと鍋が煮立つ。蓋を開け、ライラは甘さとコクを含んだ香りを吸い込んだ。
「いい匂い」
黄金色のスープの中で揺れる、押し麦と刻んだ野菜。薄っすら色づいた白カブには、鶏の骨から取った出汁がしっかり染み込んでいるはずだ。味付けは塩こしょうだけであるが、スープの旨味があればじゅうぶんだろう。
ライラは小さな食卓に二人ぶんの皿を並べ、軽く火で炙ったパンを載せた。給料が入ったばかりなので、奮発して焼いたベーコンも添える。
ライラが暮らす二階建ての
そこで、壁をノックする音が室内に響いた。ライラを驚かせないための、いつもの合図だ。
「ただいまー。すごく美味しそうな匂いがするんだけど」
薔薇色のワンピースを品良く着こなした同居人、エレノア・オランジョがあらわれる。褐色の肌を持ち、黒髪を顎の位置で切りそろえたエレノアは、都会的な雰囲気を纏ったお洒落な娘である。
年はライラより二つ年上の二十歳で、一流洋品店のお針子として働いている。エレノアの養父も、貴族の屋敷で仕立て職人をしているそうだ。
エレノアはライラの恩人だ。
エレノアに出会わなければ、ライラは今頃どうなっていたか分からない。
田舎から出てきたばかりのライラは、右も左もわからずに彷徨った挙げ句、暴漢にお金を巻き上げられそうになった。そこへ偶然通りかかり、助けてくれたのが、エレノアだったのだ。
部屋探しも職探しも、エレノアが手伝ってくれた。親元から独立を考えていたエレノアと一緒に暮らせることになったのも、ライラにとっては幸運である。
「美味しそうな白カブをもらったから、スープにしたよ」
ライラはスープをよそってエレノアに渡す。
「キルケイの親方、相変わらず気前がいいじゃない」
「親方じゃないの。白カブは、軍警察の人にもらったんだ」
「軍警察?」
エレノアの顔つきが厳しくなる。軍警察と聞いて警戒したのだろう。軍警察は王族や要人を警護するエリート集団で、有事には戦闘部隊の指揮中枢となるような組織である。つまり、ライラたち庶民からは遠い存在だ。
「軍警察が下街をうろうろしているなんて物騒ね」
エレノアが不審がるのも仕方ない。ライラにも予想外の出来事だったのだ。
「そんな大げさな話じゃないと思う。野菜泥棒を追いかけていただけだって言ってたし」
「物取りだってじゅうぶん物騒じゃない。遅くなるときは気をつけて。どうせなら、眼鏡の坊っちゃんに送ってもらえばいいのよ」
「えっ?」
早口が聞き取れず、ライラは聞き返す。
「一人だと危ないから、眼鏡の美男子に家まで送ってもらえば?」
「それって、ジェイデンのこと? 無理だよ。彼が私に親切にしてくれるはずがない」
「そんなことないと思うけど」
工房の職人たちのことを見知っているエレノアは、悪戯な笑みを浮かべていた。
「ともかく、ライラも護身用の短剣くらいは持ち歩くべきよ」
エレノアは、両手に収まるほどの小さな剣を、鞄から取り出して食卓へ置いた。決して治安が良いとは言えない下街で暮らしていくには、自分の身は自分で守るというのが鉄則だ。
「綺麗な装飾だね」
柄から鞘までびっしりと繊細な模様が施された短剣に、ライラは見惚れる。
「母の形見なの」
エレノアは懐かしそうな目をして、短剣の鞘を撫でた。
ふと、ライラは、祖父から聞いた話を思い出す。
魔女に愛された騎士と婚約した王女が、魔女の嫉妬を恐れて魔除けの石を埋めた短剣を抱いて眠っていた、という古い言い伝え。それをもとに、いつしか上流階級の人々は、産まれた娘にお守りとして護身用の短剣を贈るようになったと。
ライラは美しい植物の模様に思いを馳せる。我が子の幸せを願う親心を映したような、丁寧な仕事だった。
「これは、悪いものから守ってくれると言われる冥王石だね」
柄に埋め込まれた黒く輝く石は、邪悪なものを払うとされる宝石だ。また、死に魅入られた者を闇に引きずり込むとも聞く。
「宝石には魔力あると言うけれど、本当なのかしら。私にはよく分からないわ」
エレノアは疑わしそうに言った。
「人の思いが宝石に宿るんじゃないかな。宝石に宿った誰かの祈りや願いが、持ち主に届いて、守られているような気持ちになるのかも」
祖父の愛や、手を差し伸べてくれた人たちの優しい思いを心に浮かべると、ライラはいつも温かな気持ちになれた。
「ライラはとんでもなく高価な宝石を持っているのね」
「私、宝石なんてひとつも持ってないけど」
「心に持ってるじゃない。どんな宝石よりも価値があるわ」
エレノアは自らの胸を押さえた。
「そ、そうかな」
ライラはくすぐったいような気持ちになる。
「私、あの時、ライラを助けたいと思ったの。どうしても助けなきゃって。だってあの時、ライラは、厳つい大男に向かって叫んでたじゃない」
ふわりと、エレノアの目が潤んだように見えた。
「私は負けない。私が負けたら、本当に村が消える。私が、最後の一人だからって。ライラは、大きな声で叫んでた」
ライラは無言で頷く。
ライラの村は雪に埋もれて消えた。救助に駆けつけた者に深い雪の中から掘り起こされ、奇跡的にライラだけは命をとりとめた。
祖父は、ライラを守るように抱きしめたまま永い眠りについた。
『人は誰でもいつか死ぬ。もしも生き延びたら……だったらあとは、やりたいことをやるだけだ』
左耳に囁く祖父の声が、ライラを生かしてくれたのだ。
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