仮面舞踏会の夜(2)
バルコニーに出て夜風に吹かれていると、肩にふわりとコートが掛けられる。
「ありがとう」
ライラは振り返り、ネイザンに微笑みかけた。すると、ネイザンも微笑み返してくれる。
「疲れた?」
「ええ、まあ。踊れないワルツも踊ったし」
「上手だったよ」
「嘘ばっかり」
子供の頃からワルツのステップを叩き込まれている、上流階級のネイザンとは違う。しかし、口にはできない。口にすれば、ネイザンに気を遣わせてしまう。
どうしたら、ネイザンと対等に話せるだろう。
ライラは、迷い悩んで、言葉を繋げなくなる。
「そろそろ帰りたい?」
大人しくなったライラを心配したのか、ネイザンが訊ねてくる。
「ええと……色んな宝石が見られたし……もうじゅうぶんかな」
「僕はもっと一緒にいたいけど」
「あ、あの……」
「舞踏会は夜明けまで続くんだ。疲れたのなら、休める部屋も用意できる」
ライラは、ネイザンが放った、〝不良貴族〟という言葉を思い出す。
仮面舞踏会は、貴族が羽目を外して夜遊びするための場所でもある。
ライラももう子供ではない。男女が一晩中一緒にいるという意味も知っている。もちろん経験はないけれど。
「それって、夜明けまで二人で一緒にいるってことだよね」
「えっ?」
ライラは自分で言っておきながら、意味深な台詞に顔を真っ赤にする。
しかし、真っ直ぐなライラは、確認せずにいられなかった。
「つ、つまり、愛人になるってこと?」
「違う、そういう意味じゃないっ……!」
あからさまに、ネイザンは動揺していた。
やや乱暴に仮面を剥ぎ取ると、頭を押さえ俯く。瓦斯燈に照らされた横顔は、耳まで赤くなっている。
何度も溜息を吐いたあと、恥ずかしそうに口元を隠したまま、ネイザンはライラに向き直った。
「ただ、もう少し話がしたかったんだ」
どうやら、ライラの早合点だったようだ。
エレノアのように、自分には貴族の愛人が調度いいとは到底思えない。ライラは、心底ほっとしていた。
そもそも、誤解させるようなネイザンもいけないと、ライラは言い募る。
「不良貴族って、そういう意味なのかと勘違いしてしまって。だって、その、身分の高い方々は、たくさんの愛人を持つと聞くし。もちろん、私がネイザンの愛人になりたいとか、そういうことを思っているんじゃなくて」
「いや、違うんだ。じゃなくて、そうなんだ。こういう場所へ、愛人を探しに来る貴族だっている。だから、一人にならないでと言ったんだ。ただし、僕はそうじゃない。といって、信じてもらえるかは分からないけれど」
「信じてる。信じてるよ、もちろん」
「そう簡単に信じてもらうのも違うような……とにかく、ライラは自分をもっと大事にすべきだ。容易く愛人なんて言葉、口走るもんじゃない」
ネイザンが、照れくささを誤魔化すように何度も髪をかきあげる。
「自分を大事に……」
家族を失い、たった一人きりになって、捨て身で今日までやってきた。
生きることに必死だったライラは、ずっと自分のことを後回しにしがちだったのだ。
そんな中、ネイザンと出会い、ひとつずつ夢を叶えることができている。
夢は夢。真実になるとは限らない。
そう言い訳して半分諦めていたような夢に、光を当ててくれたのはネイザンだ。
「貴族だからと、誰もが愛人を持つわけじゃない」
「…………」
「とにかく、僕はそういうつもりでライラを誘ったんじゃない」
「…………」
「ライラ、君は僕の……」
「だったら、どうして、なの? どうして、私の夢を叶えようとしてくれるの?」
ライラは勇気を振り絞って、真正面からネイザンに訊ねた。
「素敵な夢だと思ったから」
「そんな理由だけで?」
「ライラには光るものがあると思った」
「あんなノートで分かるわけない」
「応援したくなったから」
「どうして私なの?」
はぐらかされているようで、ライラはもどかしくなる。
「理由なんていくらでもあるし、いくらでも作れるよ。ライラは、僕の特別だから」
「特別? だったら私だって……」
ライラにとっても、ネイザンはすでに特別な人だ。
気持ちをぶつけそうになったが、何とか思いとどまった。
きっと困らせるに決まっている。
たぶん、ライラは愛人にもなれない、身分の低い娘なのだ。だからといって、友人でいられるのならそれでいいと割り切ることも難しい。
「特別なんて言われても、どういう意味か分からないよ……」
どんなに押し留めようとしても、持て余した感情は溢れてしまう。
「死にたくなった僕を生かしてくれたライラは、特別なんだ。もう忘れてしまっているかもしれないけれど、僕たちは出会っていたんだよ」
「出会っていた?」
「そう。ずっと以前に。ソルシスで」
故郷の名が、ネイザンの口から出たことに、ライラは驚く。
「綺麗な緑色の瞳と、夕焼けのような赤髪を、忘れたことなんかなかった」
「あなたは誰なの?」
「約束をしたのに会えなかった。僕が再び懐かしいあの景色に辿り着いたとき、もう君はいなかったんだ」
「約束…………」
砕いた宝石を散りばめたような、きらきらと輝く雪面。
肌を刺す、朝の冷たい空気。
遠い昔、小指を絡めた少年がいたのをライラは思い出した。
貴族の別荘だと噂されていた大きな屋敷に暮らす、銀色の髪を持つ少年だ。
「あの時の……」
少年時代のネイザンの姿を、はっきりとライラは思い出す。
「美しい冬の静かな朝は、魔女が与えた静寂だと、ライラが僕に教えてくれたんだ。まさか君が、この街にいるなんて思わなかった」
「気づいていたなら、もっと早くに教えてくれれば良かったのに」
「約束を守れなかったから、言い出せなかったんだ」
「そんなの……だって、お互い子供だったし」
「それでも、僕にとっては何より大事な約束だった。ライラにいつか会う日のためだけに、あの時の僕は生きていたから」
「でも、私は……」
私は、失ってしまった――。
懐かしい友人に会えたというのに、とても喜べる心境ではなかった。
ネイザンたちの別荘がなければ、ライラの祖父は生きていたかもしれない。
貴族のために命を落とした祖父のことを思うと、いたたまれなくなる。
ネイザンのせいじゃない。
分かっている。
ライラはうつむき、歯を食いしばる。
しかも、あの残酷な夜を、ネイザンは知らないのだ。
「僕の死ぬまでにやりたいことは、ライラの夢をすべて叶えることだ」
何も知らないネイザンは、爽やかな笑顔でライラに言った。
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