仮面舞踏会の夜(1)
オウロ劇場のエントランスロビーには、豪奢なシャンデリアが輝いていた。大階段には赤い絨毯が敷かれている。大理石が敷き詰められた床の上で、ライラの足取りはますます覚束なくなっていく。
「ここからは、名前を呼んではいけないんだ。いいかい、お嬢様?」
左側に立つネイザンは、よく聞こえるよう、ライラの顔を覗き込みながら言った。
「分かったわ、ご主人様」
たとえ知った相手と出会っても、知らないふりをするのが、仮面舞踏会のルールである。ライラは息を吸って、背筋を伸ばした。
いよいよ、開演が近づいている。
大きな扉が開き、歓談の声が流れ出てきた。
ホールの先には、高級な装いをした紳士淑女たちの姿。
「なんて美しいんだろう……」
すれ違いざま、談笑する貴婦人たちが纏う宝石に、ライラの目は釘付けになる。
あんなに大きな炎水晶は見たことがない。
あのペンダントの太陽石のカットは見事だわ。
気持ちが高ぶったライラは、ネイザンの腕をぎゅっと強く握る。
「負けていないよ。ライラが一番美しい」
ネイザンから、とびきり甘い声が落ちてきた。
瞬間、全身が熱を帯びたように熱くなる。認めたくなくて、ライラはむきになって返すのだ。
「ち、違うよ。私は宝石を見ていたの。だって、そのために来たんだもの」
「僕も宝石を褒めたんだよ。ライラの宝石は最高だ」
「っ……!」
ネイザンの口元は、悪戯っぽく笑っている。
ライラは悔しくなって、唇を引き結んだ。
「冗談だよ。本当に今日のライラは綺麗だ」
「……やめて。慣れていないって言ったでしょ」
「僕だって慣れていないよ。だけど、言わないと気づいてもらえないみたいだから、言うことにした」
「どうしたの? 今日のネイザン、変だよ」
「…………」
ライラには、ネイザンの考えていることが、仮面のせいで余計に分からなくなっていた。
「今晩は。あなたのネックレスとても素敵ね。どちらのものかしら」
羽の付いた仮面を着けた貴婦人が、硝子玉の飾りを見ようとして、ライラの胸元へ顔を近づけてきた。
無礼講とはいえ、唐突すぎてライラは困惑気味だ。
「これは私が……ええと、キルケイのものです」
「キルケイ? 知らないわ」
「そ、そうですか……」
知らない店名を聞かされたせいか、貴婦人は急速にライラのネックレスから興味を失ったようだった。
硝子玉だと気づかれたのかもしれない。
一流の宝石店でなければ認めないのかもしれない。
身分や地位の高い人々の社交場であることを思い出し、ライラは少しばかり気落ちする。
「何だか、おどおどしていますのね。資産家のご令嬢かしら。女性は憧れや尊敬の念を持たれてこそ、輝きますのよ。美しいだけでは駄目。自信がない女性は、誰からも尊敬されませんわ」
貴婦人は苦笑しながら立ち去っていった。
「おどおど……」
確かにその通りだ。今夜だけのことではない。
自信のない態度は、仕事にも影響しているようだ。客のオーロラも、一緒に働くジェイデンも、ライラを尊敬してはくれない。
尊敬され信頼されるには、もっとしっかりしなくては。
ライラは、貴婦人の言葉を噛みしめる。
「飲み物を頼んでくるよ。ここで待っていて」
ネイザンは軽く手をあげ、給仕の元へ向かった。
きっと、落ち込むライラを元気づけようとしてくれているのだろう。
やがてファンファーレが鳴り響き、ほどなくして管弦楽の演奏がはじまった。
「ネイザンは優しすぎるよ」
ライラは思わずつぶやいた。
だからつい、甘えてしまう。
そして、駄目な自分ばかりを知られてしまう。
こんなことじゃいけないと、ライラは思う。
「ネイザンにも、尊敬されたい」
彼のために、自分にもできることはないだろうか。
嫌われたくない――ライラの頬が、自然と赤く染まる。
「お嬢さん、一曲踊ってくれませんか?」
そこで、青い仮面を着けた、長身の若い紳士から声がかかる。
「あの……何と?」
演奏に紛れて、声がよく聞き取れなかった。
すると紳士は腰を屈め、ライラに顔を近づけてくる。さらり、と銀色の前髪が目の前で揺れた。
「私と踊ってください」
「いえ、私は……」
「美しい薔薇が、こんな隅っこで咲いているだけとは勿体ない。さあ、お手を」
差し出されたところで、その手を取るわけにはいかない。
「ごめんなさい。パートナーがいるんです。本当にごめんなさい。失礼します」
ライラは早歩きでその場を離れるが、紳士はしつこくあとを付いてきた。
「待って、お嬢さん」
ネイザン、どこにいるの?
仮面を着けているせいで、ネイザンをすぐに見つけられない。
ライラは、不安な気持ちで人だかりを抜けていく。
人々の話し声や音楽が押し迫ってくるように感じられた。
「お嬢様、どうしました?」
いきなり二の腕を掴まれ、ライラは驚いて立ち止まる。
「やめてくださいっ……あっ、ネイザン」
「一人でうろうろしてはいけないよ」
ネイザンが、少しばかりきつめの口調で言った。
「知らない男性から、踊りに誘われて困っていたの」
そう告げて振り返ったが、青い仮面の紳士の姿はもうどこにもない。
「へえ……」
即座にネイザンは、鋭い視線で辺りを見回した。
凍てつくような瞳は、まるで、獲物を探す獣だ。
殺気立つ様子に、ライラは恐怖さえ感じた。
もしかすると、軍警察であるネイザンにとっては、こちらのほうが平常なのかもしれない。
「美しい薔薇が隅っこで咲いているのは勿体ないとかなんとか言っていたけど、からかわれただけだよ、きっと」
それでも、ネイザンから発せられる張り詰めたものを、ライラはどうにか和らげたかった。
「なるほど。そうやって誘えばいいわけか。ぜひ、僕と踊ってください。美しい薔薇さん」
ネイザンの口調が優しくなり、ライラはホッとする。
「ふざけているよね。私が踊れないの知っているくせに」
「練習したじゃないか」
「人前では無理だよ。そうだ、飲み物はどうしたの?」
「あとで構わないよ」
ネイザンはやや強引にライラを誘って、ホールの中央へと歩み出た。
「一曲目は、どうしても僕と踊って欲しかったんだ」
真面目な声で、ネイザンは言った。
「ワルツなんて、絶対に無理」
「僕に体を預けて」
「えっ、何……何て言ったの?」
様々な音が溢れて、ライラは混乱する。
ネイザンの口元に集中しようとするが、ステップを踏むので精一杯だ。
そのうち、音楽に合わせ、体がなめらかに動いているのに気づく。
ネイザンのリードは完璧だ。
押されたり引かれたりすることなく、ただ重心の移動だけで、次の動きを伝えてくれる。自然と足が出て、踊れている気にさせてくれる。
いつしかライラは、踊ることが楽しくなっていた。
ふと、ネイザンと目が合う。
「ライラ、君は…………」
大切なことを告げられた気がしたが、残念ながら、ライラにはネイザンの唇をすべて読むことはできなかった。
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