第1話
「書いたことが変わる日記?」
フォークに絡めたミートスパゲティを口に入れようとしていた格好のまま問いかけると、向かい側に座っていた
「みんな噂してるよ。私はサークルで一緒の子から聞いたんだけど、その子の友だちの彼氏の弟の幼馴染の……」何度か指を曲げて数えたが、面倒くさくなったのか彼女は手を止める。「まあ、とりあえずそれを実際に手にした人がいるんだって」
「うひゃんくひゃいね」
あまり興味は無いし、と付け加えながら彩芽はスパゲティを頬張った。
駅から徒歩五分ほどの場所にあるログハウス風の喫茶店『リラ』の席は、学校帰りの学生や主婦たちで六割程度埋まっていた。厨房やトイレとは反対側に位置する角のソファ席に陣取った彩芽と佳苗は、二週間に一度ほど、月曜日の講義終了後にここを訪れるのが常となっている。
ボリューム感たっぷりの料理の割に、値段はリーズナブル。大学に入学したばかりでまだアルバイトを始めていない彩芽は、この店を愛していると言ってもいい。
「それにしても」
口いっぱいに詰まっていたスパゲティを飲み込み、小豆色の瞳を左手首に巻いた時計に向けた。中学生の頃から愛用している太いベルトが特徴のそれは、午後三時三十分を示している。
「遅いね、佳苗の彼氏さん」
「もうすぐ来ると思うよ。さっきメールきてたし」
佳苗はスマートフォンを取り出し、何度か画面をタッチした。今どこにいるの、とでも聞くつもりなのだろう。
「もしもし? 私。今どこにいるの?」
思っていた通りだった。
俯きながら通話をし、佳苗ははらりと落ちて来た茶色い髪を耳にかけた。その様子を見つつ、彩芽は自身の短く黒い髪に何となく手を伸ばす。
美容院や床屋が苦手で、いつも自分の手で切っているせいで年頃の女にしては髪がかなり短くなってしまっている。母とは「伸ばしなさい」「いやだ」と何度衝突したか分からない。もちろん伸ばすことを考えないわけではなかったが、幼い頃からショートカットを貫いているため長いのには慣れていないのだ。
そのせいで、諦めてしまった事もある。
回想に浸りかけた彩芽の思考を、「よかった」と佳苗の安堵したような声が寸前で止めた。
「あと二分くらいで着くみたい」
「ん、分かった。それならさっさと食べちゃうわ、これ」
「急がなくてもいいんだよ、ゆっくりで。ほら、口の端にミートソースついてるし」
全くもう、と差し出された白いレースのハンカチを受け取り、慌てて拭った。
こういうものをさっと出せるあたり、彼女は女子力というものが高い気がする。そのレベルは年数を重ねるごとに増していた。それを思い知るたびに見習わなければと少し焦る。
「悪い、遅れた」静かな店内にそぐわない大きな声が降ってくる。二人そろってそちらに目を向けると、浅黒く日焼けした青年が爽やかな笑みを浮かべて立っていた。「友だちに掴まっちゃってさ」
「ううん、全然。急がせてごめんね」
青年は軽く会釈し、佳苗の隣に腰を下ろす。彩芽はスパゲティの最後の一口を飲み込み、「どうも」と声をかけた。
青いチェックの半袖シャツに、ブラウンのズボン。緩くパーマを当てた短い髪の下には、うっすらと汗が滲んでいる。
「あやちゃんが直接会うのは初めてだよね」
「初めまして。佳苗のお友だちだよね。俺は
「町屋
しまった、と気付いた時には既に遅かった。
思わず彼の名前を口にしてしまった彩芽に、二人は「あれ、教えたっけ?」と言いたげに視線を向ける。
表情を隠す様にグラスの水を一気に飲みほし、
「佳苗と二人でお似合いカップルだって、あたしの友だち間ですっごい評判なんだから」
適当な言い訳で誤魔化した。
それよりほら、とメニュー表を友一に渡しながら佳苗の様子を窺う。先ほどの言葉に納得できていないらしく、彼女はしきりに首を傾げていた。そういえば、佳苗は彩芽以外の友人には彼の事を話していないと言っていた。
しかし今さら気付いたところで仕方がない。これ以上自分から喋ると墓穴を掘ってしまいかねないし、特に何も聞かれない以上は黙っていたほうが良さそうだ。
走ってきたのと外の気温のせいで体が涼を求めているのだろう、彼が頼んだのはアイスコーヒーだった。そのついでに、彩芽もチョコレートケーキを注文する。
「なんかさあ、書いたことが変わってく日記? とかそういう都市伝説を延々と聞かされてさ、なかなか切り上げられなくて」
「あっ、ゆう君の周りでも噂になってるの?」
「その話題で持ち切りだよ、俺の友だちみんな」
奇遇だねー、と微笑みながら視線を交わす二人を、彩芽は落ち着きなく足を組みながらそれとなく見つめた。それに気付いた様子もなく、店員は間延びした声で注文した品と伝票を置いていく。
「本当にあるかどうかは分かんないらしいけど、ちょっと興味はそそられた」
「えー、でも日記ってなんか古臭くて、今時って感じしなくない? あやちゃんもそう思わない?」
「別に。それより、本題に入ろう、本題に」
会話を打ち切られたことに不満を感じたのか、佳苗は「えー」と抗議を繰り返す。それを受け流す様に手をひらひらと振り、早く、と促した。
長い付き合いゆえに文句を言っても意味がないと知っているのだろう。やがて佳苗が取り出したのは、
「なにこれ?」
カラフルな表紙が目立つ、数冊の旅行雑誌だった。
ケーキをつついていたフォークを置き、ざっと表紙を見回す。行き先は関東と北陸が主で、中には旅行会社が無料で配布しているパンフレットも混ざっていた。
「今度ゆう君と一緒に旅行しようと思ってるんだけどね、行き先で悩んでて。それで、あやちゃんに一緒に選んでもらいたいなあって」
「えっ」
フォークを置いていて正解だった。手にしたままだったら落としていたかもしれない。
今日は彼氏も呼んでいいかな、と店に入る前に言われていたのだが、てっきり親に紹介する事前練習でもするのかと思っていた。実際、高校の頃に一度だけそれに付き合わされたことがある。
ただでさえざわついていた彩芽の心が、より一層陰る。
「行き先くらい自分たちで決めなよ」
「でも、私もゆう君も優柔不断だから」
「佳苗から聞いてるんだ。黄土さんの言う通りにすれば何事もうまくいくって」
「なにそれ、買い被りすぎだって。あと、呼ぶとき彩芽でいいよ。なんか堅苦しいし」
それよりも。彩芽は雑誌の一つを手に取り、小さくため息をついた。
「あたし以外にも相談できる子、いっぱいいるでしょ。滅多に県外に行かないあたしより、そういう子たちの方が行き先に何があるか詳しいんじゃないの?」
隣県への日帰り旅行ならばともかく、旅先で宿泊したのは高校の修学旅行が最後だ。それも沖縄である。関東方面を考えている二人の旅行相談にはのれない、と暗に言ったつもりだったのだが、
「お願い! 奢るから!」
「……ほんとに?」
佳苗が放った会心の一言に惹かれてしまった。
スパゲティとチョコレートケーキで千円以下とはいえ、奢ってもらえるのはありがたい。彩芽は数秒間悩んだ末に、渋々うなずいた。
「けど、もし行き先がつまんなくても、あたしに文句は言わないでよ」
「そんなことしないよ」
軽く笑いながら、佳苗と友一は揃って胸を撫で下ろしていた。
彩芽はいくつかの雑誌やパンフレットを手に取り、素早く目を通していく。自分ならどこに行きたいか、どんな場所ならカップルでも楽しめそうか。奢ってもらう以上、それなりに考えて提案しなければ。
――自分なら……誰と、どこに行きたいか。
無意識に、彩芽の目は友一を映していた。それを自覚し、慌てて旅行雑誌に視線を戻す。
彩芽が考え込んでいる間も、仲良しカップルは例の「書いたことが変わる日記」について盛り上がっていた。
「でも本当にあるなら、私、ちょっと見てみたいかも」
「そうかあ? 内容が勝手に変わってるんだぞ。ちょっと不気味だろ」
「それよりも面白いって思ったんだもん」
さっきまで古臭いって言ってたのあんたでしょうが。言いかけたが、何とか飲み込む。
「どんな風に変わってるのか興味湧くし。その日記、どこにあるのかな」
「さあなあ、それは誰も知らないみたいだったし」
他人に任せると決めたからか、二人は次第に会話に夢中になっていく。それを時折眺めながら、彩芽は雑誌とパンフレットをめくっては閉じることを繰り返した。
やはり東京と言えば東京スカイツリーに東京タワーが定番だろうか。他にも鎌倉散策や日光東照宮に行くのも渋くていいかもしれない。北陸に行けば黒部ダムや恐竜博物館もあるが、二人の趣味に合うかどうか分からない。やはりここは無難に、某夢のテーマパークだろうか。
「どんな見た目してるのかな」
「んー、それも知らないみたいだった」
「なにそれー」
「はい、とりあえず二つ提案する」半ば彩芽のことなど忘れていそうな二人を現実に引き戻すべく、雑誌の表紙を叩きながら声をかけた。「どうせ泊まりの予定でしょ? 一泊二日の食べ放題ツアーとかもあるし、それはどう?」
「ううん……出発日によるかなあ。いつ?」
「直近は七月二十四日って書いてあるけど。それ以降は八月の初めごろ」
「二十四日かあ、それじゃあ私ダメだ。叔母さんの十七回忌に行かなきゃいけないから」
「八月は俺が無理だなあ。合宿免許の予定があって」
「じゃあツアーはなしね。じゃあ一日目に東京散策して、二日目に夢の国とか」
自信満々に提案したのだが、乗り気な友一と対になる様に佳苗の顔は暗い。
「カップルで行くと別れるって聞いたもん、そこ」
「迷信に決まってるでしょ。気にしすぎだって」
「そうだよ佳苗。俺たちが別れると思うか?」
友一にも説得され、やがて佳苗は「そうだよね」と笑顔で頷いた。
「そんじゃ、あたし帰るね」
チョコレートケーキを平らげ、彩芽はトートバッグを片手に立ち上がった。
いつもならば彩芽と佳苗の二人でしばらくお喋りに興じているところだが、今日は状況が違う。今の彩芽は、目の前のカップルにとってお邪魔虫でしかない。佳苗は親友の考えを察してくれたらしく、特に引き止めようとはしなかった。
「二人でごゆっくり。じゃ、また明日ね」
「うん、ばいばーい、あやちゃん」
「相談に乗ってくれてありがとう、彩芽。助かったよ」
友一にさり気なく呼び捨てされたことに複雑な感情を覚えながら、彩芽は笑顔を取り繕いつつ店を後にした。
三重県の北端に位置する桑名市の夏が暑いのは毎年のことだが、今年は異常だ。梅雨明けを迎えていないというのに今日も今日とて気温は三五度を超え、蒸し暑さが肌に纏わりつく。彩芽はその暑さから逃れるように、喫茶店のすぐそばにあるショッピングセンターに立ち寄っていた。
今朝家を出る時に、母からいくつか買い物を頼まれている。それを記したメモ用紙を取り出し、食料品と化粧品をいくつか購入した。
「あとは月刊誌と……油性ペンか」
二階のおよそ四分の一を占める大型書店は、書籍だけでなく文房具や雑貨も販売している。頼まれた用事を済ませるにはちょうどいいだろう。彩芽は階段を駆け上がり、まずは文房具コーナーに向かった。
手帳や各種ペン、消しゴムなどがいくつかの棚に分けて陳列されており、その中から油性ペンを二本引き抜く。
「で、あとは……」手早く用事を済ませてしまおうと思っていた彩芽の目に、別のコーナーが飛び込んできた。「日記……」
先ほどの喫茶店で聞かされた話のせいか、思わずコーナーの前で足を止める。棚に並んだ様々な日記をしげしげと眺めている間に、いつの間にか見入ってしまっていた。
「へえ、色々出てるんだ」
適当に手に取りつつ、パラパラとめくってみる。水玉模様の可愛らしい表紙をしたものや、ハードカバーのような装丁の三年、五年連用というものも置いてある。ブログなどデジタルなものが主流となっている現在、なんとなくこういったアナログなものは廃れたものだと思っていたが、どうやらそれなりに需要はあるらしい。
ふと、喫茶店での佳苗と友一の様子を思い出した。
彩芽は手にしていた日記を見るともなしに見つつ、意味もなく真っ新なページをめくる。
「名前、先に言っちゃって怪しまれたかな」
思ったことをすぐに口に出してしまうのは悪い癖だ、と唇を引き結ぶ。
喫茶店に友一が現れた際、初対面のはずなのについ彼の名前を口走ってしまった。咄嗟に「友だちの間で噂になっている」と取り繕ってはみたが、不審がられたのは間違いない。
だって、仕方ないじゃない。彩芽は日記を売り場に戻し、背表紙を指で撫でながら内心で呟いた。
――友一くんのことは、紹介される前から知ってたんだから。
彩芽の周囲で噂になっている事には違いないが、その発信源は彩芽本人だ。
三人が通っている大学は隣の四日市市にある。彩芽は毎日電車で通っているのだが、入学したての頃、同じ電車に乗り合わせたのが友一だった。
いわゆる一目惚れだ。爽やかな外見に、否応なく惹かれてしまったのだ。
彼の背が高いこともあり、他の乗客より頭一つ抜きんでたその姿に自然と目が向くようになった。名前を知ったのは駅の改札から出る時に取り出される定期券をたまたま覗き見た時だ。我ながら気持ち悪いなと自嘲しつつ、それでも名前を知れて嬉しかった。
いつか話しかけることが出来ればとは思いつつ、結局諦めてしまう。そんな日々が一カ月近く続いた。
そんなある日、佳苗と二人で訪れた大学の食堂で、友一を見かけた。
仲間たちと談笑する彼に少しでも近づこうと、一番近くの空いている席を無意識に探していた。その時、とんとん、と隣の佳苗に肩を叩かれ、次の一言に驚愕した。
――あやちゃんに、言ってなかったよね。
――あそこに座ってる男の子ね、私の彼氏なの。
彼女が指した先に座っていたのが、他ならぬ友一だった。その瞬間、彩芽の淡い恋は無残に砕かれ、「親友の恋路を応援」へと方向転換せざるを得なかった。
それでも、抱いた恋心が簡単に消えるわけではない。事実、今日初めて喋った友一を前に何度か頬が赤く染まりかけ、仲睦まじく笑い合う二人に胸がざわついた。
佳苗は自分にとって唯一無二の親友だ。いつもならば目の前でイチャつかれようがなんだろうが素直に「微笑ましいなあ」と思うし、祝福もする。だが、今回はそうもいかない。
「二人で旅行、ねえ……」
無意識のうちに、彩芽は時計の上から手首を押さえつけていた。
まさか、密かに憧れている男子と、友人のために旅行先を考える羽目になるとは。
友一と旅行をするのが自分だったら、と考えなかったわけではない。だが、仮に元から親しかったとしても彩芽は彼女になれなかっただろう。
短い黒髪の毛先を摘まむ。佳苗に聞いた話によると、友一は長髪が好みだという。
だから、あたしはきっと選ばれなかった。苦笑しつつ、考えていたことを振り払うように頭を振る。
「あれ?」彩芽の視界に映ったのは、一冊の美しい日記だった。「ちょっと可愛いかも」
夜空と思しき深い藍色の背景と、まるで蛍に似た光の色も大小も様々な玉、さらに『一年日記』と金色の文字が輝く表紙は、まるで万華鏡のように美しく幻想的だ。興味をそそられて表紙を開くと、淡い水色のページが彩芽を出迎える。裏表紙には「本製品には和紙を使用しています」と記されていた。大きさは大学で使っているノートと同じ程度だが、厚さはそれほどない。それに、和紙を使っているだけあって手触りも違う。ノートの紙質は滑らかだが、こちらは少しざらりとしている。
ページ数もそう多くないし、手作りらしい風合いが彩芽をより惹き付けた。
一通り中を見終え、ううむ、と唸る。
「書き始めてみようかなあ」
とはいうものの、あまりまめな性格ではない。気分が乗った時だけ書いてみるというのもいいだろう。日記本来の使い方ではないかも知れないが、自分なりの使い方をすればいいだけだ。
「今日の夜にでも書いてみよっかな」
ふふん、とうなずきながら、彩芽は油性ペンと一緒に日記を抱え込んだ。
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