第15話
「あっ、もしかして!」彩芽の突然の大声に泡草が日記を落としかける。すみません、と素早く謝り、彩芽は机の上に放置されたままだったそれを掴んだ。
『自分が書いたものを見られてはいけない』『他の人が書いたものを見てはいけない』。『幸せになれる日記』を手にした場合のルールを思い出す。「もしかして」ともう一度口にし、彩芽は明菜にそれを――薄汚く色褪せてしまったブックバンドを差し出した。
「日記の所持者になった時のルールが設けられたのは、イジメっ子たちが明菜ちゃんのページを見せないために編み出した苦肉の策だった……のかな」
そう問うと、明菜が静かにうなずいた。
「『書き込むと幸せになれる日記』ってのも、イジメたやつらのデタラメか」
「そうでもしないと、誰かが書き込んだであろう日記を受け取ってくれるとは思わなかったんだろうね」
「頭いいんだか悪いんだか分からねえな、そいつら」
『悪知恵だけなら学校一だったよ』
ひとまず明菜の日記はイジメっ子たちの手から離れ、後輩が所持した。こうして書いた形跡が残っているということは、後輩はイジメっ子たちのデタラメを信じたか、試しに書いてみようと思ったかのどちらかだ。疑っているような文面を読む限り、後者の方が正しいかも知れない。
明菜が「自分と所持者を繋ぐのはペンだ」と知ったのは、この時だったようだ。
『ビックリした。ペンが何か書き込んだ瞬間に、暗くてぼんやりしてた目の前が急に明るくなって、映画みたいなスクリーンが自分の周りにいくつも浮いてんの。初めは意味分かんなかったけど、あー、ウチは記憶を覗いてんだなってなんとなく理解した』
それでさ、と彼女はわずかに頬を紅潮させ、うっとりと目を細める。
『いくつかの映像にはさ、学校でのこともあるワケ。ウチと違って楽しそうで、幸せそうな学校生活がさ。日記の所持者の記憶だからさ、スクリーンの映像は全部そいつの目線で追ってんだ。それを見てたらさ』
幸せそうな学校生活を疑似体験できるって気が付いたんだ。明菜の頬がますます紅くなった。
『スクリーンに映ってんのは、書いてることに関連したことばっかりだったけどさ、すっごい楽しいんだよ。まるで自分がその場にいて、友だちとかと仲良く話してるみたいで幸せで。この友だちとはどう仲良くなったの? 初めて話したきっかけは? そういうの気になって見たいなあって思ったら、伝わってたっていうか』
結果的に日記の所持者は明菜の希望通り、その日に至るまでの事を記すようになった。日記の日付が遡っていたのはそのためか。
「『幸せになれる日記』ってのも、あながち嘘じゃなくなったってことか」
「……えーっとつまり……?」
隼馬が言ったことを中々理解できないでいると、大仰なため息をつかれた。
「記憶のスクリーンを見てるとき、幸せだなって思ってたんだろ。それも多分、持ち主にそれとなく伝わってたんだろ。じゃなきゃ『幸せになれる日記』なんて嘘くさい話、ここまで長持ちするか」
「持ち主を転々としているのもそれを利用したのかな」
泡草の問いかけに、彼女は『セーカイ』と指を鳴らす。が、また不愉快そうに唇を尖らせ、忌々しそうに泡草を睨みつけた。それに気付いているのかいないのか、泡草は冷静に己の考えを述べる。
「ずっと同じところにいては飽きが来るだろうしね。日記を見る限り、短くて三日、長くて一週間で持ち主が変わっている。そして代わる直前の最後の文には『次は誰々さんに渡そう』と残されている。君は記憶のスクリーンから次の持ち主に最適な人を探しだして、渡してほしいと思う。それは持ち主にも伝わって、かくして日記は持ち主を転々とした」
こんなところかな。確認をするように明菜を見ると、彼女は泡草に言い当てられたのが癪なのかそっぽを向き、『大当たりー』と間延びした声で応えた。
「君を日記に、この世に縛り付けているのは」泡草は日記を閉じ、やがて結論が出たのかうなずいた。「『憎悪』と『羨望』……いや、『憧憬』だ」
明菜は無言で泡草の話を聞いている。自然と彩芽の喉が鳴った。
「学校でイジメられていた君は、普通の学校生活に『憧れ』を抱いていたんだろう。それを壊したイジメっ子たちに深い『憎しみ』を持って、それが日記に染みついて死後もこの世に縛り付けられたんだ」
『本業のあんたが言うならそうなんだろうね』明菜は毛先を指で弄びながら呟き、まあ確かに、と足を組んだ。『憧れてたよ。友だちと仲良くして恋をして、時には喧嘩もして失恋もしてっていう学校生活。それをぶち壊した奴らのことは今でも憎い。だから実際、ウチが覗いてた記憶は憧れてた光景ばっかりだった』
「でもこのままじゃ、これまでもこれからも君自身は『覗く』ことしかできない」
明菜は死に、魂はいまだ成仏していない。久保の時と同じだ。「横山明菜」として新たな人生を歩むことは出来なくても、転生すればあるいは。泡草が言わんとしている事を察しているのか、それとも以前から気付いていたのか。明菜は『生まれ変わってもまた同じ目にあうのはごめんだね』と唇を噛んだ。
『それに……』「優しさで傷つくのはもうイヤ?」
考えを読み取られると思っていなかったに違いない。彩芽が放った一言に、明菜は目を丸くしたまま顎を引いた。
彩芽さん、と泡草が何か言いかける。任せてくださいと胸を張れるほど自信があるわけでもない。ただ、大丈夫です、と目配せをするだけに留めた。
「明菜ちゃん、言ってたよね。家族は優しかったって。だけど優しいからこそ、頼れないで抱え込んじゃったんじゃないかな」
その気持ち、分かるよ。彩芽は左手首の腕時計を外し、
「あたしも、中学生の時そうだったから」
そこに隠していた、一筋の傷跡を彼女に見せた。
「勘がいいのと、色々ズケズケ言っちゃう性分が災いして、イジメられてたというより避けられてた。仲の良かった友だちもあんまり話してくれなくなって、段々寂しくなっていったけど、家族には言えなくてさ」
母は厳しくも優しかった。もし学校での状況や、彩芽がどんな立場に置かれているかを話していれば、娘をしっかりと叱りつつも「でもそれは個性だから」と宥めてくれたはずだ。
「だけど、それじゃあ甘えになるんじゃないかって。あたし自身、この性分に嫌気もさしてたし」
明菜は何も言わずただ話を聞いてくれている。泡草も隼馬も同様だ。
「その時、好きな人もいてさ。告白したこともあった。だけど」
――俺さ、隣のクラスの子と付き合ってるんだよね。その子と知り合う前だったら、つきあってたかも知れないけど。
――それに黄土さん、性格ちょっとキツイじゃん。
自分は二番手だった。いや、二番手にすらなれない。その事実に押しつぶされて、枕を濡らした日々は数日間に及んだ。
「でも今さら直せないって思って、でもどうすればいいか分からなくて」
『それで、逃げようとしたってワケ?』言葉に合わせて、明菜が右手の人差指で左手首を傷つけるジェスチャーを繰り返した。『ウチと似てるけど、彩芽は今もそうして生きてるじゃん』
「助けてくれた子がいたから」
――あやちゃん、悩み事があるなら私になんでも言って。
ある日、隣のクラスにいた一人の友人が話しかけてきた。けれど、口先だけだと思った。初めは相手にしていなかったが、それでもめげずに友人は話しかけてきた。
――どうしたの、この傷! 痛かったでしょ? そうだ、いいこと思いついた。今度私と一緒に買い物行こう!
彩芽は腕時計を手首に巻き直す。中学生の頃、唯一無二の親友と出かけた先でなけなしのお小遣いを出し合って購入したのだ。安物だったせいで壊れかけたこともあったが、今でも静かに時を刻んでくれている。
「その時に思ったよ。あたしが勝手に『優しさに甘えるわけにはいかない』ってかっこつけてたくせに、『どうして気付いてくれないの』って甘えていただけなんだって。あの子は強引だったけど、でも優しくて、気付いてくれて、あたしは救われた。それがきっかけでまた他の友だちとの距離もつかんでいった」
それに、ね。伝えていいものか悩んだが、言わずにいるよりは良いだろう。彩芽の脳裏を、親友の少し悲しそうな顔が過った。
「その子明菜ちゃんのお兄さんやお母さんのことをとてもよく知っていてね。ご家族は、明菜ちゃんの悩みに気付いてあげられなかった、相談に乗ってあげればよかったってとても悲しんだそうだよ。だから、迷惑かけちゃうかもって思っても、打ち明けてみたらきっと助けになってくれたはずだよ」
『えっ……え?』
「ちょっと待て、お前の友人って奴がどうしてこいつの遺族のこと知ってんだ」
それはあとで説明します、と言及は避け、「諦めるのは早いから」と彩芽は明菜に向かって手を差し出した。
「最後に味方になってくれるのは自分にとって大事な人だよ。そんなの幻想だって言う人もいると思うし、明菜ちゃんはどっちかっていうとそういうタイプじゃない?」
『分かってるね』自嘲的に肩をすくめ、明菜は穏やかに彩芽の手を取った。『まあでも、今はそれを信じてみるよ。経験者は語るっていうし』
ウチの家族も、心配してくれていたんでしょ。空いていた手で彼女は目元を拭う。鋭い眼光が印象的だった瞳は、涙ですっかり濡れていた。
『家族がイジメに気付いたって事は、ウチをイジメたあいつらは……そんなこと彩芽が知ってるわけないか』
「全部知ってるわけじゃないよ、一部だけ。とりあえず隠し通すことは出来なかったみたい。結局、罪悪感に耐えかねたクラスメイトの一人が担任の先生に伝えたらしくて」
憎むのを簡単にやめろとは言わないよ、と彩芽は笑いかけた。
「イジメっ子たちはそれなりの制裁を受けたはずだよ。これ以上憎むのも馬鹿らしいでしょ」
ふわ、と明菜の白い肌が、より一層透けた。『彩芽、やっぱその子に似てるわ』
彼女の視線は、眠り続けている沙羅に向けられた。
「その子……沙羅さんのこと?」
明菜がうなずくのに合わせるように、沙羅がわずかに身じろぎする。
『その子、ウチに話しかけてきたんだよ。「自分を追い込んだ人を憎むのは当然だよね。でも憎むのって疲れない? 私には分からないけど」って。けどウチ、それで毒気抜かれちゃってさ。あいつら憎んでんのバカらしくなってきた』
「沙羅は……自分から君と接しに行ったのか」
沙羅と明菜が、自分の知らないうちにコンタクトを取り合い、話をしていたとは思わなかったのだろう。泡草は驚愕に満ちた眼差しで沙羅を見遣り、まるでガラスに触れるように妹の頬を撫でた。
「だけど、日記をどれだけ見ても、沙羅の名前は書いてない」
『……そだよ。ウチがその子と出会ったのは本当に偶然。あんたに言っても信じてもらえないかも知れないけど、ウチが満足するならって自分が体力消耗しちゃうまで記憶見せてくれたんだよ』
「沙羅から記憶を奪ったのは君の本意じゃなかったんだって、今なら分かるよ」
話を聞く限り明菜はあくまで「記憶を覗いていた」だけだ。奪ったのは初めの力加減が分からなかった頃と、沙羅の時と、その二回に限られている。
明菜の体がますます薄くなっていく。彼女は『あれはあんたも悪いんだからね』と鼻を鳴らした。
『突然部屋に入ってくるし、ウチはびっくりしてその時見てた記憶の一部引っこ抜いちゃうし。返そうと思ったら引き離されてるし』
挙句の果てにあんたの癖移るし、と不満そうに明菜は何度も指を滑らせた。
泡草は「反省するよ」と沙羅の髪を梳き、彼女の目覚めを祈る様に数秒間目を閉じる。再び開いた眼には、どこか晴れやかな光が浮かんでいるように見えた。
「言っていたよね。ぼくのこと、優しいって。それで傷ついている人がいるって」
泡草が言おうとしていたことを察したのだろう。『分かったんならいいよ』、明菜はどこかホッとしたように沙羅を見つめた。
「仲直りした事だし、ぼくから一つ。君の担任だった先生の名前は、椎名朱里で合ってるかな?」
そうだけど、と明菜は不思議そうに首をひねる。それがどうしたと聞きたいらしい。
「向こうに逝ったら、もしかしたら会えるかもしれないよ。君に謝りたがっていた」
『……椎名先生、死んだの?』
「先月ね。交通事故だそうだ。君と同じように日記に縛り付けられていて、その時の縁で少し話をしたんだ。君を助けてあげられなかったこと、ひどく悔やんでいるようだった」
恨まれているかもしれない、と言いつつ、会えるわよねと言って姿を消した朱里の顔を思い出す。明菜は悲しげに目を伏せ、『そっか』とだけ呟いた。
「次の人生、楽しいといいな」
あんたも、椎名さんも。隼馬に続き、泡草も「そうであれとぼくも願ってるから」と微笑んだ。明菜は目線でそれに応えると、彩芽の手を握る様に包み込んだ。
『彩芽、ウチの家族と知り合いなんだよね』頼まれてくれないかな、と彼女は申し訳なさそうに笑う。『その日記、家族に渡してくれないかな。苦しい状況の中でもウチが生きてたって証なんだ』
だからこそ、それを取り上げられて、絶望した挙句死んじゃった訳だけど。自虐的な笑みに同調していいか分からず曖昧にうなずいていると、『ノリが悪い』と小突かれた。だが、その拳はするりと彩芽の腕を通り抜ける。
そろそろ時間だろう。明菜は天井を見上げ、流れに身を委ねるように緩やかに目を閉じた。
『そういえば今日、ウチの命日じゃん』
丁度いい日よりだね、と呟いた途端、まるで弾けるように彼女の体は空気に溶け消えた。
彩芽は泡草から日記を受け取り、胸できつく抱きしめた。
「これは必ずあなたの家族に……佳苗に、渡しておくから」
頬を柔らかな風が撫でていく。空調とは明らかに違うその感触に、彩芽は明菜の影を追うように天井を見上げた。
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