第16話

 あれは今から四年前のことだ。

 きっかけは同じ専攻の友人だった。

 数日前から、沙羅のクラスでも『幸せになれる日記』の噂が流れ始めていて、友人が実物を手にしたと相談してきたのは噂を聞いて一週間後のことだった。

 実際に使ってみて、確かに幸福感のようなものはあったらしい。けれど同時に不気味だとも思った。そこで「日記店」の娘である沙羅に相談したというのだ。

「縛り付けられてるとは思うんだけどなあ」

 短大に通うようになってから一人暮らしを始めたワンルームの中央で、沙羅は丸く可愛らしいローテーブルに乗せた一冊の日記と向き合っていた。

 ざっと日記を読んだ限り、異変が起こっているのは明らかだった。だが、祖父や父、そして兄の飛鳥と違い、日記に縛り付けられた魂と対面する力は持っていない。自分はただの一般人だ。本来ならばすぐに父か兄に連絡して日記について知らせるべきではある。

 ――でも、私ももう大学生なんだし。せっかく友だちが頼ってくれてるのに、このまま丸投げするのはお父さんやお兄ちゃんに対する甘えなんじゃないかな。

 優しい父や兄の事だ。仮に丸投げしたとしても絶対に責めたりはしないだろうし、むしろ「知らせてくれてありがとう」と褒めるに違いない。しかし、先の考えが脳裏を掠める。そんなの、全く役に立てていないじゃない、と。

 頬杖をつきつつ、ぱらぱらとページをめくる。指先が痺れていたが、それに気付いたのはノイズがかった声がどこからか聞こえてきた頃だった。

「なんだろ? もしかして」

 声が耳元を掠めると同時に、指先が微かに痺れる。それはまるで、声に合わせて振動しているようだった。そう思いいたるや否や、沙羅は筆箱からボールペンを取り出し、試しに「こんにちは」と書き込んだ。

『……あんた、ウチの声が聞こえるの?』

 ノイズ混じりだった声が急に明瞭になった。可愛らしい声に思わず頬が緩んだが、それを即座に引き締め、「聞こえるよ」とペンを滑らせながら、口でも応えた。

『なんで? 今までそんなことなかったのに』

「なんでだろうねえ」沙羅自身も疑問だったが、一つの結論に辿り着いた。「私にも、ちょっとはコミュニケーションをとれる力があるって事なのかも」

 だとすれば、少しは父や兄の力になれるかもしれない。

 時折店に持ち込まれる日記を『視て』、人々の力になる父や兄は素直に尊敬している。それと同時に、自分にもその力があれば二人を助けることが出来るのにとも思った。実際、悩んだ末にそう告白したこともある。

「いいんだよ。沙羅は今のままでも、ぼくや父さんの力になってくれてる。気に病まなくていいんだ」

 優しい兄はそう言ってくれた。もちろん言葉通りの意味だったに違いない。

 分かっている。分かっているはずなのに。

『役立たずって言われたと思った?』

 哀れむような声色にハッとする。慌てて「なんで分かったの?」と問いかけると、『ウチはそういうの分かるから』と答えられ、明菜と名乗った魂は自分がどんな人生を歩み、死に至ったのか教えてくれた。

『ウチの目の前には今、日記を持ってる人が目にした光景を映し出すいくつものスクリーンが浮かんでんの。さっき聞いたのは、その時の映像を見たから』

「映画みたいだねえ……」

 素直に感心していると、明菜が呆れたような気配がした。

『あんたの兄貴、ずいぶん無神経だね。ウチが嫌いなタイプ』

「悪い人じゃないんだよ。良い人だよ」

『この茶髪、よく映ってんね。彼氏?』

 しばらくはそんな他愛ない話を繰り返し、気が付けば日付が変わって二時間が過ぎていた。それでも、沙羅は明菜と話し続けた。

 自分を死に追いやったイジメっ子が今も憎いと語った明菜に「疲れちゃわない?」と聞くと、そんな事を言われたのは初めてだと笑われた。何気ない学校生活を送りたかったと泣かれた時は慰めた。

 寝ずに話すのは疲れる。けれど、少しでも彼女と打ち解ければ、明菜を縛り付ける感情を少しは解せるかもしれないと思った。最終的には父や兄に任せる事になるだろうが、出来る限りのことは自分でもしておきたかった。

 ――そうすれば、お兄ちゃんは褒めてくれるかな。

 しかし、思っていた以上に体力を消耗した。明菜に「満足するまで記憶を覗いて」と言った手前、泣き言は隠し通していたかった。

 ――でもやっぱり疲れたな。このまま眠ってしまいたい――

『ちょっと、ちょっと大丈……――』

 焦りを帯びた明菜の声が急に消えた。気が付けば、日記に向いていたはずの視線は真っ白な天井を移していた。ペンを握っていた右手も震えて力が入らない。カーテンの向こうから差し込む光は、夕焼けの橙だ。

 徹夜に加えて、体力を著しく消耗したことが祟ったのだ。

 日記の隣に置いていた携帯がメールの受信や電話を報せる。出なければと思うが、全身は倦怠感に包まれていた。

 どうしよう。日記に向き合って倒れて、お兄ちゃんが知ったら絶対に怒る。沙羅の目元から、一筋の涙が零れ落ちた。

 ――ごめんなさい、お兄ちゃん。

 ふ、と体が軽くなる。それと同時に、沙羅は意識を手放した。



「……ごめんなさい、お兄ちゃん」

 微かな声を聞き、ソファにもたれてまどろみかけていた彩芽の意識は瞬時に覚醒した。

 向かい側のソファに寝かされていた沙羅が目を覚ましたのだ。駆け寄るべく腰を浮かしかけた彩芽だったが、彼女の姿は広い背中に隠された。

「沙羅、沙羅……!」

 妹を抱きしめ、泡草は震えながら何度も名前を呼んだ。ずっと床に膝立ちの状態で沙羅の手を握り、目覚めるのを待ち続けていたのだ。久しぶりに聴いたフレーズに、我慢が出来なかったらしい。

 腕時計を見ると、針は夜十時を示している。帰りが遅くなると母に連絡しておいて正解だった。ふと隣を見ると、コンビニで購入してきたおにぎりを頬張りかけていた隼馬が目元を頻りに擦っている。断続的に鼻を啜る音も聞こえた。

「お兄ちゃん、ちょっと痛い」

「あっ、ごめん」笑いを含んだ沙羅の訴えに、泡草はさっと腕を放した。だが、またすぐ緩やかに抱きしめる。「ぼくのほうこそ、沙羅に謝らなきゃいけないことがある」

 明菜さんに聞いたんだ、と泡草は沙羅の髪を撫で、

「ぼくは無意識にお前を傷つけていたんだね。お前は……あの日、自分なりに明菜さんと接触して彼女を助けようとしていた。ぼくや父さんには何も言わずに。それは……」

「いいの」

 沙羅は軽やかに兄の肩を叩き、大人びた笑みを浮かべた。

「お兄ちゃんに悪気はないんだって、今も昔も思ってるし。あの時は何とかしてお兄ちゃんに褒められたかったんだけど、今にして思えば意地を張らずに相談してればよかった。だから、今度からは私は私なりにお兄ちゃんをサポートするって決めた!」

 目覚めたばかりだというのにかなり元気だ。沙羅らしい。可愛いなあと弛みきった頬を持ち上げながら、本当ならば今すぐにでも彼女を抱きしめたいであろう隼馬に目を向けた。

 彼なりに兄妹水入らずの時間を過ごさせてやりたいのだろう。隼馬は「茶、淹れてくる」と給湯室へ姿を消した。

「めーちゃん」「彩芽さん」突然名前を呼ばれ、間抜けな声が出た。向かい側のソファでは、泡草と沙羅がそっくりな笑みを目元に浮かべて給湯室を指している。「はーちゃんにお茶淹れさせちゃダメだよ」

「あっ!」

 そうだ。彼が淹れる茶は尋常ではないくらい苦いのだった。彩芽は慌てて給湯室に飛び込み、待ったをかけようと腕を伸ばし、

「なんだ、その間抜けな顔」

 腕を組んだまま壁に背を預けている彼を見て、その状態のまま静止した。

「俺に茶淹れさせるのはダメなんだろ」

 聞こえてたぞ、と不服そうに唇を尖らせる隼馬に、思わず吹き出してしまった。彼は渋面のまま「おら、茶っ葉」と筒状の缶を差し出してくれる。

 彩芽はそれを受け取り、棚から取り出した急須に適量を放り込みながら「隼馬さん、嘘つくの苦手ですよね」と笑ってやった。

「何がだよ。馬鹿にしてんのか」

「してませーん」彩芽はポットの湯を急須に注ぎながら、隼馬と沙羅が店に入ってきた時のことを思い返した。「だって、おかしいじゃないですか」

 ――店に戻ってきたら鍵とカーテンしまってるし、寝てんのかと思ったんだよ。じゃあ起こしに行くか、と思って裏口から入ってきたら予想は外れてるし。

「八年間も泡草さんのそばにいるのに、気付かないわけないじゃないですか。鍵もカーテンも閉まってる状況を見て、日記を『視て』るんじゃないかって。なんとなく気付いてたんですよね? 明菜ちゃんの日記を『視て』て、もしかしたら沙羅さんの記憶が戻るん、」

「さあな」

「あっ、ちょっと!」

 話は終わっていないというのに。隼馬はその場から逃げるように湯呑を持って給湯室を出て行ってしまう。それを追いかけて急須と共に飛び出すと、泡草と沙羅が隼馬の朱色に染まった耳を見て笑っていた。



 外はいよいよ夏本番とも言うべき気温だが、『リラ』の中は涼し過ぎず、程よい温度が保たれている。彩芽がアイスコーヒーにシロップを注いでいると、トイレに行っていた佳苗が向かいのソファに腰を下ろした。

「私のショートケーキは?」

「まだ来てないよ。そろそろじゃない? あ、ほら」

 タイミングを見計らったかのように、ウェイトレスがケーキとフォークを置いていく。佳苗は早速フォークを手に取り、迷うことなくイチゴに突き刺した。「ケーキのイチゴは最初に食べる派」らしい。彩芽は最後に食べる派だ。

 大学は明日から夏休みに入る。しばらくは『リラ』に来ないだろうということで、彩芽と佳苗は大学帰りに店に訪れた。席はいつもと同じ、厨房やトイレと反対に位置する角のソファ席だ。

「友一くんとの旅行、来週からだっけ」

「そうだよー」佳苗はアイスカフェオレをストローで吸い上げ、惚気たように頬を染める。「あやちゃん、ホントにありがとうね。行き先とか」

「いいって。別に、それくらい」

「あやちゃんは旅行とかしないの? 家族でさ」

「お母さんはしたいなって言ってたけど、お父さんが面倒くさがって」

 冬に行くならともかく、夏なんて暑くて倒れたらどうするんだ。そう言って聞かなかったことを思い出し、つい苦笑してしまう。母は残念そうだったが、それなら冬にスキーに行こうという話で落ち着いた。

「それで、あやちゃん。渡したいものって?」

「ああ、えっとね」

 佳苗に促され、彩芽はトートバッグをあさった。『リラ』に来る前、渡したいものがあると説明しておいたのだ。取り出したのは、ピンク色の地に白い水玉模様が浮かんだ表紙の日記――明菜の日記だ。

「中学生のとき、佳苗言ってたよね。イジメを苦にして、十六年前に叔母さんが亡くなったって」

「そんな話もしたねー」

 ショートケーキを四等分にし、佳苗はそのうちの一つを口に運びながらうなずいた。

 佳苗の父や祖父母――明菜の兄や両親は、彼女の異変に気付けなかったことを後悔し、以後そんな悲劇が起こらないように活動しているという。中学生の頃、彩芽は佳苗にその旨を聞いていたのだ。

「小さい時によく遊んでもらったんだ」明菜は佳苗が三歳の頃に自殺した。生きていれば三十一歳なんだけど、と呟きつつ、彼女は日記を手に取った。「でも、それがどうかした?」

「私のバイト先、日記店って言うんだけどね。日記を売ったりするほかに、持ち主不明の日記を預かったりもしてて」

 話の筋を掴めずにいる佳苗に首を傾げられたが、先日、泡草と打ち合わせたとおりの事を口にする。現場を見ていない者に「実はこれに佳苗の叔母さんが縛り付けられてて」と説明し、全てを理解してもらうのは難しいだろうという判断の結果だ。

「しばらくは『幸せになれる日記』っていう名前で色んな人のところを転々としてたんだけど、不審がった親切な人が届けてくれて。色々ヒントを探った結果、持ち主は横山明菜さん……佳苗の叔母さんだったんじゃないかってことに」

 真実も交えながら説明し、日記を差し出した。佳苗は呆然と話を聞いていたが、やがて我に返り、そっと表紙を開いて「色んな人が書いたんだね」と露骨に眉を顰めた。

「あっ、でも『もしかして』だから。一度佳苗のお父さんに見せてみて、もし合ってたらそのまま引き取ってほしい。間違ってたらまた持ち主を探すから」

「分かった。帰ったら聞いてみるね」佳苗は日記の表紙を撫で、傷付けまいとするように慎重にバッグの中にしまい込む。「それにしても、日記店だっけ。そんなのこの辺りにあったんだね」

 確かに知名度はあまり高くないだろう。けれど、実は『リラ』にも日記店のチラシを置かせてもらっている。頼み込んだのは彩芽だ。顔なじみということで、店主は二つ返事で了承してくれた。

 チラシの数は減っているとは思えないが、それでも、ないよりはあるほうがいい。

「ん?」

 気を取り直してケーキを食べようとした寸前、ふと佳苗の右耳で何かが輝いたのに気が付いた。「ああ、これ?」と彼女は耳に手を添え、自慢げに胸を張る。

「友一くんがくれたの。可愛いでしょ?」

 佳苗の右耳では、星の形のピアスが光を反射して煌めいている。

「私がこういうの憧れてるって知って、一カ月記念日だからって」

「あー、だいぶ前に言ってたね」

 指輪をはめる指で意味が変わってくるように、耳にピアスを付ける場合にも意味があるという。彩芽はまったく気にしていないが、佳苗はそういうものをかなり気にする。

「友一くんもね、左に一つ付けたんだ。『俺が佳苗を守ってやる』って!」

「は?」

「前に説明したじゃんかー」佳苗はピアスを指で弾き、改めて説明してくれた。「女の人が右耳に一つだけピアスを付けるとね、『守られる人』って意味になるの。男の人はその反対で、左耳に一つだけピアスを付けると『守る人』って意味になるんだよ」

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