エピローグ

 彩芽が日記店に訪れると、店に中央に置かれたソファに座っていた泡草が出迎えてくれた。今日の着物は縹色の地に波模様が描かれている。

「こんにちは。隼馬さんはいないんですか?」

「出かけてるんだ。久しぶりに本業の方でね」

 言いながら、泡草は右手の人差指と中指を動かした。ハサミのつもりらしい。

 隼馬が美容師だったというのは、以前沙羅から聞いていた。どうやら沙羅の記憶が戻ったことで泡草の「保護者」である必要が無くなったのだろう。彼は徐々に、元の職場へ復帰していた。

 とはいえ、すぐに勘が戻るものでもない。しばらくは日記店をメインに働くそうだ。

 彩芽は給湯室のそばに設けられた荷物置き場にトートバッグを置き、二人分の緑茶を用意してからソファに座った。

「ああ、そうだ。彩芽さん」

 泡草は机の上にすでに置かれていた煎餅を手に取り、半分に割りながら「日記を『視た』代金の件だけど」と続けた。

 そうだ。忘れていたわけではなかったが、彩芽が店で働き始めるきっかけになったのはそれだ。彩芽は姿勢を正し、泡草の言葉を待つ。

「そんなに身構えなくていいよ。代金、半額にしたっていうだけだから」

「そうですか、半額……半額!」

 思わず声を上げてしまった。半額ということは、つまり五千円だ。だいぶ安くなっている。

「なんでですか?」

「横山さんの日記を『視た』とき、彩芽さんは彼女に『次』へ踏み出すきっかけを与えてくれただろう? そのお手柄で」

「そんな大したことはしてないんですけど……いいんですか? なんだか申し訳ない気が」

「気にしないで。隼馬はとやかく言うかも知れないけど、店主であるぼくの判断だから」

 そう言われてしまえば彩芽も何も言えない。ありがたく甘える事にした。

「もう傷は痛まない?」

 不意に問いかけられ、一瞬何のことか分からなかった。泡草は自身の左手首を指し、「よく押さえてたから」と不安げに続けた。

「ああ、えっと、大丈夫です。傷自体はだいぶ前のものだし。押さえつけちゃうのは癖っていうか。嫌なことがあったりすると痛さを想像しちゃったりはしますけど、大丈夫です」

「それならいいんだ」安堵したように泡草は笑う。温かなそれにつられ、彩芽も自然と笑みを浮かべていた。「もし悩みとかあったら、ぼくでよければ相談に乗ったりもするから。もう自分で自分を傷つけないようにね」

「その言葉、そっくりそのままお返しさせていただきます」

 と、

「おじゃましまーす!」

 店の扉が勢いよく開き、鈴がガラガラと騒がしい音を立てる。風情も何もあったものではない。

 声と行動から察しはついていたが、扉の前に立っていたのは、やはり沙羅だった。その隣には紺色のシャツにジーンズを履いた隼馬もいる。本業を終えて店に戻ってきたようだ。

「遊びに来たよー! あっ、お兄ちゃん今日はその着物なんだね! 私が似合うって言ったやつ!」

 沙羅の勢いにたじろいだのか、泡草が引きつった笑みを浮かべる。隼馬に聞いた話だが、泡草がこれまでに着ていた着物は全て沙羅が勧めたものだそうだ。どんな些細なことでも記憶を取り戻すきっかけになれば、と思ってのことだったらしい。

「今日はね、家でクッキーを作ったの! それで味見してほしくって!」

「それはいいけど、もう少し静かに……あれ?」

 店内に入ってくる沙羅を見て、泡草は違和感を覚えたように首を傾げる。彩芽は沙羅と隼馬が隣り合って座るであろうと予想しつつ、泡草の隣に移動しながら問いかけた。

「沙羅さん、髪切った?」

「そうなの!」と沙羅は短くなった髪を掌でふわふわと持ち上げる。

 記憶を取り戻した翌日、心機一転、なにかしたいとはぼやいていたが、まさか髪をバッサリ切るとは思っていなかった。少し残念な気もするが、こちらの髪型も似合っている。それに、短い方が右耳に付けられたピアスがよく見える。

「はーちゃんが本格的に復帰し始めたって聞いたからね、切ってもらったの! 可愛いでしょ?」

 くるん、とその場で沙羅は横に回った。藤色のワンピースがふわりと揺れる。

「飛鳥、客は?」

 隼馬がソファに座ると、思っていた通りその隣に沙羅が腰かけた。

「午前中に三人くらい日記をお買い上げになっていったよ。彩芽さんが来る前にも来てた。この間の夕夏さんとお姉さん、それとお母様が」

 少女たちの間で『幸せになれる日記』とされていたものは、先ほど元あるべき場所に戻った。そのあたりの経緯についても説明したという。代金は大体彩芽の時と同じで、支払いも済ませて帰ったそうだ。

「あ、じゃあちょっと待ってください」

 今の話を忘れないうちに、と彩芽は荷物置き場に置いて来たばかりのトートバッグを取りに戻り、泡草の隣に腰を下ろしながら中を漁り、目当てのものを取り出した。

 彩芽がこの店に来るきっかけにもなった、あの夜空柄の日記だ。

「椎名さんの時から、どんなお客様が来たのか日記に書くようにしたんです。来店理由とか支払金額とか」

 説明しながら、先ほど泡草が言っていた内容を事細かく記していく。泡草に感心したような目を向けられて照れくさく、落ち着かなかったが。ある程度書き終えて日記を閉じると、

「実はねー、そんな頑張りやさんなめーちゃんに贈り物があるの!」

 まるでいたずらに成功したような笑みをこちらに向けながら、沙羅は隼馬の腕を無理やり引っ張った。「はーちゃん、車に荷物置いてきちゃったから手伝って!」

 はあ? と隼馬が抗議の声を上げるのも構わず、彼女は立ち上がるや否や彼氏を連行して外へと出て行ってしまった。彩芽は「贈り物って?」と泡草と目を合わせてみるが、彼も聞いていなかったらしい。無言で首を傾げるだけだ。

 誕生日という訳でもないし、贈り物をされるような心当たりはない。菓子かなにかだろうかと見当をつけていると、やがて戻ってきた沙羅と隼馬が抱えていたのは、菓子のような小さなものではなかった。

 隼馬は荷物を抱えながら二階へ上がっていったが、沙羅は一階に残り、机の上にそっと荷物を置いた。机からはみ出しそうなほど大きい長方形のそれは、たとう紙に包まれている。

「私とはーちゃんから、めーちゃんにプレゼントだよ」

 ほら、と中を見るように促されるが、いまいち状況が飲み込めない。そうしている間に、興味を惹かれたらしい泡草が先に中身を確認していた。

「矢絣(やがすり)の小紋と袴だね。女学生らしい」

「こも……?」

「明治から大正頃の女性の学生が着ていたものだよ。漫画やドラマとかで見たことない?」

 言われてみて、なんとなく想像がついた。彩芽は「早く」と沙羅に急かされ、おずおずと柄を確認する。

 折りたたまれている上に包まれているので全貌ははっきりとしないが、レトロな感じが可愛らしい。思わず見惚れてしまった。

「え、でも、着物って高いんじゃ」

「そこは気にしないでよー。それにほら、お兄ちゃんもはーちゃんも書生服とか着物なのに、めーちゃんだけそうじゃないのは少し残念だし? って、はーちゃんが」

「余計なことは言わなくていい」

 二階に行ったついでに着替えてきたのか、書生服姿の隼馬が沙羅の隣にどっかりと座った。気のせいか、頬が薄く染まっている。

「あー……まあ、なんだ」彼は照れくさそうに頭をかき、彩芽から目を逸らしながらぼそぼそと呟くように言う。「別に部外者だとか思ってねーっていう、そういうあれだ!」

 そういえば、沙羅と彩芽が初めて会った日、隼馬に家まで送ってもらった際にそんな事を言ってしまった。謝ろうと思ってタイミングを掴めないままでいたのだが、彼は彼なりに気にしていたらしい。

 店の一員として迎え入れられた。その感覚は嬉しくもあり、むず痒くもある。素直に笑って礼を言いそうになったが、ふと我に返った。

「絶対高いじゃないですか! しかももう一つありましたよね? タダでなんて受け取れません! お金払います!」

「日記を『視た』代金すら払えねー奴がなに言ってんだ」

「片方は私のお下がりだし気にしないでー」

「えー、でも……」

「まあまあ。ありがたく受け取っておこうよ、彩芽さん」

「ねっ、それじゃ早速着てみよ! 私が手伝ってあげるから、ほら!」

「えっ、ええ、ちょっと」

「男子禁制だからね! 覗きダメ、絶対!」

「禁制も何も、着替えるのに使うのはぼくの部屋だよね?」

 彩芽の腕を掴み、沙羅は意気揚々と階段へ向かう。助けを求めようと泡草と隼馬を交互に見たが、二人とも無言で手を振るばかりだ。

 少し悩んだ末にため息をつき、まあいいか、と苦笑する。せっかく贈ってもらえたのだ、ありがたく受け取らせていただこう。

 彩芽と沙羅が二階へと上がっていった店内に、カラカラと鈴の音が響いた。


                                     終

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泡草日記店来客簿―黄菖蒲と魂宿る日記― 小野寺かける @kake_hika

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