第14話

『ウチ知ってんだ。あんた、超優しいんだよね』ぐ、と人差し指を泡草の胸に押し付け、彼女は蔑むように目を細めた。『それで傷ついた人がいるかもって考えたことある?』

「……なにが言いたいのかな」

『気が付いてないあんたが悪い』

 呆れたとばかりに大仰なため息をつき、少女は手を引っ込める。

 すぐに背中に隠れてしまったが、少女の左手首には、切り付けたような痕が幾重にも残されていた。

 もう消えたはずの痛みが、彩芽のそこに蘇ったような気がした。

「ヒントもなしに気付けっていうのかい?」

『そんなもんを教えてやらなきゃいけないほどあんたは馬鹿なの?』

 やけに泡草に対する当たりが強い。だが、反対に沙羅には妹と接するかのような温かみを感じた。

 少女は一体、泡草の何に対して怒っているのだろう。

 それは困ったな。泡草は腕を組み、軽く笑ってみせる。それは口元だけで、目は怖いくらいに少女を見据えていた。

「……その、傷」

 このままでは埒が明かない。自分なりに判断した結果、

「自分で付けた傷?」

 彩芽は少女に問いかけていた。

 まさか彩芽から声がかかると思っていなかったのだろう。少女はわずかに目を丸くすると、面白そうに口の端を歪めてソファに座り直した。『ああ、見えちゃった? そうだよ、自分でやった。あんたの――えーっと、名前なに?』

 下の名前だけ告げると、『そう、彩芽の言う通り』と指を鳴らした。だが、すぐに行動を恥じるように仏頂面で指を組む。

 ひとまず自分とは話してくれるらしい。ならば、次の判断を下すまでだ。

「隼馬さん、日記貸してください」

「あ、ああ」

「亡くなった後にあまり長い間この世にいると、本人にとっても周りにとっても悪いことが起きる。そうですよね、泡草さん」

 受け取った日記を開きながら、久保の時に泡草が言っていたことを思い出す。記憶は間違っていなかったようで、「そうだね。最悪の場合、本人は悪い霊になって自我を無くすし、周囲に不幸を振り撒きかねない」とうなずかれた。

「だから、あなたをこの世に縛り付けてる感情を解きほぐさなきゃいけない。でも泡草さんとは喋りたくない。だったら、」

 あたしとなら、いいでしょう? 拒否されるかもしれない不安をはね付けようと胸を張って問いかける。少女は悩ましげに黙り込み、やがて首を縦に振った。

 お前にどこまでやれるんだ。沙羅を抱きかかえ、少女から距離を取る隼馬の目がそう訴えている。隣の泡草は膝の上で拳を作り、彩芽に託すしかない現状を責めるようにやや俯いていた。

 ――確かにあたしは新人で、日記のこともよく知らない。店で働き始めたのも今月のことだし。どこまでやれるかなんて自分にも分からないけど。それでも。

 気合を入れるように両頬を躊躇いなく叩く。ぱちん、と心地よく響いた音に一同が目を丸くした。

 覚悟は決まった。やるしかない。

 日記の内容自体は少女が出てくる直前まで読んでいた。その中から気になっていた部分を選び出し、

「この日記をくれたのは、お兄さんと、お姉さん?」

 冒頭の冒頭、「三月三日 かなちゃんの面倒を見ていたら、今日は誕生日だからって仕事帰りに兄ちゃんと姉ちゃんが日記をくれた」と記されていた部分の後半を指で辿る。少女はすぐさま『ウチに姉ちゃんはいないよ』と顔の前で手を振った。

 これは――椎名の妻の時と同じパターンか?

「じゃあ『かなちゃんの面倒を見る事になった』っていう、かなちゃんは妹?」

『はずれ。ウチの兄弟は兄ちゃんだけ。姉ちゃんも妹もいない』

「えぇ……」

「お前の兄貴、結婚してたんじゃねえのか」

 黙って見ていられなかったらしく、隼馬が助け舟を出してくれた。

 少女は彼を鋭く睨んだが、図星だったようだ。渋々『セーカイ』と手を叩く。そうか、兄の妻なら「姉ちゃん」と呼んでも不思議はないのか。

 ひょっとすると「かなちゃん」は、兄の娘の可能性がある。隼馬に感謝しつつ、気を取り直して日記をめくった。

「日記の持ち主を選んでいたんだよね。その基準は……」

 なに、と聞きかけて、少女は挑むようにニヤリと笑う。当ててみせろということか。

 難しかったらどうしようかとマイナスなことを考えていたが、大前提だけ日記に残されていた名前で察していた。「……自分と年齢が近くて、分かり合えそうな女の人?」

『当たり』

 少女は足を組み、胸の前へ垂れていた髪を背中へと流した。隠れていた名札がようやくはっきりと見えるようになる。

 ――横山明菜あきな

 自分では気が付かなかったが、名を見た彩芽は相当驚いた顔をしていたらしい。少女――明菜は怪訝そうに『どうしたの』と首を傾げていた。泡草に呼ばれて沙羅を抱えたまま駆け寄ってきた隼馬にも「どうしたんだよ」と呟かれた。

 彩芽は同じ名前の人物を知っていた。

 はたして、自分の知っている横山明菜とこの少女は同一人物なのだろうか。

「いや、でも……」

 ぶつぶつと呟きつつ、頭の中を整理する。

 彼女の名前はそれほど珍しい名前とはいえないし、もしかしたら同姓同名なのかもしれない。いまはとにかく、彼女が現世に縛られるだけの悔いとはなんなのか。今は探ることに集中すべきだ

 彼女が現世に縛られるだけの悔いとはなんなのか。今は探ることに集中すべきだ。

「手首の、傷」彩芽は自分の手首を指し、「学校や家でイヤなことがあって、つけたもの?」と明菜の目を見た。

「例えば、家族に冷たくされたとか、学校でイジメられたとか」

『家族については正反対だよ。母ちゃんも父ちゃんも兄ちゃんも姉ちゃんも、みんな優しかった』

 優しかった、と彼女はうわごとの様に繰り返した。

 じゃあ、どうしてそんなに悲しそうな顔をしているの。

 彩芽が問う前に、明菜は『後半は間違ってない』と先の問いに淡々と答えた。吹っ切れたような、それでいて困った笑みを浮かべて。

「イジメられるような子には見えないけどな」

『才色兼備って響きはいいけど、実際その身になってみると大変なんだよ』

 くるくると指先で毛を弄り、仏頂面で唇を尖らせるのは生きていた頃の癖だろうか。

 自分で言うか、才色兼備って。スマートフォンを操作している隼馬の独り言を無視し、彼女は何者かを見下す様に目を細める。

『平均点上げやがってとかさ、良い点数採れるのは教師に媚びうってるからとかさ、メチャクチャだし支離滅裂だしガキかよって感じ』

「……亡くなったのは、それが原因?」

『手首のこと? それともイジメ?』まあいいや、と彼女は首を掻いた。『何度か試したけど、やっぱ手首切るだけじゃ無理だったわ。首吊ったら普通に死ねたよ。苦しかったけど』

「これか」

 沙羅の頭を自分の胸に傾け、隼馬が彩芽に、そして泡草にスマートフォンの画面を見せる。文字が羅列されたそれはなにかの記事らしい。日付は今から十六年前の七月二十六日になっている。

「ざっくり言うと、一学期の終業式があった日の夜から行方不明になってた中学三年生の女子が雑木林で遺体で発見されたっつー事件だ。女子は木にロープを括り付けて、首を吊ってたらしい。顔写真も名前も載ってたから検索かけたら一発でヒットしたぞ」

 画面を明菜にも見せると、「記事になってたんだ」と目を丸くしていた。

「周囲に荒らされた形跡がないことや遺体にも目立った外傷がないため、警察は自殺と断定した……これに間違いはないんだね?」

『うん。ウチが死んだって分かった時のイジメっ子たちの顔、今でも思い出すよ』

 泡草に対する嫌悪感が一時的に緩んでいるのか、それとも当時の事を思い出していて気にする余裕がなかったのか、明菜はあっさりと肯定した。

 彩芽は日記をめくり、四月以降に学校でのことが書かれた部分に目を通しながら、

「家族にイジメの事は相談しなかったの?」

『しようとは思ったけど、止めた』

「けれど、君が死んだ後にご家族が日記を見ればイジメだったと分かって、助けてあげられなかったと後悔して、」

 最後まで言う前に、泡草は口を噤んだ。まさか、と漏れた声は掠れていた。

「言っていたね。『イジメっ子たちの顔、今でも思い出す』って」

 日記に残された感情に魂が縛られる場合、魂は椎名の妻の時の様に死後すぐに日記が置かれていた場所に移動する。そこから考えると。

「君が亡くなった時に日記を持っていたのは、君をイジメた人たちか」

 くす、と明菜は切なげな笑みを浮かべた。

「日記をいつも持ち歩いていたの?」彩芽の問いに彼女は無言でうなずいた。「そっか。家に置きっぱなしだったら、もし読まれた時にイジメられてること、バレちゃうもんね」

 明菜の日記に綴られているのは、家庭での賑やかな話題以外は全て虐められている事をほのめかす内容ばかりだ。恐らく兄夫婦は共働きで、兄嫁が出かけていた間は母が孫の面倒を見ていたはずだ。父も仕事をしていただろうし、ただでさえ忙しい家庭に少女は余計な心配と面倒を持ち込みたくなかったらしい。だからいじめを隠し通し、そのために日記も持ち歩いた。

 しかし、なぜ彼女の日記をイジメっ子たちが持っていたのか。

「取り上げられたの?」

『あいつらはウチをイジメるためならなんだってしたよ。そんで、ウチが死んだ原因が自分たちにあるって気付いた時も、保身のためになんだってした』

 明菜をイジメた生徒は、日記を読んで恐れたろう。これが遺族に渡れば明菜が自殺した理由はイジメにあると推測し、娘を、妹を死に追いやった生徒を探し出すに違いない。クラスメイトの何人かはイジメの光景を目撃していたし、「あの子たちがやってました」と告発する可能性もある。

 そうなれば、自分たちが周りからどんな目で見られるか。それが想像できないほど阿呆ではなかったようだ。

「高価なもん渡して黙らせたとかか? だとしてもクラスメイト全員に渡すってなったらそれなりの金がかかるだろ。中学生がそんな大金持ってたってのか」

『ウチをイジメたグループの中心にいたやつ、地元でも有名な会社の社長令嬢だったんだ。社長令嬢って美人で慎ましやかで清く正しい性格の人だけじゃないんだよ』

「……なぁるほどね」

 胸糞悪い、と隼馬は吐き捨てるように続けた。

「クラスメイトは金で黙らせるにしても、教師はどうしたんだ」

『椎名先生は知らなかったんだ。あいつら、大人の目がある所じゃ絶対にやらなかったもん』

「椎名?」

 もしかして、と泡草が呟いた名前は、彩芽の「それじゃあ、残る不安材料は結局、日記だけだったんだね」というげんに上塗りされた。

「破ったり燃やしたり出来たはずだろ。なんでそれをしなかったんだ?」

『それは……』

「しなかったんじゃなくて、出来なかったとか」

 あくまで推測ですけど、と前置きして、彩芽は明菜の声が自分の頭の中に響いたときのことを説明した。

「あんな風に、例えば『日記を破るな』って頭の中に直接明菜ちゃんの声が響いたら……ちょっと言葉は悪くなって申し訳ないけど、イジメっ子たちにとったら不気味だし怖いし、抵抗できなかったんじゃないかな」

 へえ、と明菜は感心したように目を丸くした。『あんたって思ってる以上に勘がいいんだね』

「……いいことばかりじゃないけど」

 彩芽はよほどひどい表情をしていたのだろう。泡草が「大丈夫?」と顔を覗き込んでくる。一転して笑顔で大丈夫と返してから、再び明菜に向き直った。

「あたしが言ったこと、合ってるかな」

『うん。だけど、最初はウチもよく分かんなかったんだよ。無我夢中ってヤツ?』

 その話に嘘はないらしい。明菜は困ったように頭をかき、当時を振り返る様にぽつぽつと、

『あいつら日記を捨てようとか、処分の仕方を色々話しててさ。ふざけんな、やめろよって思って、気が付いたらみんな倒れてた』

「倒れてた?」

 そう、と彼女は唸る。『しかもウチの頭ん中には、いつの間にか身に覚えのない記憶がいっぱいあったワケ。今でもあるよ、その記憶』と実に不服そうに語った。

「無意識的に力を使ったんじゃないかな」多分だけどね、と泡草は腕を組む。「イジメっ子たちに強い怒りもあったみたいだし、初めて力を使うのも相まって、記憶を奪うのに加減が利かなかったんだよ」

「沙羅に記憶を返した時にペンを握らせたのは、その加減を利かせるためか」

『そんなとこ』つまり糸電話だよ、と彼女は両手で拳を作り、目の前に掲げた。『この手をコップだとする。このまま声をかけあってもちょっと伝わりにくいけど、コップの間に糸が張られれば声は伝わりやすくなる。ウチと日記を書こうとしてる人を繋ぐ糸が、つまりペンってワケ』

 彩芽の脳内に声が響いていた時にノイズ混じりだったのは、その「糸」がなかったからか。

「俺の予想だけど、そいつらお前に祟られたとか思ったんだろうな」

 日記を破ろうとして、気が付いた時には倒れていて。明菜がどの程度、どの範囲の記憶を奪ったのかは分からないが、イジメっ子「たち」というからには複数人いたようだし、その中の誰かが周囲が異変に気付くほどの「記憶喪失」になったのかも知れない。

 こうなったのは明菜の祟りで、これ以上日記を持っていてはまた同じことが起こるのでは。そう恐れる顔は面白かった、と明菜は回顧した。

「そっか、誰かに相談しようと思ってもそれをきっかけに明菜ちゃんをイジメたのがバレるかもしれないから言うに言えなかったんだ。でも手元に置いておくのも怖くて」

 彩芽が推測を並べ立てる隣で、泡草は日記をパラパラとめくった。開かれたのは、明菜ではない別の者が初めて書き込んだページだ。かなり雑な字で読みにくいが、冒頭部分に「センパイが日記をくれた」と記されている。

「イジメっ子たちは、君の日記を後輩に渡したんだね」

「あっ、もしかして!」彩芽の突然の大声に泡草が日記を落としかける。すみません、と素早く謝り、彩芽は机の上に放置されたままだったそれを掴んだ。

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