第13話

 仕切り直しだ、というように泡草は指を鳴らして立ち上がる。のれんの奥へ引っ込んだかと思うと、小袋に入れられたあられと皿を運んできた。彼はソファに座り、小袋を開封して皿に盛っていく。その多さに絶句しながら一つ口に放り込んでみると、つんとした辛さがあった。

「わさび味ですか?」

「うん。時々食べたくなって、衝動買いしちゃうんだ。美味しいしね」

 言いながら、泡草も一粒口にした。こうして菓子を食べている間の顔つきと、日記を相手にしている時の顔つきは全く違う。とても同一人物には見えないほどだ。

「そういえば、日記に宿ってる魂に拒まれるって、隼馬さんに聞きました。今日も相変わらずですか」

 彩芽は膝に置いていたそれを持ち上げ、問いかけた。

「残念ながらね」音もなく立ち上がると、泡草はガラス窓と入り口に近づき、カーテンと鍵を閉めた。「実際にやってみせた方が早いかな」

 戻ってきた彼は「日記を開いて」と彩芽の隣に腰を下ろして右手を日記にかざした。それとほぼ同時に泡草の足元から生じた光は、徐々に店内を満たしていく。

 一回目も二回目も、日記から光が飛び出してきたのはこのタイミングだった。彩芽は反射的に身構えたが、待てども変化は訪れない。

 ちらりと泡草を横目で見やると、鳶色の瞳が不安げに揺らいでいる。それを嘲笑うかのように、日記から時折舞い上がってくる銀色の光は塵のように儚い。

「こんな感じなんだ」

 困ったように笑い、泡草は日記に目を落とす。

「見事に引きこもってますね」

 言いながら、彩芽はページをめくる。依頼人の姉が書いたという部分を改めて読んでみるが、日付が遡っていること以外は特におかしな点はない。とはいえ、彩芽の時もそうだったが自分ではおかしいと思っていても、傍から見れば普通の日記ということもある。

「そういえば、言ってましたよね。日記の初めの保有者は『正しい使い方』をしていたって。日記に宿ってるのは、その『正しい使い方』をしていた人ですか?」

「その予想でほぼ間違いないと思うよ。ただ、名前や年齢は一切分からないけど」

 ふわ、と色濃い光が一瞬だけ舞い上がった。ようやく出てきてくれるのかとも思ったが、そんな気配は一切ない。

 がちゃ、と入り口から音がした。鍵が閉まっているため開くことは無く、二、三度開けようとした後で静かになった。もしかして客だったのかもしれない。

 彩芽はパラパラとページを捲り、初めの書き手に通じる何かが分からないかと唇をすぼめた。

 これまで自分の目で見てきた曰く付きの日記は「書いたことが変わる」「死んだ妻が枕元に立つ」の二つだけだ。泡草や隼馬のように多くの日記に関わったわけではないし、前例に当てはめる事も出来ない。

 けれど、自分はこの店の一員なのだ。力がなくとも、やれることはあるはずだ。

 ――……て……のこ……。

「ん?」

「どうしたの?」

 日記から顔を上げ、彩芽は周囲を見回した。店内にいるのはもちろん自分と泡草だけで、他には誰もいない。

「今、声みたいなのが聞こえた気がして」

「そう?」

 どうやら泡草には聞こえなかったらしい。「そうですか」とうなずいたものの、違和感が拭えない。

 先ほどの声は、かなり至近距離から聞こえた――というよりも、直接脳内に響いたような感覚があったのだ。

 眉間を揉み、彩芽は日記に向き直った。日記の元の持ち主について知りたいと思うあまり、幻聴を聞いたのかもしれない。

 知らず知らずのうちに手に力が入りすぎていたのか、指先に痺れたような痛みが走る。指を揉みながら開いたページを追うが、痺れはなかなか消えなかった。緊張のせいか全身も気怠い。少しでも落ち着こうと、茶を勢いよく飲み干した。

 改めて考えてみるが、どうしても気になるのは「幸せになる」という点だ。

 彩芽が手にした「書いたことが変わる日記」は、久保が「自分の書いた文をもう一度かつての恋人に読んでもらいたい」と思ったために、そして椎名の妻は「兄に日記を届けてほしい」と願ったために、それぞれの望みに連なる現象が起きていたように思う。そこから考えれば、日記に宿った魂の望みが分かるはず。そう予想したのだが。

「うーん……よく分かんないな」

 そもそも、なにをもって「幸せ」とするのか掴めない。

 例えば、自分の願いを日記に書き込んで、それが叶ったとしたら間違いなく幸せだと感じるだろう。しかし、実現しようがしまいが書いただけで満足して、幸せと感じる人も少なからずいるかもしれない。

 実際に日記に書き込んだ人物に会って話を聞くのが手っ取り早いのだが、誰が書いたのかはっきりしていても、どこに住んでいるかは人は分からない。夕夏の姉は日記を持ち出されたことを怒っているかもしれないし、まともに話を聞けない可能性が高い。

 それに、気になることはまだある。

「沙羅さんの記憶喪失も、『幸せになる』になにか関連してるんでしょうか」

「そのあたりもよく分かっていない、というよりか、沙羅にとっての『幸せ』がぼくのことを忘れる事だったんじゃないかって思うと、悲しくてね」

 切なげな泡草の表情に、胸がずきりと痛んだ気がした。

 ――……う…………るく……たしが……。

 まただ。

 耳鳴りと共に、再び声が響く。怒っているのか悲しんでいるのかは分からない。キンとした雑音に塗れすぎて、言葉の端々さえも不明瞭だ。それでも何かを訴えようとしている事だけは分かる。

 この日記に宿っている誰かは、泡草ではなく、彩芽に話しかけようとしているのか。

 なんとか声を聞き取ろうとするが、耳鳴りのせいか頭が痛い。泡草が心配そうに背中を撫でてくれるが、さり気なく窺った表情からも彼にはやはり声は聞こえていないと察した。

「彩芽さん、大丈夫?」

「なんとか……けど、ちょっと気持ち悪い感じが」

 話している間も、声は断続的に響いた。指先の痺れもひどくなり、ページを捲ることすら難しくなっていく。

 だが、日記から舞い上がる銀色の光は徐々に増えているように思える。日記に残された魂が出てこようとしている前触れなのだろうか。

 ――あの子……せてくれ……かえ……。

「あの子って、誰のこと?」

 思い切って日記へ、その奥へ潜んでいるであろう魂へ問いかける。「彩芽さん?」と泡草が不安げに覗き込んでくるが、大丈夫です、と片手を振った。

 ざわ、と光が増した。

 ――男……うと……。

 わずかではあるが、雑音が減っている。

 ふと顔を上げると、舞い上がった光がゆらゆらと集まりだし、なにかを形作り始めていた。泡草は驚いたように日記と光を交互に見やり、その瞳に期待の色を浮かべた。

 彩芽は頭痛を堪え、光に目を向けたまま問うた。

「男って、泡草さんのこと? それとも隼馬さん?」

 ――……んた……隣……。

「分かった。もう一度教えて。あの子っていうのは」

 ――もう分かっ……んじゃない……?

 ――その男の、妹。

「沙羅さん……?」

 突然妹の名前が出るとは思わなかったのだろう。泡草の肩がかすかに震えた。

「沙羅さんに……会いたいの?」

 ――そう。会いたい。

 ――返さなきゃいけないから。

 日記から立ち上った光が、弾けるように一瞬だけ強く光る。二人は咄嗟に目を閉じ、恐る恐る瞼を開けた。

 対面のソファには、いつの間にか見知らぬ少女が座っていた。

 幼さの残る丸顔に仏頂面を浮かべ、唇は凛々しく引き結ばれている。白い半そでに紺色の襟、同色のスカートは確か隣町の中学校のセーラー服だったはずだ。左胸のポケットには黄色い名札が付けられたままになっている。名前を見ようとしたが、長く伸びた茶色い髪に隠れてしまっていた。

 少女は指先で髪を弄ぶ。パッと見では生きている者と変わりないように思えるが、全身を包み込む銀色の光と薄く透けた肌が、そうでないことを物語っていた。

「きみは、もしかしなくても日記の、」

『勘違いしないでよ』泡草の声を力強く遮り、少女は嫌悪感を隠そうともせず切れ長の目で彼を睨みつけた。『ウチはあんたと話すために出てきてやったんじゃない』

 血の気のない脚を組み、少女は何かを探す様に店内を見回した。

 やがて、『そこにいるんでしょ』と――のれんの奥に目を止めた。

「……分かってたのか」

 諦めたような、悔しそうな声が聞こえる。彩芽と泡草が揃って困惑する中、のれんの奥から現れたのは、上下の服を黒で統一した隼馬だった。その背中には少女を凝視する沙羅が隠れている。

「隼馬、いつからそこに」

「ついさっきだ。店に戻ってきたら鍵とカーテンしまってるし、寝てんのかと思ったんだよ。じゃあ起こしに行くか、と思って裏口から入ってきたら予想は外れてるし、日記『視て』るし」

「ん?」

 隼馬の弁に違和感を覚えたが、今は追及できそうにない。隼馬は沙羅を守る様に自分の背に隠して距離を取ったまま、「そんで、そいつは?」と少女を指した。

『そんな警戒しなくてもいいじゃん』

 少女は悲しそうに、けれどおかしそうにくすくすと笑う。沙羅はしきりに首を傾げては隼馬を見上げ、「あの子、お客さん?」と問いかけていた。

 ふと泡草を横目で見やると、何度も深呼吸を繰り返していた。

 そうだ。この少女は四年前、沙羅から記憶を抜き取った張本人なのだ。叶うならば今すぐ記憶を返せと怒鳴りつけたいところだろう。しかし、彼女は『泡草と話すために出てきたわけではない』と一蹴したのだ。ここで声を荒げては日記の中へ再び引きこもってしまうかも知れない。

 お互いがお互いの行動を読みあうように硬直していると、少女は右手をひらりと前後に揺らし、『こっち来てくんない?』と沙羅を見た。

 自分が呼ばれていると分かり、沙羅が恐る恐る歩み寄ろうとする。だが、隼馬はその肩をがっしりと掴み、

「なにされるか分かんねーんだぞ。危ねーだろ」

 警戒するように少女を睨みつけた。

「でも呼ばれてるし」

「だとしてもだ!」

「……あの、多分、大丈夫じゃないかなって思うんです、けど」

 おずおずと彩芽は手を上げ、少女をちらりと見た。彼女からは敵意を感じない。隼馬には「余計なこと言うな」とばかりに舌打ちをされたが、今は構っていられない。

「だって、この子言ってたんです」

 沙羅に会いたい――と。普段なら日記にとり憑いた者の声を聞くのは泡草の仕事だ。しかし、少女が出現する以前に声を聞くことができたのは彩芽しかいないのだ。

 しばらく彩芽と隼馬がにらみ合いを続けていた中、

『ほら早く。さっさとこっち来なよ』

 待ちくたびれたと言いたげに少女はひときわ大きな声で沙羅を呼んだ。どうやら気が長い方ではないらしい。少女の手招きは徐々にぞんざいになっていく。

「……ちっ」隼馬は小さく舌打ちをし、沙羅の背を押した。沙羅は首を傾げながらも、少女に促されるまま、その隣に腰を下ろした。背後には警戒を全く解いていない隼馬がついている。

『ねえ、そこのあんた』少女の白い指が彩芽に向けられる。あたし? と返事もしていないうちに『なんでもいいから、ペン持ってない? あったら貸して。ないなら取ってきて』と頼まれた。いや、どちらかといえば命じられた。

「これでいいかな」

 泡草が懐からシックなボールペンを取り出し、少女に差し出した。

 そっちの子に頼んだのに。少女は不満げに唇を尖らせたが、『まあいいや』と今度は沙羅を指した。

『それ持って、日記になにか書いてくれる?』

「私が? なにを?」

『なんでもいいよ。ページもどこだっていい』

 少女が何を企んでいるのかは分からない。問いかけても答えてくれる様子はなさそうだ。

 彩芽たちが見守る中、沙羅は泡草の手からボールペンを、彩芽から日記を受け取った。

 こく、と沙羅の喉が上下する。見ず知らずの少女に言われるがままで緊張しているようだ。聞きたいことだってあるだろう。だが、彼女は『早く』と急かすばかりだ。

「なんでも……」

 真っ新なページを開き、ペンで口元を押さえる。なんでもいいと言われても何も浮かんでこない、といったところか。沙羅は数秒間その姿勢のまま静止していたが、やがて『なんなら名前でもいい』と助言され、その通りにボールペンを滑らせた。

 が、数秒後のことだった。

「――――おいっ!」

 沙羅の手からボールペンが抜け落ちる。かと思うと、彼女の体が大きく痙攣した。隼馬は咄嗟に沙羅の肩を掴んだが、その時にはすでに意識を失っていた。

「てめえなにしやがった!」

 ガラスが震えるような怒声が響く。隼馬は純粋な憤りをぶつけ、泡草も顔を紅潮させ、今にも少女に掴みかかろうとしていた。が、当の本人は『別に。ただ返しただけ』と淡々としていた。

 ――返しただけ。

「沙羅さんに、記憶を?」

『へえ。察しが良いんだね、あんた』

 考えていたことがそのまま口から漏れていたようだ。彩芽の呟きに、少女は感心したように手を叩いた。かと思うとすぐに眉を顰め、鼻と鼻がつきそうなほど泡草に顔を近づけて睨みつける。一瞬だけ顎を引いた泡草だったが、すぐに彼女を真っ向から見返した。

『ウチ知ってんだ。あんた、超優しいんだよね』ぐ、と人差し指を泡草の胸に押し付け、蔑むように目を細める。『それで傷ついた人がいるかもって考えたことある?』

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