第12話

 街灯も車通りも少ない道を、制限速度と同じか、それ以下の速さで通り抜けていく。彩芽は車の助手席に乗り、運転席に座る隼馬を横目で見た。

「泡草さん、言ってましたよね。『外に出てくるのを拒んでる』って」

 日付が遡っている事に加えて、持ち主を選んでいるという二つの奇妙な現象が起こっているのだ。彩芽が日記を持ち込んだ時のように、その場で日記に縛り付けられている魂を『視た』のかと問いかけたところ、泡草は無言で首を振り、「拒まれたんだ」と悔しそうに唇を噛んだ。

 拒んでいる、とはどういうことなのか。尋ねても答えてもらえず無為に時間だけが過ぎ、外も暗くなってきて危ないから帰れ、と半ば無理やり車に乗せられたのだ。

 言葉を選ぶように隼馬はしばらく無言を貫いていたが、やがて「説明が下手でも文句言うなよ」とため息と共に語りだす。

「日記に宿った魂を呼び出すのは、そうだな、例えるなら部屋のドアを開けて外に連れ出すみたいな感じだな。けど今回の奴は、学校に行きたくねーって駄々をこねる子どもみたいに日記にしがみ付いて出てこねーんだ。どんだけ試しても結果は同じだった」

「やけに詳しいですね。泡草さんの受け売りですか?」

「違ぇよ」

 いつもなら文句と共にデコピンの一つでもされそうなものだが、隼馬は何もしてこない。

 気のせいか、普段より口数が少ない。彩芽が喋るまではノイズ混じりのラジオだけが車内に流れていた。

 店と自宅がそう離れているわけでもなく、五分程度で自宅付近についた。このあたりで停めてくださいというのは事前に伝えてある。隼馬は言われた通りの場所で車を停め、彩芽はシートベルトを外した。

「あの日記に遭遇すんのは、これで二回目だ」

 扉を開けて外に出ようとした彩芽の背に、隼馬の声が届いた。まるで独白のようなそれに、彩芽は伸ばしかけていた手を引っ込める。

「飛鳥、言ってただろ。沙羅は親戚で、兄妹じゃねーって」

 けどな、と隼馬は腕を組む。それはまるで、怒りを抑え込んでいるようにも見えた。

「あいつらは、れっきとした兄妹なんだよ」

「えっ?」言われたことを瞬時に理解できず、彩芽は何度も同じ言葉を繰り返した。「でも、沙羅さんも親戚だってこと、訂正してなかったじゃないですか。それに」

 沙羅が店に来た時、隼馬はこう言っていたはずだ。

 ――飛鳥が店から出ない理由は、あれだ。

「どういう意味なんですか? 説明してくださいよ、順を追って!」

「機会があれば飛鳥が自分から言うはずだ」

「そんなの納得できません! 分かんないことだらけで、頭の中がパンクしそうです。泡草さんと沙羅さんが兄妹で、泡草さんが店から出ない原因は沙羅さんにある? その二つが全然つながりません!」

 それに、出会った頃に隼馬が言っていた「泡草の保護者」「あいつは見張ってないと危ない」という意味も未だに分からないままだ。日記の秘密自体もはっきりしていないし、これ以上考え事を増やすと、言葉通り彩芽の頭はパンクしてしまう。

 ただ言えるのは、泡草と隼馬、そして沙羅には、深く込み入った事情があるのだということだけで。

 問いかけに一切応じない隼馬に対し、次第に苛立ちが募る。

 ああ、そうか。

「所詮あたしは、部外者なんですね」

 少なくとも八年以上の付き合いがある三人に比べ、自分はつい最近関わり始めたばかりだ。同じ店で働いているとはいえ、何もかも教えてもらえるとは思っていないし、プライベートなこともある。それでも、曖昧な事情だけ聞かされて、聞いても答えてはもらえないなんて。

 そんな中途半端なことをされるくらいなら、何も聞かされないほうがよかった。

 彩芽は左手首を力強く握りしめる。車のクーラーに当てられていたからか、時計のガラス面がかなり冷たくなっていた。

「送ってくださってありがとうございました。失礼します」

 礼を言いながらドアを開け、湿気を含んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。目元にじわりと涙が滲む。それを振り払うように彩芽は頭を振り、まるで逃げるように自宅へと駆けた。

 エンジン音は、なかなか走り去ろうとしなかった。



 どうしよう。彩芽は「泡草日記店」の看板を見上げ、唇をへの字に曲げた。

 昨日の夜はもやもやとしたまま寝たのだが、朝起きた瞬間に、なんて大人げなかったのかと猛烈な羞恥に見舞われた。事情を教えてもらえなかったとはいえ、あの対応といい拗ね方といい、あまりにも子供っぽすぎる。車のドアを閉めずに帰るなど、反抗期の子供でもやらない。メールで謝ろうと思ったが対応としてはダメだろうと感じたし、そういえばメールアドレスも電話番号も知らなかった。

 いや、でも、隼馬さんにも悪いところはあるし。何度も言い聞かせてみたが、ずけずけと踏み込もうとした自分にも非がある。

 謝るべきか否か悩んだまま大学での講義を終え、その足で日記店にやってきた。だが、どうしても扉を開けることが出来ない。隼馬とどう言葉を交わせばいいのか分からないのだ。

 ――それに、泡草さんも。

 自分が抱えている疑問のほとんどは泡草に関連することだ。自分でも無意識のうちに問いかけてしまいそうだし、そうなれば困った顔をされるのは確実だろう。

「ええい、なるようになれ!」

 ぱちんと両頬を叩き、意を決して扉を開けようとする。だが、それよりも早く扉が開いた。驚きのあまり両手を上げたまま固まっていると、店内から年配の男性が現れた。男性は彩芽を不思議そうな目つきで見やったが、会釈をして通り過ぎていく。彩芽もそれに倣って少し頭を下げていると、「やあ、いらっしゃい」と泡草の声が聞こえた。

 彩芽はおずおずと店内に入り、男性を見送っていた泡草に近づいた。今日は青磁色の地に白い唐草模様が入った着物を纏っている。それとなく周囲を見回してみるが、警戒していた人物は見当たらない。

「い、今のは」

「お客様だよ。日記コレクターの方でね、祖父の代から通ってくれてる」

「そういえば言ってましたね。そういうコレクターの人がいるって。あの人なんですか?」

「いや、他にもたくさんいらっしゃるよ。中には北海道の人もいる」

「そんな遠方から……」

 こっちへどうぞ、とソファに招かれ、店の入り口から見て左側の方に腰を下ろした。泡草は一度給湯室へ行き、二人分の湯呑を持って彩芽の向かい側に座る。

 ――二人分?

「隼馬さんはいないんですか?」

「沙羅のところに行ってるよ。呼びつけられたらしい」

 姿が見えないと思ったらそういうことだったのか。店に入る前はあんなに緊張したのに、と息をつく。いないならもっとすんなり入って来れば良かった。

 疲労感が肩にのしかかり、ふう、と緊張が解れたところで、

「泡草さんの着物、いつも青っぽいですよね」

 ここ数日気になっていたことを思い切って聞いてみる事にした。

「夏だからね、青だと涼しげだろう? 秋になると赤系統に変えるつもり」

 ということは、春や冬はどんな色のものを着るのだろう。春は植物が芽吹く季節ということもあって緑かも知れないし、冬と言えば雪だから白か。それとも全く違った色合いのものだろうか。どれを着ても似合いそうだと思っていると、考えている事が口に出ていたらしい。泡草は照れくさそうに「ありがとう」と笑った。

 今は着物しか着ようとしないと隼馬が言っていたが、当然、学生の頃は制服に身を包んでいたはずだ。

「泡草さんって、高校時代はブレザーでした? それとも学ラン?」

「ブレザーだったよ。最初に受験しようと思ってたところは学ランだったんだけどね、妹に『そんなの中学生と変わんなくて味気ない』って猛反対を食らって」

 彩芽の周囲にも「あそこの制服可愛いから」という理由で高校を決めていた友人がいたが、泡草の妹もそういうたちだったのだろう。

 着物ではない泡草も是非見たいと考えて、ふと気が付いた。

 彼は今、妹のことを口にした。それならば。

 ――今なら、聞いてもいいかな。

「あの……すみません。昨日、隼馬さんから聞いたんです」彩芽は湯呑を置き、泡草の鳶色の瞳をじっと見つめた。「泡草さんと沙羅さんは、兄妹なんですよね」

 どうして「親戚」だなんて言ったんですか、と問うよりも早く、

「うん、そうだよ」

 泡草は柔和に頷いた。

「沙羅には少し記憶がなくてね。ぼくの事を兄だって分からないんだ。へたに『兄だ』って言って記憶を取り戻して、混乱させるのも可哀想だから、彼女が自分で思い出すまでは『親戚』で通してる」

 あまりにもあっさりと認められ、さらには全く予想していなかった事情まで飛び込んできて、彩芽は何度も目を瞬かせた。

「えっ、いいんですか?」

「なにが?」

「このこと、隼馬さんは何回聞いても教えてくれなくて……それで、昨日あたしが拗ねちゃったんですけど」

「ああ、それでか。いや、彩芽さんを送っていったあとの隼馬の様子がおかしいと思ったんだ。そういう理由だったんだね」

 あいつは、恐れてるから。泡草は困ったように微笑み、微かな声で呟いた。

「ぼくが、また死のうとするんじゃないかって」

 意味が分からず、彩芽はただぽかんと口を開けた。その間に泡草は立ち上がって本棚に近づき、その中から一冊を引き抜いた。昨日、夕夏が持ち込んだ日記だ。

 彼にそれを差し出され、ぎこちなく受け取る。

 そういえば、隼馬はこれに遭遇したのは二回目だと言っていた。ということは、泡草にとっても二回目なのだろう。

 泡草は伏し目がちに、ぽつぽつと語り始める。その表情は、どこか痛切だった。

「四年前のことなんだけどね。当時、沙羅は愛知の短期大学に通うために下宿してたんだ。ぼくはぼくで就職していたからね。隼馬の方が頻繁に彼女に会っていたくらいだ」

 沙羅のもとへ足しげく通う隼馬を想像してみる。今も以前も、相当仲が良かったようだ。

「初めから日記店を営んでいたわけじゃないんですね」

「当時はまだ父が店主だったから。話を戻すけど、ぼくも時々沙羅のところに行かなきゃなあとは思っていたんだ。でも、どうしても時間が取れなくて。ようやく休みが取れたのが七月二十八日だったんだ」

「それって、沙羅さんの誕生日ですよね」

「ああ。だからプレゼントを持って、隼馬と一緒にサプライズで彼女の下宿先を訪ねたんだ。でも、インターホンを押しても扉を叩いても反応は無いし、メールや電話も同じだった。留守なのかと思ったけど、扉と窓の鍵は開いていたからね、ぼくと隼馬は慌てて部屋に飛び込んだよ」

 ぎゅう、と泡草が指を組む。

「彼女は、意識を失って部屋で倒れていた」

 爪が食いこんでも気に止めず、力はますます強くなっているように見えた。

「机には開いたまま、書きかけの日記が置かれていた。そこから伸びた靄みたいなものが、沙羅に纏わりついているのが『視えた』」

「もしかして、この日記なんですか」

「ああ。今まで祖父や父の傍らで日記を『視て』きたからね。これは危険な部類だとすぐに分かった。ぼくは慌てて日記と沙羅を引き離して、隼馬は彼女を病院に連れていった。それで、ぼくと父は日記を『視よう』としたんだけど……拒まれたんだ」

「そんなことあるんですか?」

「ごくたまにね。あるといっても、その数も少ないけど。今日も彩芽さんが来る前に少し試してみたんだけど、微かに感じ取れるくらいで、全く出てきてくれない。とんだ引きこもりだね」

 最後の一言は冗談めかしていたが、笑いは乾いていた。

「沙羅さんが記憶喪失になったのは、その時ですか」

「うん。でも、ただの記憶喪失じゃない」泡草は忌々しげに日記を見つめ、絞り出す様に続ける。「ぼくのことだけ、忘れていたんだ」

「泡草さんの、ことだけ……?」

「ぼくを見ても、誰か分からなくなっていたんだ。『あなた誰?』ってね。事件の事も忘れてしまっていた」

 結果的に、誰に言われるでもなく、泡草は自分から「親戚」だと名乗ったという。幼い時に会ったきりで、再会したのは最近だと。沙羅は納得したが、泡草が受けたショックは大きかった。

「沙羅さんは、日記を『視る』ことは出来ないんですか?」

「ああ。……ぼくがもう少し早く駆けつけていれば、こんな事にはならなかったかも知れない。妹は一生このままかも知れない。何度も自分を責めて、結果的に鬱っぽくなっちゃって。恥ずかしながら自殺を図ったこともあるよ」

 今の雰囲気からは想像もできないような時期があったのだろう。

 でも、と泡草はふっと微笑んだ。

「隼馬が、ぼくを助けてくれた」

 言いながら、泡草は長い前髪で隠れていた頬をさすり、「あまりいい気分はしないと思うけど」と断ってから少しだけ髪を持ち上げた。

 初めて店に来た時に見かけて以来気になっていた痛々しい傷跡が露わになった。

「その傷、どうしたんですか?」

 泡草は傷を隠す様に髪を整え、ソファにもたれ掛かる。「刃物を持ち出して、喉を突こうとした時があったんだ。それを止めようとした隼馬ともみ合って……ぼくは『自分には生きている価値なんてない』って叫んだ」

 その時、隼馬は泡草以上に声を張り上げて、涙ながらに訴えたという。

「『沙羅に記憶が戻った時、お前がいてやらなくてどうする。自分のせいで兄貴が死んだと知ったら、あいつは今よりひどい状態になるかも知れねーんだぞ』って。その一言でぼくは力が抜けて、刃物を取り上げようとしてたあいつの力が勝って、ちょっと滑ってこうなった」

 泡草は髪の上から傷を指先で撫で、「ぼくにとって、この傷は隼馬に助けてもらった証なんだ」と苦笑する。

「あいつが真実を言い渋るのは、ぼくがまた危ないことをするんじゃないかって心配してるからだ。この傷も、隼馬にとっては当時を思い出す要因になるから隠してる」

「……隼馬さんって、あたしが思ってるより怖がりなんですね」

「彩芽さんのそういう率直な物言い、嫌いじゃないな」

 これは褒められているのだろうか。判断が付かず、曖昧に笑いを返しておく。

「それで、日記はどうなったんですか?」

「危険性が高かったから金庫に入れて保管していたんだけどね……盗まれた」

「まさか泥棒に」

「情けないけど仰る通りだよ。沙羅の記憶がいつ突発的に戻るか分からないし、父と母は彼女の面倒を見る為に四日市の実家に戻ってさ。それで、ぼくが店を継いだんだけど、その矢先だった」

「うわあ……」

 初めて店に来たとき、鍵をかけずに外出していた泡草に向けて隼馬が怒鳴っていた。あれは過去の被害を踏まえてのことだったのか。

「あ、じゃあお店から出ないのは防犯のため? でも隼馬さんが、泡草さんが店から出ない理由は沙羅さんだって」

 泡草は苦笑し、「確かに防犯目的もあるけど、それは二の次」と湯呑に手を伸ばした。

「沙羅は時々店に来るけど、大抵連絡もなしにやってくるんだ。もしぼくが留守にしていた時に何らかのきっかけで記憶が戻ったら、そばにいてやれないだろう? それに、その日記が沙羅の手に渡った時、今度こそはきちんと対処するためっていうのもある」

「そうだったんですね……すみません、ずけずけ聞いちゃって」

 時々泡草の表情が痛々しげに歪められるのを、彩芽は見逃していなかった。

 過去と向き合ったつもりでいても、まだ完全に立ち直っているわけではないのだろう。

「構わないよ。それに、中途半端に教えるだけ教えて逃げた隼馬のせいでもあるし」

 言われてみれば。隼馬が何も言わなければ、彩芽もこんなことを聞かずに済んだのだ。

 とはいえ、彼も彼なりに考えるところがあったらしい。このあと顔を合わせたら、まずは昨日のことを詫びて、隼馬にも謝ってもらおう。それでよしだ。

 仕切り直しだ、というように泡草は指を鳴らして立ち上がった。

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