第11話

 どこへ行きたいかと沙羅に聞かれ、彩芽は咄嗟に喫茶店『リラ』に行かないかと申し出た。カラオケやゲームセンターという選択肢がないわけではなかったものの、打ち解けるにはまず食事でもしながら話すのがベストだと感じたからだ。

 昼のピークは過ぎているはずだが、日曜日ということもあって席は九割がた埋まっている。いつも佳苗と座る場所は空いていなかったため、二人は別のソファ席へ案内された。

 彩芽はクリームソーダを、沙羅はモンブランをそれぞれ注文する。しばらくは沈黙が続いていたが、沙羅に「めーちゃん何歳?」と聞かれた。

 まさかいきなり愛称で呼ばれるとは思わなくて驚いた。「めーちゃん」なのは「あーちゃん」だと泡草と被るからか。

「えっと、十九歳、です。大学一年生で」

「そんなかしこまんなくていいよ。普通にしてて。そっかー、十九歳かー。私と知り合ったころのはーちゃんと同い年だね」

「普通に……じゃあ、お言葉に甘えて。二人って、四つくらい年が離れてるんだよね」

「うん。私ね、はーちゃんやあーちゃんと同じ高校に通ってたの。私が入学した時にはもう二人とも卒業してたんだけどねー。けど、体育館で部活やってるときに、はーちゃんが後輩の様子を見に来たの。バスケ部だったんだ」

 言われてみれば、確かにバスケ部っぽい。沙羅に「私もバスケ部なの」と続けられたときは少し意外だったが。なんとなくバレーボール部かなと想像していたのだ。

「そこで知り合ったの?」

 お待たせしました、と店員が商品を置いていく。沙羅は満面の笑みでモンブランにフォークを入れ、「そうだよー」とうなずいた。

「かっこいい人がいるなあって思って、男子に聞いたの。それで、名前が面白いなって」

「面白い?」

「はーちゃん――隼馬って、ハヤブサとウマを組み合わせてるでしょ? なんだか足が速そうな名前だなーって思ったんだー」

 それで話しかけたの。彼女は朗らかに笑い、長い髪を耳にかける。よく見ると、右耳に緑色の小さなピアスが一つ付けられていた。

 まるで、隼馬が左耳に付けているものと対になる様に。

「話しかけたって……あなたの名前、面白いですね、とか」

「どうやってかは忘れちゃったけど、多分そんな感じだったかな」

 薄らと感じてはいたが、どうやら彼女は「思い立ったらすぐ行動」タイプのようだ。自分ならいきなり「あなたの名前、面白いですね」と後輩に言われたら、間違いなく引くし、聞かれ方によっては怒る。

「初めは『馬鹿にしてんのか』って怒られたんだけど、あんまり怖くなくてさー。それも面白くて、連絡先交換しませんかって言ったの」

「その流れでよく教えてくれたね、隼馬さん」

「あの人、女の子には甘いからー」

 そうだろうか。いきなり不躾な質問をしてくる後輩の女の子に、多少なりとも惹かれる部分があったから連絡先を教えたのではないだろうか。

 二人の交際が始まったのは、そのすぐあとだという。それからおよそ八年間、喧嘩やいざこざや起きるものの、関係はまだ続いているそうだ。

「はー、次はいつ遊びに来れるかなー」

 沙羅が机に額を落とす。ごつん、と鈍い音がした。

「忙しいの?」

「ううん、違うの」彼女は力なく、悔しげに首を振った。「お父さんとお母さんが、あんまり外に出したがらないんだ」

「過保護、とかそういうの感じなのかな」

「私、一人暮らししてる時に倒れちゃって。倒れた時にたまたまはーちゃんが遊びに来たからとりあえず病院に運ばれてそのまま入院したんだけど、あれ以来、私は実家に戻されちゃって。外出は控えなさいって言われるようにもなった」

 だが、今はこうして出歩いている。恐らく両親の目を盗んで店にやってきたのだろう。

 沙羅の話によると、普段は着物の販売やレンタルを営む両親の手伝いをしているのだという。それはそれで楽しいのだが、やはり閉じこもったままでは物足りない。それに、家に居てばかりでは隼馬にも会えない。だから、こうして時々で歩いているのだと。

「はーちゃんが会いに来てくれる時もあるよ。でも、私は外でデートとかしてみたい」

「そりゃあそうだよね」

 分かるわー、とうなずいてみたものの、彩芽には彼氏などいない。出来たこともない。ただ、好きな人が出来たらデートしたいとは思う。

 そして、それを制限されるのは窮屈だろうな、とも。

「けど、あまり親を心配させちゃいけないよ」クリームソーダのグラスについた露を指でふき取り、彩芽は言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。「抜け出したの、これが初めてじゃないみたいだけどさ」

 沙羅も心配されているのが分かっているのだろう。「髪切ってもらうのは、はーちゃんが家に遊びに来た時にするから」と大きくため息をつく。

 彩芽は溶けはじめたアイスクリームを口に運びながら、彼女が日記店に入ってきた時のことを思い出した。

「そういえば言ってたね。髪伸びたから整えてほしいって。隼馬さん、そういうの上手いの?」

「上手いもなにも、はーちゃん元々美容師だったんだよ」

「えっ」

 今はそっちのお仕事ほとんどしてないけど、と沙羅は残念そうに唇を尖らせた。

 思いがけず隼馬の経歴を聞き、彩芽は「はあ」と呆けた声しか出せなかった。

「んー、今日はお店に戻っても相手してもらえなさそうだなー」沙羅は携帯の画面で時間を確認し、机に頬を付けるようにして項垂れる。「結局あーちゃんにも謝りそびれちゃったし」

「謝る? 泡草さんに何か怒られでもしたの?」

「そういうんじゃないんだけど、あーちゃん、私がお店に行くといつも泣きそうな顔するから。私が覚えてないだけで何かしたんじゃないかなーって」

 そういえば沙羅が店に来たとき、泡草と隼馬の表情がいつもに比べると少し硬かった。沙羅から見れば、泡草は泣きそうな顔に見えたのか。

「今度お店に行ったとき、私が謝るの忘れてたら、めーちゃん教えてね!」

「……あたしも忘れてなければね」

 クリームソーダが無くなってしまった。沙羅がモンブランを食べているのを見て、彩芽もケーキを頼みたくなってくる。

 財布の中身を確認してから、彩芽はメニュー表を手に取った。



 夕焼けに染まった空を見上げ、彩芽は大きく伸びをした。『リラ』での会話は弾み、沙羅とすっかり打ち解けて連絡先を交換した。そのまま近くのショッピングセンターに行き、ウィンドウショッピングやゲームセンターを楽しんできたのだ。

 そろそろ戻るか、という頃になり、沙羅の携帯に帰宅を促すメールが届いた。言うまでもなく両親からで、彼女は「また遊ぼうね!」と弾んだ足取りで駅の方向へと帰っていった。どうやら電車でここまで来たらしい。

 店に戻った彩芽が真っ先に見たのは、難しい顔で向かいあう泡草と隼馬だった。机の上には、客が残していったと思われる分厚い日記が置かれている。

「ああ、お帰り」

 鈴の音で彩芽に気が付いたのか、泡草が顔を上げる。その表情には疲れと緊張が浮かんでいるように見えた。隼馬はやけに太いブックバンドのようなものを両手でもてあそびながら、物憂げに天井を眺めている。

 彼女がいると分かってしまったし、隼馬の隣に座るのはなんとなく気が引けた。彩芽は泡草の隣に座り、ひとまず沙羅と『リラ』に行ったこと、彼女は無事に帰宅したようだと告げる。

「お客さん、なにを相談されていったんですか」

「姉貴の様子がおかしいんだそうだ」

 隼馬がブックバンドを机の上に置き、日記の表紙を軽く叩く。客からの預かりものをそんな風に扱っていいものかと思ったが、泡草は特に咎めることなく、客の情報が記されたメモを懐から取り出した。

「お客様は石黒いしぐろ夕夏ゆうかさん、中学二年生。彼女の話によると、数日前から『書き込むと幸せになれる日記』っていう噂が流れていたらしい。それが勝手にカバンに入れられていて、しかもトラブルが起こっているそうだ」

「『幸せになれる日記』……なんだか、あたしの『書いた内容が変わる日記』の時に似てますね」

「お前の時と違って制約があるんだよ」

 制約、と反復すると、泡草が指を下りながら教えてくれた。

「『自分が書いたものを見られてはいけない』『他の人が書いたものを見てはいけない』、それが『書き込むと幸せになれる日記』を手にした人のルールらしい。ルールを破れば幸せにはなれない、そこで使われていたのがそのバンドだそうだ」

「だいぶ心許こころもとねーけどな」隼馬はブックバンドを手に取り何度も引き伸ばした。ずいぶん色褪せて薄汚れてしまっているのは、長年使われた証か。

「ていうか、外したって事は中身見たんです、よね?」

「当たり前だろうが。見ないまま話を進められるわけねーだろ」

 それによって幸せになれない人が出てくるかもしれないじゃないですか、と言いかけたが、隼馬の「あほか、お前」と言いたげな目つきが許してくれなかった。

「『幸せになれる』っていうのがどういう意味かはまだ探れてないけど、とりあえず話を進めようか」

 泡草が日記を手に取り、彩芽に渡してくる。

 ピンク色の地に、白い水玉模様が浮かんだ表紙は可愛らしいが、数年間の連用を想定して作られているため重みがある。裏表紙にはバーコードも記載されており、特にこれといった違和感もない。中を少しだけ見てみると、今までに何人かの手に渡ったのだろう、日記には筆跡の異なる記録が半ばまで記されていた。書き手が切り替わった部分を分かりやすくするためか、付箋も何枚か貼られている。

「持ち主を転々とするのはお前の時とほぼ一緒だ。ただ、これには明確に違う点がある」

「違う点? あっ、あたしのは和紙で出来てましたけど、これは違いますね」

 素直な感想を述べたつもりなのだが、

「お前、考えてからもの言えよ。今のはあほ丸出しだぞ」

 隼馬にあからさまなため息をつかれた。

「失礼な! さっきからあほあほ言いすぎじゃないですか!」

「まだ一回しか言ってねえぞ」

 そんなことはない、と言いかけて、数えてみたら確かに一回だった。何も言い返せずにいると、見かねた泡草に「まあまあ……とにかく、少し読んでみればわかると思うよ」とやんわり窘められた。

 べー、と隼馬に向かって舌を出してから、気持ちを切り替えて日記に目を落とす。書き込まれているのはごく普通の日常ばかりで、特におかしな点は無いように思えた。

「読みながらでいいから聞いていてね。その日記は本人、つまり石黒夕夏さんの知らぬ間にスクールバッグに入っていたっていうのはさっき話したよね」

 部活動を終え、何事もなく帰宅した彼女は、宿題をしようとバッグを開け、それに気が付いたという。自分が入れた記憶は無いし、誰かが間違えて夕夏のバッグに入れてしまったのかもしれない。

 ピンクの表紙にはDiaryの文字。中を開いて読もうとしたが、ブックバンドを外していいか分からず、結局読むことはしなかった。

 最初は、誰かが間違って彼女のバッグに入れたものだと思ったそうだ。表紙や裏表紙に名前は書かれていないし、と訝しんでいると、高校生一年生の姉が帰宅してきた。

「あんた、なにそれ。そんなの持ってたっけ?」

 姉は夕夏が持っていたそれを覗き込み、問いかけてきたという。

「私のじゃないよ。誰かが私のカバンに間違えて入れたんだと思う」

 写真を撮って友人たちにもメールで聞いてみたが、誰のものでもなかった。

「知らない人のものかも知れないし、変なことしちゃダメだからね」

「それくらい分かってるよ」姉に戒められ、夕夏は苦笑交じりに返答したそうだ。「でも、シンプルで可愛いよ、これ」

 姉との会話はそこで終わり、夕夏は食事の支度をしている母の手伝いをしようと台所に向かったという。その際、背後で姉の携帯のシャッター音がした。何をしているんだろうと不思議に感じたものの、夕夏は大して気にしていなかった。

 そのあとはいつも通り、夕食、入浴と時間が過ぎていった。あれ、と初めに感じたのは、就寝前だったという。

「自分の机の上にあったはずの日記が無くなっていたんだって。無意識のうちにバッグに入れ直したかなと思って確認しても、やっぱりない。そういえばお姉さんが写真撮ってたな、と思い出してお姉さんにも『日記、知らない?』って聞いてみたんだって」

 それに対し、姉は「知らない」と素っ気なく答えただけだった。

 誰のものかも分からないのに、無くしてしまっては大変だ。けれど、夕夏は睡魔に襲われていた。明るくなってからもう一度探そう、とその日は寝床についたという。

「でも、翌日の朝になってもやっぱり見つからない。仕方なくそのまま学校に行って、撮った写真を普段はあまり喋らない人にも見せて日記の持ち主を探してみる事にした」

「けど、持ち主は現れなかった、と」

「その通りだよ。少なくとも、同じクラスや部活の人に、それの持ち主はいなかった」

 他のクラスの人が夕夏のバッグに入れたのだろうか。だとすれば、どうしてそんなことを。

 日記の持ち主や行方が分からないまま帰宅すると、姉が既に帰宅していた。いつもなら彼女の方が遅く帰ってくるのに、と思っていると、母が姉の部屋まで雑炊を持ってきた。どうやら姉は体調不良で早退してきていたらしい。今朝から頭痛がひどく、食欲がないという。

 ――でも、次の日はもっとひどくなってたんです。

 夕夏の瞳からは大粒の涙が次々に零れ落ち、留紺色のプリーツスカートに小さな染みを作っていったと語った泡草の指には、傍目に見ても痛いくらいの力が入っている。

「食事は一日に一食になり、どんどんやせ細っていった。話しかけても曖昧な返事しかしないし、心配した友人からメールがきても、返信しようともしない。そのくせ、とても幸せそうな顔をしてどこか遠くを見つめていたってよ」

 病院へ連れて行っても栄養失調気味ということ以外に異常はなく、どこへ行っても同様の診断をされた。どうすればいいのか悩んでいた時、たまたま姉の部屋のドアが開いており、夕夏はその隙間から姉が恍惚とした表情で机に向かっているのを見た。

 彼女の机に広げられていたのは、行方が分からなくなっていた日記だった。

「お姉ちゃん! どうしてそれ持ってるの?」

 思わず部屋に飛び込んで問いかけてみたが、姉は無反応だったという。肩を叩いたり、揺さぶったりしてもみたのだが、

「……邪魔しないでよ」

 夕夏に向けられた目は、普段の妹を見るそれではなく、敵意が込められていた。

 夕夏が動揺している間にも、彼女は一心不乱に日記に何かを書き込んだ。やがて満足したのか、机に突っ伏したまま深い眠りについてしまった。その隙を見計らい、夕夏はこっそりと日記を開いてぎょっとした。

 日記は普通、その日の事を書きこんでいくものだろう。だが、これは違う。彩芽もしばらく読んで違和感に気が付いた。

「これ、日付がおかしくないですか?」

 ご明察、と泡草が指を鳴らす。

 夕夏の姉が書いたという日記は七月七日の金曜日から始まっている。内容自体は学校でのことなどありふれたことばかりだ。だが、次のページから先に八日以降の事はどこにも書かれていない。

 ページが進むごとに、日付が六日、五日と遡っているのだ。

「日記には一通り目を通したけど、これは十数人あまりの人の手から手に移ってきたらしい。最初の所有者は日記としての本来の使い方をしていた。でも、二番目の書き手からは、過去のことばかりしか書いていないんだ」

 夕夏もそのおかしさに気が付いた。それを見計らったかのように、携帯に友人からメールが届いた。

 どうやら友人は、夕夏から送られてきた写真を別の友人たちにも見せ、持ち主を探してくれていたらしい。そのうちの一人から、「もしかしたら、だけど」と連絡が来たというのだ。

『夕夏ちゃんも、一回は聞いたことあるんじゃないかな』

 聞いたことって、なにを。そう返信すると、『噂だよ』と言われた。

『書いたら幸せになるっていう、日記の話。なんかね、友だちが言ってたんだけど、夕夏ちゃんが撮ったあの日記、もしかするとその日記なんじゃないかって』

 友人も、そしてその友人も確信があったわけではないだろう。たまたま日記のことが噂になっていて、夕夏のバッグに持ち主不明の日記が入っていたのが重なり合って「もしかして」になっただけだ。

 それでも夕夏の恐怖を煽るには十分だった。事実、日記を手にしてから姉の様子はおかしくなった。ますます怖くなったが、誰に相談すればいいのかもわからない。そんな折、定期健診に訪れていた歯科で「泡草日記店」の広告を見つけたというのだ。

「だけど、その時点で夕夏ちゃんにも友だちにも本物かなんて確信は無かったんじゃ、」

 言っている途中で、隼馬が静かに首を振る。本物だ、ということか。

「日記が勝手にカバンに入ってるってのは、『日記が次の持ち主を選んでる』んだと俺は予想してる」

 彩芽の手から日記を取り上げ、隼馬はいくつかのページの、最後に書かれていると思しき文を読み上げていく。

「『幸せになれるってホントだったんだ。次はヨシミちゃんに渡そう』。『こんな気分、生まれて初めて。ユリエちゃんに渡したら喜んでくれるかな』。『なんだかとても幸せな感じ。ユウカちゃんが興味を持ってたから、渡してあげよう』……分かるな?」

 挑むような目つきに、彩芽はぎこちなくうなずいた。それならいい、と言いたげに隼馬は日記を閉じ、忌々しげに表紙を叩いた。

「こいつは何らかの方法と基準で次の持ち主に相応しい奴を選んで、今の持ち主がそいつに渡すよう仕向けてんだ」

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