第10話

 翌日の十三時頃、椎名は額に浮かんだ汗をハンカチで拭いながら店に訪れた。

 昨日のようにソファに座ってもらい、彩芽が茶を出す。一口飲んだ時に「うまい」と言ってくれたのが、日々の成長を褒めてもらえているようで少しばかり嬉しかった。

「早速ですが、昨晩、奥様は現れましたか?」

 泡草が湯呑を両手で持ちながら問いかける。今日は紺碧色の地に格子柄の着流しで、相変わらず洋装ではない。隼馬は泡草の隣に座り、机の上に出されていた茶菓子を時折口に運んでいた。机の中央に置かれた木製の丸い皿には、彩芽が用意した小倉と求肥入りの最中が盛られている。無言で食べ進めている表情から判断する限り気に入っているらしい。

 椎名は湯呑を片手に、「いやあ」と頭をかいた。

「見ませんでしたね。朝から晩まで熟睡していたもんですから、気付かなかっただけかもしれませんが」

 照れたように笑ってはいるが、声色からは淋しさが滲み出ている。

「昨日、お二人が妻の日記を見つけてくれましたでしょう。あれで間違いなかったんですか」

「ええ。大正解でした」

 泡草が例のノートを差し出す。椎名はそれを受け取って開くと、妻の面影を探すように目を細めた。

「奥様はその日記をお兄様に渡してほしいと、椎名さんに訴えておられたんです」

「兄、ですか?」

「奥様にご兄弟がいたことをご存知では?」

「結婚する前に、家を出て行ったきりの兄がいるとは少し聞いていましたが……いや、それよりもなぜそれが分かったんです」

「直接教えていただいたんですよ」

 本来ならば彩芽の時のように、椎名にもあの光景を直接見てもらうのが正しかったと昨夜教えてもらった。だが、ノートに宿っていた魂は微かだったせいで、今日は可能でも明日は分からない。そういう状況だったそうだ。

 朱里とのやり取りや諸々の事情を説明され、椎名は始終目を丸くしていた。

「そんな事が……にわかには信じがたいですな」

「よく言われます」

「しかし、妻も現れなくなりましたし、今の話に嘘は無いのでしょう」

「信じてくださってありがとうございます」

 さて、と泡草は指を鳴らした。

 話を切り替える時、彼はいつもそうしているような気がする。どうやら癖らしい。

「いくらお父様とお兄様が不仲だったとはいえ、娘が、妹が亡くなったのです。通夜や葬儀に参列していないとは思えないのですが、心当たりはありませんか」

「というか、お父さんはご存命なんですか?」

 彩芽が控えめに問いかけると、椎名は「八十近くだけど矍鑠かくしゃくとしておられるよ」とからりと笑う。

義父とうさんは妻が亡くなったと知らせるや否や飛んできてくれてね。ひどく取り乱していたよ。その時は私の父が慰めていたんだが」

 ひょっとして、椎名の義父は息子に何も伝えていなかったのではないか。そう思った先に、

「ああ、そういえば葬式のとき、式場で私と同じくらいの年の男性が義父さんに話しかけていたかな。男性は義父さんの肩を撫でて慰めていたよ」

 椎名は顔を思い出そうとするように眉を顰めた。

「その方がお兄様かは定かではないですが、一度お父様に連絡を取ってみては? どうやらお父様は頑固なようですし、素直にお兄様の住所を教えてくれるかは分かりませんが」

「ははは、全くその通りです。ですが、妻の最期の願いです。必ず義兄に届けてみせますよ」

 お前も、願っていてくれ。

 椎名はノートに語りかけるように目を落とした。

 その後、彩芽の時のように隼馬が料金を計算し、椎名はきっちりとその金額を払って帰っていった。店を出るときにポケットから携帯電話を取り出していたから、早速義父に連絡を取っているのだろう。

 その背中を見送りながら、

「あの、一ついいですか?」

 彩芽は泡草の向かい側に腰をおろし、最中に手を伸ばしながら問いかけた。

「四十九日は死者が旅立つ日って言ってましたよね。じゃあ、まだ朱里さんはまだこの世にいるんですよね? だったら椎名さんにも姿を見せることが出来たんじゃ……」

「残念ながら無理なんだ」

 ず、と茶を啜り、泡草は頬をかく。

「飛鳥が『視る』ことが出来んのは、あくまで日記に残された感情に縛られた魂だけって前に言ったろ。聞いてなかったのか」

「失礼な。ちゃんと聞いてました! ――ああ、そっか。朱里さんを縛っていた感情は解されて、もう『日記に残った感情に縛られた魂』じゃないから」

 たとえこの世にある魂でも、泡草の目には映らない。映らないものを、彩芽たちにも見せることは出来ない。そういうことなのだろう。

「日記に縛られていなかったら、お兄さんに会えたかもしれないのに」

 たとえ言葉を交わすことは出来なくとも、嬉しかったに違いない。自分の葬式の場とはいえ、父と兄が話す光景を目にすることが出来たかもしれないのだ。

「でも、まだこの世にはいるから。ひょっとしたらお兄さんに会いに行っているかもしれないよ」

「もう日記にゃ縛られてねーもんな」

「そういうこと」

 ふわふわと動き回り、ようやく兄の元へ辿り着いた朱里の表情を想像してみる。

 きっと少女のように弾ける様な、明るい笑顔を浮かべている事だろう。そう考えると、ほんのりと嬉しくなった。

 彩芽は黙々と最中を食べすすめ、二個目を手に取った。皿の上には最後の一つがちょこんと乗っており、泡草と隼馬はお互いに手を伸ばしたり引っ込めたりを繰り返している。最終的に泡草の隙を突き、隼馬が最中を手に掴んだ。

 傍目に見ても分かるほどに泡草の肩が落ちる。若干痛々しい。

「半分食べますか」

「ありがとう。だけど大丈夫だよ。買い置きのお菓子があるから持ってくる」

 最中を割ろうとしていた彩芽を手で制し、泡草は立ち上がってのれんの奥に消えた。軽い足取りで階段を上がっていく音が聞こえる。

「泡草さんって、着物いくつ持ってるんでしょうね」

 手にしたままだった最中をかじりつつ問いかける。隼馬はまるでハムスターのように膨らんでいた頬が引っ込んだ頃に、「俺も正確には知らねえよ」とソファにもたれ掛かった。

「実家の方にはもっといっぱいあるって言ってたしな。店にあるのはほんの一部だ」

「そんなたくさん! 普通の洋服とかはないんですかね。いつも着物だけど」

「あるにはあるぞ。ただ、今は着てない。というより、着ようとしない」

 意味が分からず、彩芽は首を傾げた。

 続きが気になったのだが、泡草が戻ってきたために隼馬はぷっつりと会話を断ってしまった。仕方ない、また別の機会に聞いてみるとしよう。

「お待たせ」彼が手に持っていたのは、白い長方形の薄い箱だ。「この前送られてきたんだ」

 ふたを開けると、透明な袋に小分けされた細長く平らな餅が十個ほど並んでいる。

 知る人ぞ知る桑名名物、安永餅である。

「うわー! これ好きなんです!」

 一つもらいます、と頭を下げてから袋を手に取った。白い餅の表面には焦げ目がついており、中にはぎっしりと粒あんが詰まっている。彩芽はオーブントースターで焼いてから食べるのが好きだが、もちろんそのまま食べても美味しい。

「お前の親父さんか、送ってきたの」

「うん。地元に住んでると余計に食べないだろうって」

「確かにそうですよね。あたしもお祖母ちゃんの家行くときにお土産で持って行って、その時に食べるくらい」

 二十個入りを持って行って、そのほとんどを彩芽が食べてしまう。誰のためのお土産なのかとよく祖母に笑われた。今では自重する――ほんの少しだけ。

 彩芽が二個目を取ろうと手を伸ばした時だった。

「はーちゃん! 遊びに来たよ!」

 店の扉が勢いよく開き、威勢のいい声が飛び込んできた。扉に付けられた鈴がガラガラと騒がしく鳴り響く。反射的に手を引っ込め、彩芽は入り口を見遣った。

 そこには、ぴんと右腕をあげた背の高い女性が立っていた。

 まるで満開のひまわりのような眩しい笑顔に、子猫のように丸い鳶色の瞳。艶のある黒髪は背中の半ばほどまで伸び、癖一つない。肩を大胆に露出した淡い桃色のトップスと、若竹色のフレアースカートは落ち着きつつも華やかだった。凹凸の少ない彩芽の体に比べ、女性はモデルのようなスタイルの良さをしている。少しばかり羨ましい。

「髪が伸びたからね、ちょっと整えてほしいなーって思ってるのー」

 ころころと鈴の鳴るような声は涼やかで、通りがいい。女性は左手に持っていた紙袋を掲げながら、こちらに近づいてくる。

 この人は何者なんだろう。そういえば誰かに似ている気がする。

 問いかけようと泡草と隼馬に目を向けてみると、

 ――え?

 二人とも、心なしか表情が強張っていた。

 それに気付いていないのか女性は隼馬の背後に立ち、

「ちょっ、やめろ! 暑苦しい!」

「そんなこと言ってー。本当は嬉しいんでしょー」

 思い切り抱きついた。

 隼馬が拒否するのも構わず、女性は彼に頬ずりを繰り返した。まるで甘えん坊の犬と、その主人といった風だ。

 ひとしきりやって満足したのか、女性は彩芽を見て「んん?」首を傾げた。

「あれ? ひょっとして、お客さん?」

「違うよ」穏やかに、けれども緊張したような声色で否定したのは泡草だった。「新しくアルバイトで入った子なんだ。彩芽さんっていうんだよ」

「彩芽さん? 可愛い名前!」

 突然名前を褒められ、どうしていいか分からず彩芽はぺこりと頭を下げた。

 誰なのか分からないが、泡草と隼馬は面識があるようだし、この店の常連かもしれない。

 女性は敬礼するように右手を額に当て、「はじめましてー」と笑う。

「泡草沙羅さらっていいます。二十二歳! 誕生日は七月二十八日!」

「泡草?」

 自然と視線が泡草に向けられた。

 彼はどこか困ったように微笑み、自分と沙羅を交互に指した。

「親戚なんだ、兄妹じゃない。それと、」

「はーちゃんの彼女なんだー」

 えへん、と沙羅が胸を張る。それとほぼ同時に隼馬の顔が真っ赤になるのを見て、なるほど、と納得した。

 いきなり抱きついたり、独特の愛称で呼んだりしていた理由はそれだったのだ。

 もしかしなくても、隼馬の車についていた可愛らしいハンドルカバーやルームミラーにぶら下がるぬいぐるみは、沙羅の趣味なのかもしれない。取ると怒られると言っていたのは経験したことがあったからか。

 沙羅は再び隼馬に抱き付き、机の上を見てハッと目を丸くした。

「安永餅! これねー、お父さんとお母さんと長島スパーランド行ったときに、あーちゃんにって買ったんだー」

「そうだったんだ。ありがとう。またお礼を言っておくよ」

 泡草はにっこりと笑いかける。隼馬が「はーちゃん」なら泡草は名前が飛鳥だから「あーちゃん」らしい。

「なんで遊園地に遊びに行った土産がこれなんだ! 駅でも買えるだろうが!」

「はーちゃんは黙っててくださーい」

「いってぇ!」ばちん、と額を指ではじかれ、彼にしては情けない声を上げる。「それに言っただろ! 店に来る時は事前に連絡しろって!」

「忘れてたんだもん、仕方ないじゃーん」

「お前な……!」

「……お茶、淹れてくるよ」

 二人の邪魔をしては悪いと思ったのか、泡草が湯呑を片手に給湯室へと向かう。だが、沙羅は「あっ、私もついてくー」と紙袋を持って後を追ってしまった。

 呆然と二人の背中を見送り、彩芽は今度こそ安永餅を手にした。ビニールの袋を慎重に破っていると、隼馬が顔を覆いながら大仰なため息をついた。顔色はすっかり元に戻っている。

「悪かったな。驚かせて」

「いえ、別に気にしてません。しいていうなら隼馬さんに彼女がいたことの方が驚きです」

 いつもなら、喧嘩売ってんのか、と言葉が返ってくるところだ。

 しかし、

「飛鳥が店から出ない理由は、あれだ」

 隼馬はいつになく真剣な面持ちで、給湯室を見遣った。

 泡草が店から出ないというのは前に聞いたが、確かに詳しい理由は聞いていない。あれ、というのは沙羅のことだろうか。

 もちもちとした食感を飲み込んで、ふと違和感を覚えた。

「この安永餅、泡草さんのお父さんが送ってきたんですよね?」

 先ほど沙羅は、なんと言っていた?

 ――お父さんとお母さんと長島スパーランド行ったときに、あーちゃんにって買ったんだー。

 なにかおかしい。例えるなら喉に魚の小骨が引っかかったような違和感だ。それを口にしていいものか躊躇っている間に、隼馬はぐいっと茶を飲みほし、「女の勘って怖いもんだな」と聞えよがしに呟いた。

「まだ何も言ってないんですけど。っていうか、褒めてます? けなしてます?」

「どっちも」

「お待たせしましたー!」

 沈みかけていた空気が、ぱっと華やいだようだった。

 給湯室から戻ってきた沙羅は、見覚えのない白く四角い盆を持っていた。その上には、やはり見覚えのないアンティーク調のティーカップが四つ載っている。泡草はそれぞれの前にティーカップを置き、彩芽の隣に腰を下ろした。

「この前ね、ティーカップを新調したの。それを見せびらかしたくて持ってきちゃった」

 沙羅は隼馬の隣に座り、「ついでにストロベリーティーも持ってきたの」と楽しそうに笑う。先ほどから漂っていた甘い香りの正体はそれか。

 せっかくだし、温かいうちに頂こう。そう思った矢先に、カラカラと鈴の鳴る音がした。四人は自然と手を止め、入り口に目を向けていた。

「ごめんください、開いてま……ひっ」

 こっそりと可愛らしい頭が覗き込む。だが、八つの目玉に見つめられて驚いたのだろう。小さく悲鳴を上げて引っ込んでしまった。その数秒後、再び控えめな声と共に扉が開いた。

 彩芽は白い盆の上にティーカップを乗せ、そそくさと給湯室に引っ込んだ。安永餅は隼馬が、湯呑は沙羅がそれぞれ持ってきてくれる。そのまま、三人はのれんの奥からしばらく様子を窺った。

 その場に残された泡草は「どうぞ」と向かいのソファを手で示す。声の主は恐縮しきった様子で言われた通りそこへ座った。

 声で何となく察していたが、今回の客は女の子だった。年は中学生くらいだろうか、やや茶色い髪は肩のあたりで切りそろえられ、二重の瞳は恐る恐る辺りを見回している。キャラクターがさり気なくプリントされた可愛らしいリュックを背負い、肩の紐を掴む両手には緊張のあまり力が入っていた。

 客と泡草が話し始めるのを見て、話が長くなりそうだと判断したのだろう。隼馬に「お前、今日暇だよな」と問われてうなずくと、彼は続いて「沙羅、遊びに来てくれたところ悪いが、ちょっと外してもらえるか」と彼女の頭を撫でた。

「うん。いいよー、仕方ないもんね」

 今までにも何度かこういうシチュエーションがあったのだろう。沙羅は小さな声で了承した。

「せっかくだし、お前と彩芽でどっか遊びに行って来い」

「え? あたしも?」

 まさか自分の名前が出てくると思わず、声が裏返った。

 初対面の人と遊びに行けって、どこへ。そう聞きたかったのに「わかった!」とうなずいた沙羅に腕を掴まれ、彩芽はなすすべもなく裏口から連れ出されてしまった。

 振り向きざまにのれんの隙間から見えた客は、今にも泣きそうな顔をしていた。

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