第9話
泡草の脚元からぼんやりとした光が広がっていく。以前と同じようにそれはやがて床や天井、壁を全て覆い尽くしていった。
「それじゃあ、お呼びしよう」
泡草がそっと表紙を開く。久保の時のように光が飛び出してくると思い、彩芽は思わず身構えた。だが、一向にそんな気配はない。よく見ると、初めの真っ新なページからゆらゆらと銀色の
「……なかなか人の形になりませんね」
彩芽の呟きに、隼馬と泡草がほぼ同時にうなずいた。
息を吹きかければたちまち消え去ってしまいそうな靄は、いつまでも日記の上で揺らめいている。一瞬だけ人の顔のようなものが出来上がりかける事はあるものの、ノイズのように不明瞭なまま霧散してしまう。その繰り返しだ。
「ご本人の了解を得ずに読むのは申し訳ないけど、仕方ないな」
泡草が初めのページに目を落とすと、そこには何も書かれていない。泡草は僅かに首を傾げ、次のページを開いた。その一行目を見て、彩芽は「あっ」と声を上げた。
「これ、奥さんが若い頃に書いていたやつなんじゃないですか?」
何年か書くことを見越していたのか、はたまた偶然か。そこには三七年前の年月日が残されていた。
「三七年前ってことは、奥さんが十三歳のころだろうね」
「中学生の頃に書いたやつをずっと持ってたってのか」
隼馬が驚きの声を上げる隣で、泡草は考えるように唸り、続きに目を通した。
一九××年 五月二十日
今日は英語の単語テストがあった。全問正解まであと少しだったけど、また来週の単語テストで頑張ろうと思う。部活も楽しかった。友達が誰もいない場所に引っ越して一カ月経ったけど、新しい友達もたくさんできた。
明日はお父さんの誕生日。去年はネクタイを買ったから、今年はどうしよう。お母さんはいつも何を渡していたっけ。
一九××年 五月二十二日
今日もお父さんの帰りは遅かった。残業をしていたって言ってたけど、最近いっつもそう。一人で食べる晩ごはんはあまりおいしくない。
音楽のテストでピアノを弾いた。失敗しちゃって悔しい。次はちゃんと弾けるといいな。
一九××年 五月二十三日
部活が終わった後、先輩に音楽のテストの事を話したら色々教えてくれた。なんだか懐かしい気持ちになって嬉しかった。明後日に再テストがあるから、今度こそ上手く弾けるといいなって思う。
お父さんにやっとプレゼントを渡せた。マグカップ、喜んでもらえたみたいでよかった。
二ページ目に書かれていた部分を読み終え、三人は顔を見合わせた。
文章自体は少女らしい丸みを帯びた可愛らしい文字で書かれている。特におかしな点は無い。次いで、泡草はノートの上に目を向けた。それにつられるように彩芽と隼馬も視線を動かし、「あっ」と声を上げた。
「初めまして。椎名朱里さん、でお間違いないですか?」
泡草の確認に、『ええ』と落ち着いた声が返る。
ノートの上で漂っていた靄は、いつの間にかふっくらとした体系の女性の姿になっていた。顔に血の気は無いが、目に宿る光は温かい。ほんのりと茶色く染められた髪は短く、パーマが当てられている。
『はじめまして』女性は微笑みながらゆっくりと首を垂れた。『椎名凛太朗の妻、朱里と申します。ごめんなさいね、こんな格好で』
女性――朱里は恥ずかしそうに頬に手を当てた。
彼女が纏っているのは白い着物だ。確か死者が着る装束は
泡草は自分と店のことを簡単に説明し、「申し訳ありません」と頭を下げた。
「あなたの許可を得ず、日記を読ませていただきました」
読んだのは彼だけでなく、彩芽と隼馬もだ。二人は慌てて泡草に続いて謝罪する。それに対し、朱里は怒った様子もなく手を振った。
『いいのよ、もう何十年も前に書いたものだから。それに、あなたの仕事は日記を読むことなんでしょう? だったら仕方ないわ』
「より正確に言えば、日記に残されている『感情』を解きほぐし、現世に留まっている方に成仏していただくことがぼくの仕事です」
やんわりと微笑み、泡草はノートを撫でる。
「椎名さんからの依頼は、『妻の日記を探してほしい』というものでした。念のため確認させていただきます。あなたが見つけてほしかった日記は、このノートで間違いないですか?」
朱里の前にノートをかざすと、彼女は『諦めかけていたけれど、見つかったのね』とうなずいた。つまり、日記を探してほしいという椎名の依頼を半分終えたという事だ。
だが、泡草の仕事はここからだ。
朱里が日記に残した「感情」はなんなのか。彩芽は逸る鼓動を抑えるように小さく息を吐き、二人のやり取りに集中した。
「事故で亡くなられたと伺いました。突然のことに驚いたでしょう」
『ええ。お墓参りに行った帰りに、玉突き事故に巻き込まれてしまってね。痛いなあって思っていた時にフッと体が軽くなって、助かったのかしらと思ったらいつの間にか家にいたの』
死んでしまったなんて、急に理解できなかった。朱里は指を組んで目を伏せたが、すぐに吹っ切れたようにはにかんだ。『やり残したことはたくさんあるけど、その中でも一番大事だったこと、あとであなたに頼んでもいいかしら』
「ええ。我々に出来る事であればなんでもさせていただきましょう」
泡草は会話を交わしながらも日記に素早く目を通していく。隼馬も横から覗き見ていたが、スピードについていけなかったらしい。日記を探し回った疲れが出てきたのか、あくびをかみ殺す様に何度か唇を噛んでいた。
その時、ページの合間からひらりと何かが舞い落ちた。彩芽がそれを拾い上げている間に、泡草は「さて」と、
「ざっくり見せていただきました。二つほど、気になった点がございます」
初めに見た二ページ目を開いた。
「あなたは少女時代、お父上との二人暮らしだったのですか?」
泡草が指した一文は「一人で食べる晩ごはんはあまりおいしくない」だった。
『凄いわね、少し読んだだけで気付くだなんて』
心の底から驚いたように、朱里の目が丸く見開かれる。あっと開かれた口を両手でさり気なく隠す仕草には、育ちの良さが窺えた。
『父と母は、私が五歳の頃に離婚しているの。私は父に引き取られて、何度か引っ越しもしたわねえ。そう考えるとあの頃は大変だったわ』
やれやれと言いたげに肩を落とし、朱里は息を吐いた。
「では、続いて二つ目」
泡草の細い指が、次の日の文章を指す。
「音楽のテストに向けて、先輩に教わっていたのですよね。この懐かしい気持ちとは……」
「奥さんには、ご兄弟がいたんじゃないですか」
泡草の声を遮ったのは彩芽だった。予想だにしないところから声が聞こえて驚いたのか、泡草と隼馬は揃って振り返り、彩芽を見上げた。
発言してから、はっと気が付いた。しまった、今は泡草が話していたのに。恐る恐る彼を見ると、「どうぞ」と手で続きを促された。
「これを見て、そうなんじゃないかなって思っただけなんですけど」
彩芽は先ほど拾い上げた紙を差し出した。
横線が並んだ長方形のそれには、梅の花や枝が描かれている。桜色から空色のグラデーションが美しい。
「手紙、ですよね」
泡草と隼馬の視線に舌を噛みそうになりながら、それでも彩芽は言葉を続けた。
「日記を探していた時、奥さんの部屋でも同じものをいくつも見ました。でもそれには、宛名のところに誰の名前も書いてなかった。けど、これには」
彩芽は便箋を泡草に渡した。隼馬もそれを覗き見て、納得したように泡草と視線を交わす。
そこに記されていたのは、個人の名前ではなかった。
「『お兄ちゃんへ』……奥さんには、お兄さんがいた。でも、お父さんと二人暮らしって仰ってましたし、お兄さんはお母さんに引き取られたんじゃないかなって」
「懐かしい気持ちってのは、まだ離婚する前に兄貴に勉強教えてもらってたりして、そういうのを思い出したからか」
隼馬が口を挟む。ほぼ間違いなく正解のはずだが、どうだろう。彩芽はそっと朱里を見遣るが、
『兄なんて、いないわ』
そう答えた彼女の表情は曇り、口調はまるで突き放すかのようだった。
彩芽は言葉に詰まり、視線を足元に落とした。それに、どう考えても朱里は不快さを露わにしている。
――どうしよう。
隼馬に向けられる視線が痛い。泡草は何も言ってくれないし、次第に空気が重くなっていく気がする。
『……そう思えって、長い間言われ続けていたわ』沈黙が恐ろしくなり、彩芽が腕時計の上から左手首を握りしめると同時に口を開いたのは、他でもない朱里だった。『可愛らしいお嬢さんが言った通り、私には八つ年上の兄がいたの』
視線の先で、朱里は過去を懐かしむように目を細め、天井を仰いでいた。
『頑固で、気も強くて、少し喧嘩っ早いところもあったけど、私にとっては男らしい頼れる兄だった』
だが、両親は離婚する。原因は母の浮気で、母は新しい男と共に家を出て行ってしまったのだ。兄妹は父に引き取られ、しばらくは何の問題もなく暮らしていた。
しかし、それはほんの少しの間だけで。
『兄は成長するにつれて、父との折り合いが悪くなってね。言ったでしょう? 喧嘩っ早いって。顔を合わせれば、二人はいつも喧嘩していたわ。私はそのたびに仲裁に入ってた』
そして、ある日。朱里が七歳の頃、兄は父と衝突し、「こんな家出て行く」と口走っていたという。その言葉通り、数日後、兄は荷物をまとめて出て行ってしまった。
『それきり、戻ってこなかったのよ』
一通り語り終え、朱里は疲れたように目を閉じた。
どう言葉をかけるべきか悩み、彩芽は意味もなく視線を宙にさまよわせた。泡草も言葉を選ぶように何度か「ううん」と唸るばかりだ。
「戻ってきてほしいって、あんたは思ったのか?」
ぼそりと呟くように言ったのは、どこか悲しげな目つきをした隼馬だった。
「そんだけ兄貴を慕ってたんだ、戻ってきてほしい、ないし自分も一緒に行きたかったって思っただろ」
『……そうね。どうして私を置いていくのって、当時は毎晩泣いてたわ』
当時を思い出したのか、朱里は手の甲に爪を立てた。
それはまるで、涙をこらえているようにも見える。
『父は兄の行き先を知っていたみたい。でも、どれだけ聞いても教えてはくれなかった。伝えてしまったら、私は絶対兄を追ってしまうと思ったんでしょうね』
妻に捨てられ、息子にも家を出て行かれ。
残った娘だけは、たとえ本人に恨まれてでも手元に置いておきたかったのだろう。
お父様の気持ちも分かります、と泡草は真っ直ぐに朱里を見た。
「一人残されるのは、とても寂しい事ですよ」
その言葉には、不思議な重みが宿っていた。
「それで『兄はいないと思え』ですか。追うべき相手がいないのなら、あなたも家を出て行く必要はありませんから」
『初めは無茶言うなって反抗もしたけれどね。でも段々、そう思い込むしかないなと感じるようにもなった。だから父の前では兄のことなんて忘れたように振る舞ったの』
彼女は腕を伸ばし、ノートに触れた。その手つきはとても愛おしげで、優しい。
「このノートは、もとはあなたのお兄様が所有していたものなのでは?」
泡草の問いに、朱里は微笑んで肯定した。
「初めのページに、微かにではありますが何かを書いていた跡があります」
ほら、と泡草にノートを渡され、彩芽はじっと目を凝らした。
確かに、あった。何かを書いていた跡、というか、正確には「前のページに書いていた文字の筆圧が写っている」のだ。最初にページを開いた時、泡草が首を傾げていたのはこれを見つけていたからか。政治家や年代を書いていたところを見ると、どうやら世界史か日本史の勉強に使っていたらしい。その筆跡は、朱里のものとは明らかに異なっている。
ページが少ないと感じたのも、兄が書いていた部分を全て破ってしまったからだろう。
『ええ。兄が出て行ったあと、部屋の整理をしていた時に見つけたの。大体の荷物は出て行くときに持って行ってしまっていたけれど、それは机の下に落ちたまま忘れられていて』
それまでは言いつけ通り「忘れたふり」を貫いていた。だが、ノートを見つけた時に涙が溢れてきたという。
きっと兄だって家に戻ってきたいはずだ。けれど、持ち前の頑固さがそれを許さない。
『だから、決めたの。いつか兄が帰ってきた時のために、私が日々どんな事を見聞きして、どんな風に思ったか教えたくて、日記を書き始めた』
兄が忘れていったノートに、少しずつ。
自分や兄の誕生日の時といった節目の日には手紙も書いた。結局、住所が分からずに出せずじまいのまま、机の中に放り込んでいった。それが、彩芽が見つけた数多の紙だ。
「あなたを縛り付けている感情は、お兄様に対する『思慕』と『後悔』ですね」
泡草が静かに告げた言葉に、朱里の姿が一瞬ゆらりと揺れた。
「お話を聞いて、あなたがどれだけお兄様を慕っていたのか分かりました。そして、お兄様を引き留めることが出来なかったことの悔しさも。日記を書くたび、あなたはこの二つの感情を抱かずにはいられなかったのでしょう」
大人になり、結婚してからも忘れることは無かった感情。結果として、朱里は死後、日記に縛り付けられた。
「じゃあ、椎名さんの夢枕に立ったのは」
「お兄様に渡してほしかったから、ですよね」
泡草は朱里に目を向け、「先ほど仰っていましたよね」と柔らかな笑みを浮かべる。
――いつか兄が帰ってきた時のために、私が日々どんな事を見聞きして、どんな風に思ったか教えたくて、日記を書き始めた。
『本当は兄に直接伝えることが出来ればと思ったのよ。なんとなく、死んだ後って魂だけでふわふわと飛べるものだと信じていたから。でも、そうでもないのね。全く遠くへ行けなくて』
「世間に浸透している『幽霊』のイメージとしてそれは間違っていません。あなたの場合、日記に染みついた感情が足枷のようになり、自由な行動を制限してしまっているんです」
泡草はおもむろに腰を上げ、店の入り口へと近づいていく。その途中で足を止めると、手ぶりを交えながら「その机からここまで、およそ三メートルほどです」と続けた。
「日記に縛られている魂が自由に動けるのは、日記を起点とした半径このくらいなんです。それ以上先へは行けません。上下移動も大体五メートルほどに限られます」
『そういうわけだったのね』
朱里は納得したように何度もうなずいた。
日記が隠されていた部屋の真下はちょうど寝室だ。朱里が自由に動ける距離に何とか入る範囲だったのだろう。
泡草が座り直すのを待ちながら、彩芽は朱里に問いかけた。
「日記の見た目を詳しく言わずにいたのにも、なにか理由があるんですか?」
『そんな大したことじゃないのよ。ほら、ずーっと父の言いつけに従っていたでしょう? 大人になってある程度自由になったとはいえ、それに背くのはなんだか父を裏切ったようで心苦しくてね』
「で、でも、見つからなかったらどうするつもりだったんですか? 泡草さんが言ってました。四十九日がタイムリミットだって」
四十九日は、死者があの世へ旅立つ日。
それはつまり、朱里はもうこの世にはいられなくなってしまうということで。
朱里は少しだけ悲しそうに、彩芽の目をしっかりと見据えた。
『どうもしないわ。見つからなければ、そのまま誰にも秘密にしたまま、日記は朽ちるだけ。死んでしまったのだし、しょうがないことなんだわって』
「でも、こうして見つかりました」
にっこりと泡草がノートを彼女に向かって差し出した。
つ、と朱里の頬を一筋の涙が伝う。その瞬間、彼女の姿が眩いレモン色の光に包まれた。
『あなたにお願いしようと思っていた最大の心残り、もう言わなくても分かるでしょう?』
「ええ。椎名さんにしかとお伝えしておきます」
日記を、兄の元へ届けてほしい。泡草と朱里の声が重なった。
徐々に姿が薄らいでいく。彩芽は儚さに満ちた光景に目を潤ませ、言葉を失くしたようにただ感嘆の吐息を漏らした。
『あちらに行ったら、知り合いにも会えるかしら』
そういえば朱里は墓参りの帰りに事故に遭ったと行っていた。知り合いというのは、その墓に眠る人物のことだろうか。
『十六年前、隣町で教師をしていた時に亡くなってしまった教え子がいるの。あの時のこと、私を恨んでいるかもしれないと思って、毎年命日が近づくとお墓参りに行くようにしてたの』
「恨む?」
どういうことだろう。彩芽は泡草と目を合わせたが、『あちらで会ったら、直接謝れるわよね、きっと』と嬉しそうに言ったのを最後に、すう、と朱里の姿が空気に溶けるようにして消えた。
泡草は彼女の姿を追うように天井を見上げ、
「……教え子の方と再会できるのを、願っています」
さあ、と雨の優しげな音がする。
それはまるで、朱里の代わりに空が涙を流しているようだった。
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