第3話

「なんなの、これ……」

 無意識に、日記を掴む手に力が入る。ページの端に小さな皺が寄った。

 前日のように記憶と日記が大きく乖離しているわけではない。途中まではしっかりと書いた覚えがある。

 明らかにおかしいのは最後の数行だ。

 昨日は確か、日記を書いて、両親と夕食を共にして、入浴、就寝という流れだった。夕食の前に友一から電話などかかってこなかった――はずだ。にも関わらず、彼は「昨日の約束」と言っている。だとすれば、前回と同じように、彩芽は日記に書いたことを忘れてしまっているのか。

 他の生徒が次々と通り過ぎていく。このまま立ち止まっていては邪魔だろうし、仕方なく階段を下っていく。友一も中庭で待っているというのだから、あまり長く待たせるのも悪い。

 中庭は講義棟と実験棟の間で長方形に伸びている。中央には花壇が設置され、季節ごとの花々が荒んだ心を癒してくれることもある。それを目的にしているのか、花壇の両サイドにはベンチが三つずつ置かれていた。

 友一が座っていたのは、講義棟側にある真ん中のベンチだった。

 彩芽が来たと気付くと、彼は自分の左隣を軽く叩いた。ここに座れと言う事だろう。昨日までなら心躍り、喜んで腰を下ろしたかもしれない。だが、今はとてもそんな気分にはなれなかった。悩んだ末、彩芽は立ったまま「遅くなってごめん」と早口に告げた。

 友一は一瞬怪訝そうな顔をしたものの、すぐに微笑んだ。

「俺も今来たところだから……悪いな、急に『会えないか』とか言っちゃって。びっくりしただろ」

「え? ああ、えっと、別に」

 そんな事言われた覚えはないんだけど、とは言えない。どうやら友一の記憶ではそういう事になっているらしいし、彩芽は曖昧に笑うしかない。ここは思い切って尋ねてみるか。

「あのさ、友一くん。昨日あたしに電話してくれたの、何時ごろだったっけ?」

 どうしたの急に、と彼は首を傾げたが、「七時半ごろだったと思うけど」と即答した。

 やはり、自分の記憶が間違っているのか。

 内心の動揺を押し隠し、何とか次の話題を見つける。

「佳苗とは仲直りした?」

「いや、それがまだ。というか、さらに怒らせちゃったというか……あいつに何か言われた?」

「言われたも何も」

 昨日と同じく、佳苗は今日もやけに機嫌が悪かった。それだけでなく、声をかけても「うん」か「あっそう」、「ふうん」のどれかしか返事が無い。長い付き合いではあるが、さすがに会話も続かず心も折れ、顔を合わせてもお互い無言のまますれ違うだけだ。

 そっかあ、と苦笑した友一は、申し訳なさそうに頬をかいた。

「それ、確実に俺のせいだ」言っていいものか悩んでいるようにしばらく宙を見つめていたが、彼は決心したのか小さくうなずいた。「謝ろうと思って、昨日佳苗の家に行ったんだ。その時にちょっとした喧嘩になってさ。その時に、彩芽と話してる方が気を遣わないし楽でいられるって言っちゃってさ」

 告げられたことを理解するのに、一、二秒かかった。

「は?」

 意味が分からない、と自分と友一を交互に指す。

「あたし、友一くんと喋ったの一昨日が初めてだったじゃん。楽でいられるとかそんな、」

「冷静じゃなかったんだよ! 俺さ、佳苗の部屋荷物置いてトイレ行ったんだよ。その時に、その……」

 携帯の通話履歴、見たらしくて。周囲の目を気にしたのだろう、感情に任せて大きくなっていた友一の声は、徐々に小さくなっていった。

「それで、嫌味を言われてさ。あやちゃんと喋ってる方が楽しいんだねって。それにカッとなって、つい」

「他にも何か言ったの?」

「……『お前に会う前に彩芽に会ってたら、俺は彩芽と付き合ってたわ』とか、そういうの」

 ぐわ、と。

 忘れたはずの記憶が、暗い感情と鈍い痛みを伴って蘇る。

 言葉は脳内で反響し、過去を躊躇なく掘り起こしながらやがて胸の奥へ重く、深く沈んでいく。それに耐えるように彩芽は無意識的に左手首を握りしめ、友一から視線を逸らした。

 そんな異変に気付く様子もなく、彼は佳苗とのやり取りを思い出したように肩を落としてため息をついた。

「会いたいって言ったのは、改めて旅行の事に協力してもらったお礼と、佳苗と仲直りしたっていう報告をするつもりだったからなんだよ。けど、佳苗は余計に怒るし、俺、もうどうすればいいか分からなくて」

 胸を張って背筋を伸ばし、友一は「頼む!」と彩芽に頭を下げた。

「彩芽、あいつとは中学からの付き合いっていうか、親友なんだろ? どうすれば機嫌が良くなるかとか、教えてほしい!」

「えー……」動揺しているのを悟られないよう、彩芽は努めて冷たい口調で突き放した。「それくらいは自分で考えてよ」

 それに、喫茶店で旅先の決定を委ねられたことといい、彼女の機嫌の取り方を聞かれることといい、何となく利用されている気分がした。こればっかりは協力できないし、何よりそれは彼ら二人の問題であり自分には関係のない事だ。

「とにかく、あたしは友一くんたちの保護者じゃないんだから」

「う……そう、だよな。ごめん、軽率だった」

「分かってくれればいいよ」

 これで話は終わりだろう、と彩芽は中庭を後にしようとする。今は一刻も早くこの場から立ち去りたかった。振り返って見ると、友一はさっそく考え始めているのか、腕を組んで真剣な表情を浮かべていた。



 夕方五時、彩芽は一人で『リラ』に立ち寄っていた。席はいつもの厨房から離れた角のソファ席ではなく、厨房の様子を窺えるカウンター席だ。

 ランチの時間を大きく過ぎているということもあり、客の入りはまばらだ。そんな中、彩芽の手元には二杯分のダージリンティーが入ったポットと空のティーカップ、そして、

月曜日に購入したばかりの日記帳が置かれている。

 もう一度、今日までの事を整理しようと思ったのだ。彩芽は振り返り、月曜日に三人で座ったソファ席を見遣る。そこでは高校生と思しき女子四人が談笑している。

 あの日はああして、彩芽は佳苗と友一の旅行先について提案した。そして、仲睦まじそうな二人を残し、一人で店を出たはずなのに。

 彩芽は日記を引き寄せ、月曜日に書いたことを見直すべく表紙を開く。だが、目に飛び込んできたページを見て背筋が凍り付いた。

 そこには「七月五日 水曜日」と、その下には延々と文字の列が記入されている。

 慌てて左手首に巻いた腕時計を確認する。時刻は「十七時二十三分」、表示された日付は「七月五日」だ。しかし、今日は昼に友一と会った以外は講義を受けていたし、日記を書く暇など無かった。

 それなのに、今日の出来事が、より正確に言えば、あったはずのないことがびっしりと書き込まれているのだ。

 ――筆跡は、間違いなくあたしのだ。

 背筋に冷たいものが走る。彩芽は二の腕を何度も撫で、はたと気が付いた。

「……そういえば」

 思い出したのは、月曜日の就寝前の出来事だ。

 寝つこうとした時、机の方から音が聞こえて、目を向けると日記が淡く光っていた。

 あの時は光を発する素材が日記に含まれているのだと見当をつけた。だが、それは間違っていたのでは――

「おかしいのはあたしじゃなくて、こっちなんじゃ」

 ありもしないはずの出来事が書き記され、それが現実になっている、なんて。

 そんな、まさか。あまりにも馬鹿馬鹿しく、非現実的だ。彩芽は頭を振り、勇気を振り絞って「七月五日」の出来事に目を通していく。

 主に書かれていたのは、昼に友一と話した時のことだ。彩芽の記憶では、友一に佳苗のことを相談された以外、これといった会話はなかった。

 しかし、

『……友一くんに告白されてしまった。でも、彼には佳苗がいるんだし、気持ちは嬉しかったけどさすがにその場で答えは出せなくて、明日返事をするからって言って講義棟に戻った。

 そうしたら、友達に佳苗が倒れたって教えられた。なんだか貧血気味で、ここ最近ちゃんとご飯を食べていなかったらしい。さすがに心配になってきた。友一くんの気持ちは嬉しいけど、佳苗も放ってはおけない。私はどうしたらいいんだろう?』

「っ……!」

 咄嗟に口を手で覆い、悲鳴を飲み込んだ。

「ありえない、こんなの」

 まだ手を付けていない紅茶をそのままに、彩芽は日記をトートバッグに放り込み、レシートを掴んで席を立った。手早く会計を済ませて店を出ると、そのまま桑名駅の近鉄線とは反対にあるローカル線のホームに向かい、その傍にあるゴミ捨て場に寄った。

 ゴミをあさる鳥対策のためか、長方形のゴミ捨て場全体に緑色のネットがかかっている。彩芽は日記を取り出し、ネットを勢いよくめくり上げた。

 下した結論は、「日記を手放す」以外になかった。

 買ったものを捨てるのは胸が痛むし、辛い。けれどそれ以上に気味が悪かった。

 ふと先日見たテレビ番組を思い出した。「真夏の夜の恐怖」と銘打った番組には、何度捨てても戻ってくる置物のエピソードが登場していた。

「これはそんなこと、ないよね」

 胸に抱えた日記に目を落とし、ごくりと喉を鳴らす。自分でも馬鹿馬鹿しいと思ってしまうが、そのイメージはこびりついたまま離れない。

 ふう、と深呼吸を繰り返し、彩芽はしゃがみ込んだ。

「あ、でもこのまま捨てるのはまずいのかな」破ったりすべきだろうかと考えながら、日記をゴミ捨て場に置こうとした時だった。「――――ひッ!」

 ぞ、と。

 両方の手首から肩にかけて、何かに掴まれているような気がした。恐る恐るそこを見てみるが当然何もない。思わず日記を地面に取り落とし、腕に纏わりついている何かを無我夢中で振り払った。

 どれだけそうしていただろう。日記を再び胸に抱えると、その気配はようやく消えた。

「な、なんなの、いまの」

 呼吸が自然と荒くなる。落ち着けと自分に言い聞かせ、今度こそ日記を置いた。が、また何かに手首を掴まれた。ずるずると這い上がってくるような感触に悲鳴を飲み込み、日記をゴミ捨て場から拾い上げる。

 その途端、それまでの嫌悪感は嘘のように消えてなくなった。

 こんなの、まるで。

 ――捨てるなって、警告されてるみたい。

 ぎゅう、と日記を強く抱きしめ、彩芽は弾かれるようにゴミ捨て場から走り去った。そのまま駅近くの駐輪場に停めていた愛用の自転車に跨り、およそ三十分走った先にある自宅を目指した。

 昨日と同じように慌ただしく帰ってきた娘に、庭先で草むしりをしていた母が「どうしたの、そんな急いで」とのんびりとした声を投げかけた。

「いや、別に、何もないから!」

 投げやりに答えながら車庫に自転車を止め、そのまま裏口から家に入り、真っ直ぐに自室への階段を駆け上っていった。

「はっ、はぁ、は……」

 扉を閉めるや否や、ずるずると座り込んでしまう。手の震えは収まらず、日記から少しでも手を放そうものなら吐き気に襲われた。

「なんなの、もう」

 捨てたい。彩芽は日記をそっと床に置き、震える声で呟いた。すると、めまいに襲われ、胃を締め付けられるような苦しさを感じた。

 彩芽は這うようにして机に近づき、日記を開いた。昨日の夜から置きっぱなしになっていたボールペンを手に、つばを飲み込み、今自分自身が感じているそのままの事を書き記した。

 なぜだろう、書いている間は苦しさを感じない。むしろ気分が楽になる。だが、恐らく今書いているこれも、そのうち書き変わってしまうのだろう。そう考えると自然と気分は重くなった。

 日記を閉じ、彩芽はベッドに倒れ込んだ。今は何もしたくない。ゴミ捨て場にいた時ほど気分は悪くないが、それでも手は未だに震えていた。

 眠れば治るかだろうかと思っても、一向にその気配はない。まともに食事も摂れず、睡眠すらままならない。気を紛らわそうと漫画や小説を手に取ってみたが、目は自然と日記に向いてしまう。だが、それを開く気にはなれなかった。

 翌日も翌々日も、とても大学に行く気になれずに、彩芽はベッドの上で蹲っていた。水曜日に書いた日記がどうなったのかまだ見ていないのだ。どんな異変が起きているか分からないし、今の状態で佳苗や友一に会うのは避けたかった。

 何もする気が起きないまま迎えた、七月八日、土曜日。

 彩芽が「泡草日記店」の広告を見つけたのは、その日の朝だった。




 腕時計は午前九時過ぎを指している。なんとなくノックをしてみるが返答はない。ひょっとしてまだ開店していないのかも知れないが、重厚感のある扉に力を加えると、上部に取り付けられていた鈴がカラカラと音を立てた。

 軽快な音に驚いて腕を引っ込めてしまったが、気を取り直して少しずつ扉を押していく。隙間から覗き見た店内はカーテンが閉められているために薄暗く、明かりもついていない。ほのかに漂っている木特有の落ち着いた香りにうっとりしかけたが、人の気配が感じられず、彩芽は首を傾げた。

「ごめんくださーい……」控えめに声を上げてみるが、一向に反応は無い。扉が閉まっていなかったために開店しているのかとも思ったが、鍵を閉め忘れていただけで、まだ営業していないのだろうか。再び声をかけながら扉を全開にし、目の前に光景に絶句した。「なにここ、すごい……」

 彩芽は店内に足を踏み入れ、壁に沿ってずらりと並ぶ本棚を眺めた。所狭しと詰まっているものをよく見てみると、先日書店で見たような「日記」の文字が記されている。日記店という名の通り、どうやら本棚に陳列されているのは全てその類のものらしい。本棚の前にはガラスケースが乗ったテーブルがあり、その中に高級そうな日記が置かれている。ケースは埃一つ被っておらず、小まめに清掃をしていることが窺えた。

 床のフローリングもかなり磨かれている。店の中央には長方形のローテーブルが置かれ、その左右には向かい合うように二人掛けのブラウン色のソファが並べられていた。

 それにしても、本当に日記しか置いていない。大きさも厚さも様々で、一冊限りのものもある。

 気分が悪かったことも忘れ、興味の向くままに本棚を観察していた時だった。

「おい、まだ営業時間前だぞ」不意に声が聞こえ、彩芽の背筋が固まった。「うちの営業時間は朝十時から夜六時までだ。今何時だと思ってる」

 不機嫌を隠そうともしない声は低く、重みがある。「すみません!」と咄嗟に謝りながら振り返り、

「でも、どこにも営業時間書いてなかったし、鍵もかかってなかったし、もう開いてるのかもって」

「開いてた?」

 彩芽の後ろにいたのは、二十代と思しき背の高い男だった。

 山吹色の髪はハーフアップでまとめられ、藍色の瞳は不審そうに細められている。テレビドラマに出てくる百年前の書生を彷彿とさせるスタンドカラーのシャツに、群青色の着物、縞模様の入った薄い浅葱色の袴という出で立ちは不思議と似合っていた。

「鍵は昨日の夜しっかり閉めたはずだけどな」

 まあいいや、と書生服は彩芽に向き直り、手をひらひらと前後させた。

「どっちみち開店まで一時間もあるんだ。出直してきな」

「は?」

 必死こいてここまで来たのに、出直せと? 冗談じゃない。

 彩芽は彼を睨みつけながら、手に持っていた広告を見せつけた。

「ここに『日記の相談、なんでも承ります』って書いてあったから来たの!」

「どういう理由で来たのか知らねえが、『開店前だから帰れ』。俺からはそれだけだ」

「でも、広告にだって営業時間書いてないし!」

「あ?」そんなことねーだろ、と書生服は広告をひったくり、まじまじと紙面を見つめて苛立たしげに呟いた。「……書き忘れてやがる」

「ほらー!」

 勝ち誇ったように彩芽が胸を張る前で、彼は広告を握りしめて肩を震わせている。

「あの野郎……あとで絶対ぶん殴って、」

「あれ、お客様かな?」

 カラカラと鈴の音に続いて朗らかな声が聞こえ、彩芽と書生服はそろってそちらに目を向けた。

 店の入り口に立っていたのは、長い前髪で顔の半分ほどを隠した細身の男だった。書生服の男と違って目つきは非常に柔らかく、桜色の薄い唇に笑みを浮かべている。桔梗色の地に縞柄の入った着流しは、店の雰囲気によくあっていた。

「そちらの方は?」

 男がおっとりとした笑みで書生服に問いかけると、彼は彩芽を指し「お前の予想通り客だよ」と早口に返答した。

「つーか、お前な! 外出てくなら少しの時間だろうが鍵閉めろって前も言っただろ!」

「いやー目玉焼き作ろうと思ったら玉子が無くてね、コンビニはすぐそこだしまあいいかなって」

「すぐそこだろうが関係ねえよ。出てくならそこの鍵閉めて裏口から! 学習しねえのか、お前は!」

 近所迷惑なのではないかと思うほど声を荒げる書生服と、それを笑顔で受け流す男。恐らく二人ともこの店の関係者なのだろう。彩芽は肩からずり落ちかけていたトートバッグを胸に抱え、

「うっ」

 ――忘れてた。

 吐き気がぶり返し、咄嗟に口元を抑えた。

「お客様」頽れる直前に、足早に近寄ってきた男に背を支えられる。長い前髪ごしに見えた彼の鳶色の瞳には、不思議な光が宿っていた。「そのバッグの中、見せてもらっても?」

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