第2話

 彩芽の自宅は田畑に囲まれている。夜になれば数少ない街灯に蛾などの虫が群がり、水田からはカエルの鳴き声が絶えない。

 屋根裏を改装して造られた自室で、彩芽は濡れそぼった髪をタオルで拭きながら扇風機のスイッチを入れ、勉強机に収納してあった椅子に腰かけた。

 机の上には、買ったばかりの日記を置いてある。

「さて、なに書こうかなー」

 タオルを首にかけ、大きくあくびをしながら柄のない武骨なボールペンを手に取った。

 書く内容を湯船に浸かりながら考えてはいたが、まだこれといって決まっていないのだ。

 日付はすでに変わっている。火曜日の授業は二限目からだが、遅くても八時には起きていなければならない。

「ま、なんでもいいか」眠気を払うようにニッと笑い、日記の表紙を開けようとする。それとほぼ同時に、寝間着に使っている高校の頃の体操服のズボンから軽快なメロディが聞こえてきた。「? こんな時間に誰だろ」

 音はすぐに消えた。彩芽がズボンのポケットからスマートフォンを取り出すと、機器の左上が緑色に点滅していた。メッセージアプリを受信したサインである。画面をタッチしてアプリを開けると、「横山香苗」と表示されていた。

 普段ならこんな時間、あの子寝てるはずなのに。首を傾げつつ内容を確認すると、

『今日は相談乗ってくれてありがとう』

 可愛らしい絵文字で彩られたメッセージが書かれていた。その下には最近愛用しているというクマのスタンプが押されている。

 予想だが、きっとこの時間まで友一とやり取りをしていたのだろう。

「もう昨日だよ……っと」

 気にしなくていいよ、おやすみ。簡潔に返信し、スマートフォンをポケットにしまい込む。

 さて。気を取り直し、彩芽は今度こそ日記を開き、店でも見た淡い水色のページにペン先を落とす。その瞬間、嘘のようにスラスラと書きたいことが浮かび、彩芽は瞬きも忘れて書きこんでいった。


 七月三日 月曜日

 いつも通り講義が終わってから、佳苗と喫茶店に行って、ミートスパゲティを注文した。この前食べた和風のやつのほうが、おいしかった。食後にはチョコレートケーキも食べたけど、この間食べたチーズスフレの方が美味しかった。

 今度行ったときに余裕があればフルーツロールケーキを食べてみようと思う。

 今日は佳苗の彼氏も途中から合流した。

 わたしは、彼のことを知っていたから、思わず名前を呼んでしまった。あれはまずかった。

 今日は二人に旅行の計画を任された。正直、自分たちで勝手に決めてくれと思った。仲が良いのはいいけど、なんか見せつけられてるみたいでイヤだった。

 途中なんて絶対わたしのこと忘れてたと思う。ああいうのは家でやってほしいと思う。

 二人と別れた後は、お母さんに頼まれてた化粧品を買いに行った。それから書店に行った。そこに可愛い日記帳があったので、ついでにそれも買った。出来るだけ毎日書けたらいいなと思う。


 これくらいか、と一ページ目の半分まで書いたところでペンを置いた。

「うわ、やばっ。早く寝なきゃ」机の上に放り出されていた腕時計が示していた時間に驚愕し、慌てて立ち上がる。「書くのって結構時間かかるんだなー」

 日記を閉じ、机と部屋の電気を消す。ポケットから再び取り出したスマートフォンの明かりを頼りに窓際のベッドに近寄り、ぼすん、と寝転んだ。枕代わりの肉球型クッションに顔を埋めながら、起きる時間に目覚まし機能をセットする。

 次第に瞼が重くなってきた。布団に入ってから三十秒で夢の中という父に似て寝つきはいい。ついさっきまではうるさく感じていたカエルの鳴き声も、ちょうどいい子守歌に聞こえてくる。

 中学生の頃から愛用し、くすんでしまった白い抱き枕を引き寄せようと腕を伸ばした時だった。

 ――ぱた。

「ん?」

 不意に微かな音が聞こえた。彩芽は身を起こし、目をこすりながら部屋を見回す。音は机の方から聞こえてきたような気がし、何気なくそちらに目を向けた。

 そこには、淡い光を放つ何かがあった。

「え、なに?」

 光るようなものなんて置いていたっけ、と思いながらベッドから降りようとする。だが、暗闇に目が慣れきっていなかったために、床に置きっぱなしになっていた衣類を踏みつけてしまった。危うく転びようになって目を離した一瞬のうちに、光は消え失せていた。

 彩芽は首を傾げながら机に近づき、卓上ライトのスイッチを入れる。光っていた場所にあったのは、今日購入したばかりの日記だ。

 まさか、これが光っていたのか。訝しみながら手に取り、表紙と裏表紙を交互に見比べる。

「そういえば、お祖母ちゃんの家にこんなのあったな」

 光を蓄えて少しの間だけほのかに光り、やがて消える。畜光材というのだったか。あれが日記に使われているのかもしれない。

 ふあ、と大きなあくびが漏れる。彩芽はライトを消し、足元に気を付けながら再びベッドに倒れ込んだ。

 眠気のせいか、頭にぼんやりと靄がかかったようだ。今度こそ抱き枕を引き寄せたところで、彩芽は眠りについていた。



 翌日、就寝前のことなど忘れ、彩芽は学食の端の席で昼食を摂っていた。

 ちょうどピークの時間帯ということもあり、学食は多くの生徒で賑わっていた。カフェテリア形式の食堂には専門店がいくつかあり、豊富なメニューがワンコインで楽しめる。彩芽が選んだのは半熟卵のオムライスだ。

 何気なく向かい側の席を見遣り、肩を落とす。いつもならばそこに佳苗が座っているのだが、今日は見知らぬ誰かが座っている。

 佳苗と朝から連絡が取れないのだ。大抵は登校途中に姿を見かけて話しかけるのだが、今日は一度も見かけていない。休んでいるのかと連絡もしてみたが、返信はまだきていなかった。

 オムライスの最後の一口を放り込み、ジーンズのポケットから取り出したスマートフォンの画面を開けてみる。やはり佳苗からの応答はない。

 そういえば佳苗には友一という彼氏がいるではないか。もしかして、昨日彩芽と別れた後にどちらかの家に行き、そのまま泊まり込んで寝過ごした、なんて。冗談めいてはいるが、あり得ない話ではない。

「お熱いことで……」思わず独り言を呟いてしまい、向かい側から不審そうな目を向けられる。あはは、と愛想笑いと共に視線をさまよわせた時だった。「あれ」

 席を探してあたりを行ったり来たりする生徒の中に、佳苗を見つけた。片手にはコンビニで購入したと思しきビニール袋をぶら下げ、何度か背伸びをしながら懸命に席を探している。友一は一緒ではないようだ。

 ちょうど食べ終わったところだし、と彩芽は空の皿が乗った盆を持ち、それをカウンターに返してから佳苗のそばに向かった。

「佳苗ー、やっほー」

「……あやちゃん」

 ――あれ?

 気のせいだろうか。

 こちらに向けられた視線に、かすかに棘を感じる。

「どうしたの、連絡しても返事ないし」

「別に。あやちゃんには関係ないから気にしないで」

「そう……?」

 何か気に障るようなことでも言っただろうか。やけに素っ気ないし口数も少ない。

 どうしたものかと言葉に詰まっていると、スマートフォンが振動した。表示されていたのは見知らぬ電話番号だった。彩芽が首を傾げている間に、席を見つけたらしい佳苗は「それじゃ」と言い残して足早に去っていってしまう。

 佳苗の様子もおかしいし、これ以上ここに立ち尽くしていても迷惑だろう。彩芽は学食を後にし、歩きながら電話に出た。「はい、もしもし」

『もしもし、黄土彩芽さんの携帯で合ってるかな』聞き覚えのある声だ。『あの、俺。町屋友一だけど』

「友一くん?」

 どうしたの、と問う前に違和感を覚えた。あたし、彼にいつ電話番号教えたっけ?

 いくら好意を寄せている相手とはいえ、さすがに不審である。彩芽が警戒心を強めていると、『急にごめんね。電話番号は佳苗に聞いたんだ』と向こうから答えを述べてくれた。

『今、少しだけ時間ある?』

「あるけど。なんで?」

『いや、ちょっと謝りたいことがあったから』

 なんだろうか。彼とは昨日の喫茶店でしか喋っていないが、特に謝られるようなことをされた記憶は無い。しいて言えば、目の前で仲の良さを見せつけられて少し不愉快になったことくらいか。

『昨日さ、俺、怒って帰っちゃっただろ。あんまりいい気はしなかったよなあって反省した。ごめん!』

「えっ」一瞬、自分の耳を疑った。彼はなにを言っているのだろう。「昨日ってあたしのほうが先に帰ったよね?」

 なに言ってんの、と不思議そうに笑われた。

『俺と佳苗が喧嘩して、あいつがヒステリックになったのを俺が放って帰ったじゃん。彩芽は物忘れが激しいんだな』

 記憶力は他の誰よりもいいつもりですが、と言いかけて、口を噤む。

 なぜ友一がそんな事を言っているのかは分からないが、ひとまずここは話を合わせておいた方がいいかも知れない。

「気にしてないから大丈夫。佳苗とは仲直りした?」

『あー……実はまだなんだよ。あいつ、やっぱり機嫌悪かった?』

「いつもよりは。なるべく早めに仲直りしてねー」

『分かったよ。それじゃ』

 ぷつ、と切れたスマートフォンを片手に、彩芽はしばらくその場に立ち尽くした。

 友一と、電話越しではあるが二人きりで話せたというのは思っていた以上に嬉しいものだ。高揚感が胸に満ちているが、同時に引っかかりも覚えていた。

 ――昨日は、あたしの方が絶対先に喫茶店を出たはず。

 友一に何かしらの思惑があるのかもしれない、とも思った。だが、どれだけ考えても彼が嘘をついているようには思えない。

「そうだ、日記」

 昨晩、彩芽は寝る前に喫茶店での出来事を日記に書いたのだ。あれを見れば真相がわかるはずだ。



 彩芽は自宅に戻るなり自室に駆け込むと、トートバッグを床に放り投げ、勉強机の前に立った。そこには例の日記がぽつりと置かれたままになっている。それを引っ掴み、千切れそうな勢いで最初のページを開いた。

「七月三日、月曜日」


 七月三日 月曜日

 いつも通り学校に行って、佳苗と二人で駅近くの喫茶店に行くことに。今日は佳苗の彼氏も途中から合流した。

 今日はミートスパゲティを注文した。この前食べた和風のやつに比べたらいまひとつだったと思うけど、美味しかった。食後にはチョコレートケーキも食べた。彼氏さんがケーキを欲しそうにしていたので一口渡したら、佳苗は少し不愉快そうだった。別にそれくらいどうってことないじゃん、佳苗はそのあたり気にし過ぎだと思う。

 今日は二人の旅行の計画を任されることになった。正直、自分たちで勝手に決めてくれと思った。

 仲が良いのはいいことだけど、なんか見せつけられてるみたいで居心地は良くなかった。途中なんて絶対わたしのこと忘れてたし。ああいうのは家でやってほしい。とりあえず行き先を提案したら、彼氏さんは乗り気だったけど佳苗がそうじゃなくて、二人が喧嘩を始めてしまった。何とか止めたけど、佳苗は取り乱していたし、彼氏さんは怒って帰ってしまった。


 日記を手にしたまま、呆然と机の前に座り込む。

「どういうこと?」

 あたし、こんなこと書いたっけ。呟きながら頭をかき、喫茶店でのことを思い出す。

 どれだけ思い返しても、佳苗と友一が喧嘩をしていた記憶はない。友一にも言った通り、自分の記憶力にはそれなりに自信があった。

 だが、いざ日記を見返してみれば『佳苗と友一が喧嘩』して、『友一が帰ってしまった』と書いてある。友一が言っていた通りだし、筆跡は彩芽のそれだ。それなのに、自分には書いた記憶が一切ない。

 ひょっとして自分は夢でも見ていたのか。

 しばらく日記と自分の記憶を照らし合わせていたが、ふと思い立ち、彩芽は机の抽斗に放り込んでいたボールペンを掴んだ。

 友一や佳苗の反応と日記に書かれたことは一致している。間違っているのは自分の記憶だけだ。

 ――もしかすると、あたしがおかしいのかも知れない。

 ざらりとしたページの表面を撫でる。

 今日の出来事をはっきりと覚えているうちに、日記に書きこんでしまおう。そう決意し、彩芽はボールペンを滑らせた。


 七月四日 火曜日

 今日は、大学に行ったら佳苗の機嫌がとても悪かった。なんであんなに機嫌が悪いのかは教えてくれなかった。食堂を出たら、友一くんから電話がかかってきた。

 昨日の喫茶店で怒って帰ったからって謝ってきたけど、身に覚えがなかった。

 わたしの方が先に帰ったはずだったけど、日記を見たら友一くんが言った通りのことが書いてあった。だから、多分彼の方が正しいんだと思う。

 どうしてわたしだけ覚えていたことが違うんだろう。分からない。だから、忘れないうちに今日の事を書いておく。

 けっこう混乱はしてるけど、友一くんと話せたのは嬉しかった。めったにない機会だと思うんだけど、そんなこと言ってる場合じゃないのかなあ。



 翌日、彩芽はメールを確認しつつ、四限目を終えた彩芽は時間を稼ぐようにゆっくりと階段を下りていた。

『昨日、電話した時にした約束、覚えてる? 四限目のあと、中庭で待ってる』

 絵文字も何もない、素っ気ないメールの差出人は友一だ。

 それにしても「昨日の約束」とは何のことか。友一と通話したのは昼休みだけで、謝罪と仲直りを促す会話しかしていない。どれだけ思い出そうとしても、記憶に間違いは無かった。

「どういうことなの……」

 メールの画面を閉じ、もしかして、と思いながら着信履歴を開く。最新のものは「十九時三十分 町屋友一」で、しかも電話に出なかったときの「×」マークはない。つまり、彩芽は昼以降に友一と通話をしていたことになるのだ。

 人通りが徐々に多くなってくる。彩芽は二階と三階の間にある踊り場で立ち止まり、隅に体を寄せてからトートバッグをあさる。取り出したのは、先日購入した夜空柄の日記だ。

 自分の記憶の正誤を確かめる手がかりは、今やこの日記しかない。念のためを思ってトートバッグに入れておいて正解だった。

 すう、と大きく息を吸い込み、彩芽は慎重に昨夜のページを開いた。


 七月四日 火曜日

 今日は、大学に行ったら佳苗の機嫌がとても悪かった。なんであんなに機嫌が悪いのかは教えてくれなかった。食堂を出たら、友一くんから電話がかかってきた。

 昨日の喫茶店で怒って帰ったからって謝ってきたけど、身に覚えがなかった。

 わたしの方が先に帰ったはずなんだけどな? でも、日記を見たら友一くんが言った通りのことが書いてあった。だから、多分彼の方が正しいんだと思う。

 どうしてわたしだけ覚えていたことが違うのだろう。分からない。だから、忘れないうちに今日の事を書いておく。

 けっこう混乱はしているけれど、友一くんと話せたのは嬉しかった。めったにない機会だと思うんだけど、そんなこと言ってる場合じゃないのかなあ。

 そういえば、ご飯を食べる前に友一くんからまた電話がかかってきてた。

「明日の四限目のあと、中庭で会えないか」って。

 仮にも友人の彼氏なんだし、何となく後ろめたくはあるけど、友一くんの声が真剣そのものだったから、とりあえずオッケーした。なんだろう。


「なんなの、これ……」

 無意識に、日記を掴む手に力が入る。

 ページの端に、小さな皺がいくつも寄った。

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