第4話
しん、と静寂が店内に満ちる。彩芽はソファに腰かけ、目の前で真剣な表情を浮かべる男の様子を窺った。
彼の視線は、机の上に置かれた例の日記に注がれている。
どれほどそうしていただろう。こと、と彩芽と男の前に、陶器の湯呑が置かれた。
「で、気分は落ち着いたのか」
盆を日記の隣に置き、書生服は男の隣に腰を下ろした。どうやらお茶は彼が淹れたものらしい。しかし手を付ける気にはなれず、彩芽は力なく首を振った。
膝の上で握り拳を作り、ちらりと男を見遣った。
――あたし、日記の事まだ一言も口にしてないんだけどな。
コンビニから帰ってきたという男は、彩芽が例の日記について話すより早く、バッグの中身を気に掛けた。書生服とのやり取りを外で聞いていたのだろうか。いや、そんなそぶりは見せなかった。
では、ただの偶然か。
というか、この男は何者なのか。
彩芽の訝しげな視線に気が付いたのか、男は日記から目を離し、「申し遅れましたが」と胸に手を当てる。
「ぼくはこの日記店の店主、
「
「保護者?」
そんなに歳は離れていなさそうだが、どういうことだろう。気にはなったが、今聞くべきことではない。特に突っ込まず、彩芽は店主の話に集中した。
「名前の通り、そしてご覧のとおり、当店で取り扱っているのは様々な日記です。ブログなどデジタルなものが普及しているのに、今時こんなアナログなもの、と思われるでしょう。けれど、一部には日記コレクターという方も少なからず存在しておりまして」
「つまり、うちはそういったマニアックな奴向けに日記を販売してるってこった」
「あっ、もちろん一般の方にも販売してますよ。あまりご来店はされませんが」
「じゃあこの、相談っていうのは?」
彩芽は隼馬から取り返していた皺だらけの広告を店主に向け、
「あたし、これを読んでここに来たんです。どんな相談でも受けてくれるんですか?」
「ええ。日記に関することならなんでも」
なんでも。彩芽はごくりと唾をのみ、知人の間で出回っていた噂話と、日記を購入してから数日の事を説明した。
その間、店主も隼馬も、ただ静かに話を聞いてくれた。彩芽の話がすべて終わり、店主は腕を組んで「なるほど」とうなずく。
やはり、こんな馬鹿馬鹿しい話は受け付けてもらえないだろうか。
店主は日記を手に取り、パラパラとページをめくる。彩芽は「最初はこういう書き方だったんです」と少しずつ説明し、そのたびに店主もうなずいてくれる。隼馬も真剣なまなざしで日記を覗き込み、店主と時折視線を交わした。
書かれていた部分を見終わったのか、店主は日記を閉じる。
「一通り読ませていただきました。ご相談というのは『勝手に改変される日記をどうにかしたい』ということでよろしいですか?」
「……はい。書かれたことが現実になってるのも、日記のせい、なんですか?」
自分で言っていてにわかには信じがたいが、店主は即座に「恐らくそうでしょうね」と応えた。
「ご心配なさらず」彩芽の表情が強張っているのを少しでも緩めようとしたのか、店主はほんのりと微笑む。「当店であれば、お客様のご相談に応えることが出来ます」
「本当ですか!」
「けど、いいのか? あんた、その友人の彼氏とやらが好きなんだろ。そいつと一対一で話せるようになったのは経緯がどうであれ、日記のおかげじゃねーの」
隼馬は店主の手から日記を取って適当にページをめくり、彩芽の目を見ながら問いかけてきた。開かれているのは、友一との関係が進展し始めたあたりらしい。
確かに友一と話せたことは嬉しい。このまま日記が書き換わるまま放置して、これからのことも委ねれば、さらに次の関係へと進むことが出来るかも知れない。けれど。
「……いいんです。親友との関係を犠牲にしてまで仲良くなれても、あたしはなにも嬉しくありません」
言葉に嘘偽りはないか。それを見極めようとしているのか、隼馬の瞳が鋭い色を帯びる。やがて「そうか」と息を
「では早速、お客様」表紙を撫でながら、店主は彩芽に問いかけた。「幽霊など不可思議な存在をその目でご覧になったことはありますか?」
「は?」
いきなりわけの分からない事を尋ねられ、ついぽかんと口を開けてしまった。
「すみません、しかし、今からあるものをお見せすることになりますので、一応聞いておこうと思いまして」
どう説明したものかと悩んでいる店主を見かねたのか、隼馬がため息まじりに日記を指した。
「つまり、その日記には『不可思議な存在』が宿ってるってこった」
それがどういうことなのかさっぱり理解できない。
「言っている意味がよく……?」
「詳しくは追って説明いたしますよ」
にっこりと微笑み、店主は日記を手に立ち上がった。
「ぼくの家系は代々、『不可思議な存在』を視ることが出来るんです」
話しながら、店の入り口に鍵をかけ、カーテンを閉めていく。
「とはいっても、いつ何時でもというわけではありません。限られた条件下で、です」
顔には人を安心させるような穏やかな笑みが浮かんでいる。そのせいか、彼が冗談を言っているようには思えなくなってきた。彩芽はどうしていいか分からず、ただ言葉の続きを待つしかない。
「信じられませんよね。なので、実際にお見せします」
言いながら、さらりと日記の表紙を撫でる。それと共に、店主の足元がぼんやりと光り始めた。
――え、なに。なにが起こってるの。
思わずソファから腰を浮かせて見つめてしまった。何度も目を擦ってみるが、見間違いではない。光は床を侵食するように徐々に広がり、やがて壁や天井までも覆い尽くした。
「さて、お客様の相談ごとは『勝手に改変される日記をどうにかしたい』、でしたね」
いつの間にか笑みが消え、表情が真剣そのものになっている。
彩芽はぎこちなく、けれども強くうなずいた。
ふう、と店主が息を整える。まるで心の準備をしているように。
そして、静かに日記を開いた。それと共に。
開かれたページから、銀色の光を帯びたなにかが飛び出した。
「えっ?」
開いたままだった口から呆けた声が漏れる。慌てて口を覆い、次に出てくるはずだった言葉を飲み込んだ。
飛び出した光に煽られ、店主の周囲に僅かに風が立つ。そのせいで、彼の隠れていた顔の半分が時折見え隠れした。それだけであれば何の疑問も持たなかっただろうが、彼の右頬から額にかけて、なにかで切り付けたような痛々しい傷跡が奔っていたのだ。
――どうしたんだろう、あれ。
長い前髪で顔を隠していたのはあれのためか。肌が白いだけに、色味の違う傷跡は余計に目立つ。
問いかけたい衝動に駆られたが、自分が置かれた状況を思い出して我に返った。はっと店主の視線の先を見遣ると、日記から飛び出した光は靄のようにゆらゆらと揺蕩っていた。それは次第に縦に伸び、形を作っていく。
果たして目の前で起こっている現象は現実なのか。混乱のあまり目の前が揺らぎ、膝から崩れ落ちそうになる。その寸前のところで隼馬に支えられた。
店主は一瞬だけ安心したように息をつき、
「あなたのお名前は?」
靄に向かって穏やかに問いかけた。答えを渋る様にそれは揺れていたが、
『……久保、利美』
聞こえてきたのは、か細く、それでいて芯のある声だった。
「えっ、今のってあれが喋って、」
「静かにしてろ」
早口で制され、大人しく口を閉ざす。
靄はいつの間にか人の姿になっていた。人影は彩芽に背を向けているものの、三つ編みに結われた髪は長く、身長はそれほど高くない。少し大きめのティーシャツと七分丈のジーンズは、多少幼めの印象を与える。
――あれって、人間?
彩芽はじっと人影の背を見つめた。全体的に色素が薄く、時折ゆらりと姿が掻き消え、また元に戻る。その繰り返しだ。どう考えても生身の人間ではない。なぜならば。
人影から、向こう側にいる店主が透けて見えていた。
恐らくその人影こそ、「日記に宿っている不可思議な存在」なのだろう。
彩芽は隼馬に腕を引かれながら歩き、店主の隣に並んだ。久保と名乗った人影ははっと彩芽を見たが、すぐに店主に視線を移してしまう。
『あなたは、誰なの?』
「ぼくはこの泡草日記店の店主です。そして、あなたをここに呼び出した張本人でもあります」
あの、すみません。彩芽は隼馬の腕をつつき、耳に口を寄せた。
「夢じゃないですよね?」
「なんなら引っ叩いてやってもいいぞ」
「客にやることじゃないと思いますけど」
「分かってるよ。とりあえず今は飛鳥に任せとけ。事情は後で説明してやる」
なんでそんなに上から目線なんですか、と聞こうとした彩芽を、店主の声が遮った。
「久保さん。あなたにいくつかお聞きしたいことがあります。答えていただけますか?」
人影はしばらく悩んだように唸ったが、答える以外に道は無いと判断したのだろう。やがて二、三度うなずいた。
「では、まず一つ目」店主は左手の人差指を立て、日記に目を落とす。「あなたの享年は?」
「享年……えっ」思わず声を上げ、彩芽は誰にともなく問いかけた。「それって死んだ歳ですよね?」
人影は彩芽の言葉を肯定するように目を閉じ、『二十一歳です』と短く答える。彩芽と二歳しか変わらない。ずいぶん若い時に命を落としたらしい。
――ってことは、やっぱりあれは幽霊なんだ。
「二つ目。死因は?」
『……はっきり覚えてません』
「分かりました、ありがとうございます」
まるで患者から症状や、その心当たりを聞き出す医師のようだ。
次の質問を考えるように店主が腕を組んで唸る。その合間に、彼女は自分の肩を強く抱き、しゃがみ込んでしまった。どうしたのかと身を乗り出した彩芽を隼馬が制し、店主は「三つ目」と指を三本立てた。
「あなたが抱いていた、または抱いている夢を、聞かせていただけますか」
ぴく、と彼女の耳が微かに反応する。
店主は何を聞き出そうとしているのだろう。彩芽はさりげなく彼の顔を見上げ、様子を窺った。聞きたいことは山ほどあるし、状況に完全についていけているわけでもない。
それでも、なぜだろう。この人に任せておけば大丈夫だと直感が告げている。
人影は言葉を選ぶように何度か口を開閉させていたが、やがて、
『私が書いたもので、色んな人を喜ばせたかったんです』
今にも泣きそうな声で応えた。
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