第5話
『私が書いたもので、色んな人を喜ばせたかったんです』今にも泣きそうになりながらも、人影は声を震わせながら続ける。『私、二十年前までM大学の文学部に在籍してたんです』
「え?」黙っていなければと思うより先に、彩芽は呟いていた。「あたしと同じ大学じゃん。学部は違うけど」
その言葉に、人影は初めて彩芽を直視した。その瞳に、溢れんばかりの涙を溜めて。
『……当時は作家を目指していました。高校生のころから出版社の新人賞に原稿を送っていたんです。賞をとることはできませんでしたけど、大学一年のとき最終候補の三人に入って、雑誌に名前が載りました。それから、みんなが私の原稿を見たいって言ってくれるようになったんです』
ぼろぼろと涙が零れていく。しかし、それは床に落ちる寸前で塵のようにかき消えた。
『みんなが注目してくれて、私もそれに応えなきゃって、毎日原稿用紙に向き合って……』
「決意を新たにしたその時に、命を落としたんですか?」
悲痛な表情を浮かべた店主の問いに、久保は悔しげに頷く。
『ちょうどそのころ原稿が書けなくなって、何かいいネタは無いかなって、講義が終わった後に大学の敷地内を歩いていたんです。その、日記を片手に』
人影は夜空柄の日記を指さした。
『私にとって日記は、その日に思いついたことを記録するものだったんです。あの時も、いいアイデアを思いついて、忘れないようにって歩きながら書き記していて……そんなことをしていたから、階段に気が付かなかったんです』
足を踏み外し、十四段ある階段を転げ落ちたのだそうだ。驚いて起き上がって辺りを見回してみると、一部始終を目撃した生徒が悲鳴を上げたこともあり、大勢の人々が集まってきていた。自分は大丈夫だと言おうとした時に、ふと気が付いた。
なんだろう、体が少しふわふわする。
首を傾げて、何気なく足元を見下ろしてみた。
『目を見開いたままびくともしない自分がいたんです!』
「打ち所が悪くて死んじゃった、ってこと……?」
そんなあまりにも突然な死、受け入れられるわけがない。
「階段から落ちた時、受け身を取れずにコンクリートで頭を強く打ったんでしょうね」
『多分、その通りなんだと思います』彼女は涙を拭い、力なく首を振った。『分からないんです。どうしてもその瞬間のことだけが曖昧で』
「辛い出来事を思い出させてしまい申し訳ありません。質問は以上ですから」
さて、と店主は軽快に指を鳴らし、彩芽に目を遣った。
「当店は日記に関する相談を多く承っているのですが、主なものは日記が関連している不可思議な現象の解明です。今日あなたを呼び出したのは、そちらのお客様のそういった現象に悩まされているという相談を解消するためなんです」
店主は慈しむような微笑みを浮かべ、日記を優しく撫でた。
「世間にはあなたのように志半ばで命を落とすなど、諸々の理由で現世に悔いが残る方がおられます。そして時折、そういった方の中に日記を残している方がおられるんですよ。日記は普通、ブログと違って他人には見せませんからね。多くの場合はその時抱いていた感情などが色濃く反映され、簡単に言えばそのまま染みつくんです」
「えっ、感情が?」
そんな事あり得るのだろうか。彩芽が疑問の眼差しを向けると、
「普通の日記ではそうそう起こりませんよ。ですが、『その人にとって特別な日記』である場合、特に起こりうるんです」
店主は日記の裏表紙を彩芽に見せ、一点を指さす。そこにはバーコードと、「本製品には和紙を使用しています」の文字があるだけだ。
「長らく日記店をやっておりますし、市販の日記は大抵見てきました。しかし、こんな日記は見たことがありません。久保さん、これはどこで手に入れたものですか?」
『手に入れたというか、私が作ったんです。大学に入学するまでガールスカウトをやっていたんですけど、その活動の一環で和紙のワークショップに参加したことがあって……私が漉いたのはたった一枚だけだったんですけど、他の子が要らないって言った紙を貰って、その形に』
楽しかったなあ、と彼女は顔を綻ばせた。店主は納得したように頷く。
「表紙の材質も和紙でしょう。三重県の伝統工芸品の中に、伊勢和紙というものがあります。伊勢和紙の中には写真印刷を可能としているものがありますし、こちらの表紙はそれを利用したものなのでは」
『店長さんの言う通りです。母の実家近くで撮った写真を和紙にプリントして、それを表紙に』
彼女にとってこの日記はただの日記ではなく、自分の手で作り上げた特別なものだったのだ。確かに、市販のものを使うより一層の思い入れがあるはずだ。
なるほど、と納得しかけ、彩芽ははっと気が付いた。
「えっ、でもおかしいですよ。あたし、売ってたやつを買ったんですよ? 手作りのものだったらバーコードなんてついてないんじゃ……それに、ページも真っ新だったし」
「それはまた後ほどご説明いたします」店主は何かしら見当がついているらしい。そう言われてしまえば、彩芽は黙るしかなかった。「さて、手作りの日記という事も関係し、久保さんの感情はより濃く残されたわけです。その感情は『情熱』と……」
店主は指を二本立て、彼女の目をじっと見つめた。
「お客様の話を聞く限り、現実に特に強い影響を及ぼしていたのは恋愛ごとに関するあたり。ですから、恋愛に関する感情。以上、二つが原因に挙げられます」
言われてみて、初めて気が付いた。
日記は色々な部分が書き換えられていたが、現実になっていたのは友一とのことだけだ。
「さて。ここからが本題です。久保さん、大学在籍時、恋人はおられましたか」
『そんなことを聞いてどうするんですか』
「今のあなたは日記に、正確に言えば『日記に残った感情』に縛り付けられている状態です。つまり成仏していないんですよ。ぼくの役目は、残っていた感情を解きほぐし、あなたを成仏させる事です。このままではあなたに、そして周囲に最悪の事態が起こりかねません」
それがどういう意味か分かったのだろう。久保は静かに『……ええ、一時期いましたよ』と今にも消え入りそうな声で応えた。
そういうことか、と彩芽が人影を見遣ると同時に、店主が「失恋ですか」と納得したようにうなずく。
付き合っていた相手がいたのだろうが、何らかの原因で破局したのだ。彼女は悔しそうに唇を噛み、『仰る通りです』と俯いた。
『高校時代から付きあっていた彼氏がいたんです。私が小説を書こうって思ったのも、日記にアイデアを書くのも、作家を目指していた彼の影響です。でも、彼は大学に入ってあまり書かなくなったんです。そのかわり、私が書いた作品を読んで、いつも的を射たアドバイスをしてくれていました。だから、私は彼のためにもがんばらなきゃ、って思っていたんです』
「それが相手にとっちゃ重かったって事なんじゃねえの?」
「ちょっ……」
隼馬の一言に、彼女の目つきが一気に険悪になる。いくら幽霊相手とはいえ、さすがに直球過ぎる物言いだろう。彩芽が慌ててフォローしようとしたが、
『自分でも死んでから気付いたんです! 彼は本当は小説を書きたかったけど、私が注目されてしまったから、自分に才能がないって思い込んでしまったんだって! 私と別れた後、彼はまた小説を書くようになって、私の代わりに、かわいいけど才能があるとは思えない女の子とくっついて、とても幸せそうでっ……』
ずる、と何かが脚に絡みつく気配がし、彩芽は反射的に悲鳴を上げた。
店内を包み込んでいた光は、次第にどす黒くなっていく。恐る恐る視線を落とすと、無数の手のようなものが彩芽や隼馬に絡みついていた。それらは全て久保の足元から伸び、絶えず増殖を続けていた。
手は足元から這い上がり、胸と腕を覆い尽くす。このまま首を絞められるのではないかという恐怖に泣きそうになった。
「あなたが目指していたのは『作家』ではなく、『彼氏に振り向いてもらえる自分』だったのではないですか」
彩芽の思考を取り戻したのは、いつの間にか隣に立っていた店主の凛とした声と、肩に乗せられた大きく頼りがいのある掌の温かみだった。彼はそのまま彩芽が気を抜いて倒れないように背を支えてくれる。
「彼氏に別れを告げられたのは、きっと自分の作品に至らない点が多かったからと感じたのでしょう。だから、もっといい作品を作りたいという『情熱』が満ち溢れ、『失恋』と重なった」
彼女は怯えたように店主を真っ向から見つめ、頭を抱えてしゃがみ込む。それと同時に久保から伸びていた手が後退していき、跡形もなく霧散した。彩芽が安堵の息をつく間にも、店主の語りは止まらなかった。
「恐らく久保さんの日記は死後、一定期間保管された後に一度は資源ごみなりなんなりの形で家の外に出されたはずです。その際、何者かの手によってゴミ捨て場から持ち出されたのだと思われます」
「あーいるもんな、そういうやつ。空き缶とか持ってって売り払う感じの」
絡みついていた手の感触を払うように、隼馬が腕や足を何度もさすりながら同意した。彩芽には心当たりがないが、隼馬や店主が言うからには存在するのだろう。とにかく、久保が愛用していた日記はゴミとして回収されず、何者かの手に渡ったのだ。
表紙の美しさに惹かれた彩芽同様、持ち去った者もそう感じたのだろうか。
「持ち去った何者かは、日記を書き始めたことでしょう。どんな内容だったかは定かではありませんが、あなたはそれを利用しようと思ったのではありませんか?」
店主の言葉は止まらない。
「書いたことが勝手に変わる日記など、気味悪がられるのは承知の上でしたでしょう。それでも、そうせざるを得なかった。気味悪がられば日記は転々とし、持ち主を変える。予想ですが、あなたの想い人は現在も三重県に、特に桑名、四日市のあたりに住んでおられるのでしょう。あなたは、賭けたのではありませんか?」
かつての恋人に、自分が書いた「物語」をもう一度読んでもらえる可能性に。自分はまだここにいると気付いてもらえることに。
「あなたにはあなたの文を書く際の癖があったでしょうから、もし日記が巡り巡って彼のもとに辿り着き、中を見た時に気付いてくれるかも知れませんからね」
ゆらりと立ち上がった久保の瞳に、怒りの色は無かった。
『……確かに、そう思わなかったと言えば嘘になります。今でも、あの人にもう一度読んでほしいと思ってます。でも、初めから利用しようなんて思ってたわけじゃない』久保は胸元をぎゅっと握り、悲しげに微笑んだ。『日記を持って帰った人には恋しい方がいたみたいで。暗くて、胸が締め付けられるような、そんな内容を書かれたんです』
書き手の想い人はとあるスーパーで働いていた。なんとしてもお近づきになりたい一心で何度もそこに足を運び、何気ない会話でもしようとした。しかし気弱な性格だったらしく、これといった進展もないまま月日だけが流れていく。
今日こそは、明日こそは。それを繰り返し、ついには「明日ダメならもう諦める」と書いた。その部分を、久保は「ちゃんと話せるようになった」と書き換えた。
『でも、私、書き換えたことが現実になるなんて思ってもみなくて』
「染みついていた感情の強さと、周囲に及ぼす影響は比例します。自覚があるにせよ、ないにせよ」
結果、書き手は想い人と親しくなった。あまりの嬉しさに日記の事を知り合いたちに自慢したが、「気味が悪い」と言われたそうだ。しかし当の本人は、そんなことは無い、願いがかなう素晴らしい日記じゃないか。そう感じたらしい。
『その時、ああ、嬉しいって純粋に感じたんです。彼への執着なんて忘れて、ただ書き換えた内容で喜んでもらえる事が、本当に嬉しかった』
しばらくはその人物の手に収まっていたが、状況は一変する。
『その人はある日、ついにその人とデートの約束をしたって書いたんです。それで、私はその人と恋仲になって、ゆくゆくは結婚する風に変えました。でも……相手の方、既婚者だったんです』
すでに家庭を持っていた相手はもちろん、書き手も激しく非難されたという。いくら願いを叶えてくれる日記とはいえ、怖くなってきた書き手は、知人に日記を譲り渡した。捨てれば呪われると思ったらしい。
その後、久保の日記は何人もの手に渡り、彩芽の手に辿り着いた。
「恐らくお客様の前にこれを手にしていた方は、市販の日記に紛れ込ませるために書店に置いたのでしょう」
店主は彩芽に日記を渡し、裏表紙のバーコードを指先で叩き、「爪で削ってみてください」と指示した。どういうことかと思いながらも言われた通りにしてみると、それはぺらりと剥がれ落ちた。十分に糊付けされていたらしく、裏表紙には跡が残ってしまっている。
あまりの驚きに、彩芽は開いた口がふさがらなかった。
「持ち主が知人に譲ることによって、この日記の所有者は変わっていった。でも、限られた人間関係の中で人から人へと譲渡されているだけでは、いつまでも久保さんの恋人のところへはたどりつけない。そこで前の持ち主は、市販の日記からバーコードを切り抜き、この日記に貼りつけて、こっそりと店の日記コーナーに置いた」
「それもこいつの仕業だってのか」
隼馬の問いに、店主は黙ってうなずいた。
「ページが真新しく新品のように見えたのは、文章を修正する力を応用したのですね」
『はい……』
「あたしの日記を書き換えたりしたのも、元カレさんに読んでもらうためだったの?」
『理由はそれだけじゃありません』久保は照れたように、けれど申し訳なさそうに肩をすくめて俯いた。『初めて日記を書き換えたとき、持ち主はとても喜んでくれました。あの喜びをもう一度味わいたかったんです。結局、あなたを喜ばせることはできませんでしたが』
「じゃあ手放そうとした時に気分が悪くなったりしたのは」
『私の最終目標は、あなたがさっき言った通りのことですから』
だが、捨てられてしまったら。目標は果たされる事なく潰えてしまう。
『せめて捨てるのではなく、誰かの手に渡るようにしてほしかった。だから引き留めるつもりで……』
目にすることは出来なかったが、あの時、彩芽には先ほどの手が纏わりついていたのだろう。
彩芽は一歩踏み出し、久保の肩に手を置こうとした。しかし実体がないからか、するりとすり抜けてしまう。思わず手を引いてしまったが、改めて彼女の肩のあたりで手を制止させた。
「……えっと、さ。確かに書き換わった時は驚いたし、気味悪いなとも思ったし、吐きそうにもなったし体調も悪くなったけど」
「すっげー正直に言いやがるな、お前」
「でも!」呆れた様子の隼馬の言葉を聞き流し、彩芽は声を張り上げた。「あなたの話を聞いて、あたしとちょっと似てるなって思って!」
『えっ?』
えっと、つまりね。彩芽は頭をかき、目を伏せながら続けた。
「元カレさん、すぐに新しい彼女を作ったんでしょ? それを『自分の代わりに』って言ってたあたりが、そう感じるよねー分かるっていうか」
脳裏にこびりついた記憶が、徐々に彩芽を痛めつけていく。それに耐えうるだけの気力を、今は持ち合わせていない。だから、詳しく話すことはしなかった。
「……とりあえず、好きな人への執着心とか、分かる部分はある。だからといって今回の事を全部許せるかって言ったらそうじゃないけど! けど、怒ってはいない。というか、怒れなくなった、かな」
彩芽は久保の手を包み込むようにしながら、「踏み出そうよ」と微笑みかけた。
「もう一度、どういう形であれ自分の方を振り向いてほしかったんだよね。だけど、『きっと次はいい縁に巡り合う』って思って、踏み出すのも大事だと思う。あたしはそうした」
『いい縁に……』
「お客様の仰る通りですよ」成り行きを見守っていた店主が彩芽の隣に並ぶ。「辛い言葉ではありますが、あなたはもう亡くなられているんです。ですから、『久保利美』として新たな縁を結ぶことは難しいでしょう。でも、文字通り生まれ変われば話は別です。転生という言葉をご存知ですか?」
『話を書くときに色々調べたりしたので、それなりに。あっ』
店主の言いたいことが分かったのか、久保は納得したように目を瞬いた。『そういうことですね』
「ええ。『久保利美』としてではなく、別の新たな人生を歩み始めれば、縁が結ばれていきます。しかし、こうしてこの場にいたままではそれすら叶いません」
生まれ変わるか、現状に身を委ねるか。選びましょう。店主に、彩芽に、そして隼馬に順番に目を向け、久保は一瞬だけ俯き、ぱっと顔を上げた。その表情に暗さは一片もない。
『彼に執着するのはやめます。たとえ彼に巡りあえたとしても、私も彼も、幸せになれるとは思えませんから』
「いいお顔をしておられますね」
店主が日記に右手をかざす。それと共に、日記と久保が眩い銀色の光に包まれた。どこか幻想的な光景に、彩芽の口から感嘆の吐息が漏れる。
「あなたを縛り付けていた感情を解し終えました。そろそろお時間です」
店主の言葉に、久保は微笑みで応えた。
その姿が徐々に薄まり、消えかけた時だった。
「久保さん!」彩芽は彼女の手を引き寄せて包み込むようにし、ニッと笑いかける。「きっと来世でも、面白い話書いてね。あたし、絶対読むから」
その言葉に、久保の目が大きく見開かれた。隼馬は驚いたように彩芽と久保を交互に見やり、店主は温かな笑みを湛えて二人を見守っていた。
ぱちん、と泡がはじけるような音と共に、久保の姿が幻のように消えた。
その直前に口にした『ありがとう』を、彩芽は強く心に刻んだ。
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