第7話
「いやあ、どうもすみません」
「馴染みの菓子屋に行ったら、そこのお兄さんに会いましてね。日記店という話を伺いましたので、お邪魔させていただきました。お菓子は突然来てしまったお詫びに」
「そんな、とんでもない」
椎名と泡草のやり取りを給湯室から窺いつつ、彩芽は急須に湯を注いだ。
本棚と本棚の合間に垂れるのれんの奥には、小ぢんまりとした給湯室と、二階に続く階段、物置と裏口が設けられている。二階は泡草の居住スペースになっているらしいが、彩芽が足を踏み入れたことは無い。今のところそんな用事もないが。
そろそろお茶を出そうか、というところで、いつもの書生スタイルに着替えた隼馬が二階から降りてきた。髪が多少湿り気を帯びている。着替えるついでに手早くシャワーを浴びてきたようだ。
泡草と違い、彼の着物の色と柄は大抵いつも同じだ。もしかすると同じものを何着も持っているのかもしれない。
「話は進んでるか?」
「まだ本題には入ってないですよ。今はここがどういう場所かっていう説明をしてます」
彩芽と同じようにこっそりと二人の様子を眺め、隼馬は興味深そうに椎名を眺めた。
彼を見上げ、ふと気が付いた。よく見ると左耳に紫色の小さなピアスが付けられている。
――そういえば、佳苗に聞いたな。ピアスを開ける位置に意味がある、とかなんとか……。
「つーかお前、茶は」
「あっ、今から出します!」
余計なことを考えている場合ではない。彩芽は盆に湯呑を一つ乗せ、隼馬と共にのれんをくぐる。椎名の前に湯呑を置いて泡草の後ろに下がると、「さて」と話が進められた。
「店の概要も説明しましたし、お客様がここに来られた理由をお伺いしても?」
「ああ、はい。実はですね」
椎名はくたびれたズボンのポケットから財布を取り出し、そこから免許証と思しきものを引き抜いた。
「先月の上旬に、三十年間共に歩んできた妻が事故で亡くなりまして。菓子屋に行ったのも、妻の仏前に供える饅頭を買おうと思ったからなんですが」
よく見ると免許証は椎名のものではない。名前は「椎名
彩芽と隼馬が免許証をじっくり観察していると、「現れるんです」と椎名が俯き気味に呟いた。
「現れる、とは?」
「妻が……毎晩、私の枕元に現れるんですよ」
初めて現れたのは初七日の夜でした、と椎名は思いつめたような目つきで妻の写真を見遣る。
「深夜二時過ぎごろでしたかね、トイレに行きたくなって目を覚ましたんです。しかし不思議と体が動かなくて」
「金縛りですか」
「ああ、それです。その時に、ふと頭の上から気配を感じまして……こちらを覗き込む妻の顔があったんですわ」
物憂げな顔で椎名を見つめ、何かを訴えようとしているのかぼそぼそと口が動いている。しかし何も聞こえず、妻に会いたいあまりに夢を見ているのかと思い始めた時だった。
「日記を探してほしい、と言っとるようでした」
羽音が耳元をかすめる様な、あまりにも小さな声だったという。
「それから毎晩、妻は枕元に現れては『日記を探してほしい』と訴えてくるんです。確かに妻は日記を書くのが習慣でしたし、何冊か心当たりはあったんで、棺桶に入れたもの以外は全て仏前に供えました。しかし、妻はまだ、夢枕に立つんですわ」
「なるほど。それでは、日記を探し出し、そう訴えていた理由も解明する、というご依頼で、」
「あの、いいですか?」思わず泡草の言葉を遮り、彩芽は身を乗り出した。「椎名さんは、奥さんに日記の見た目を聞いたりとかしてないんですか?」
後ろに控えていた彩芽に問いかけられるとは思わなかったのだろう。椎名は一瞬驚いたように目を丸くしたが、ぎこちなく「尋ねようとはしたんです」とうなずいた。
隣に立つ隼馬にあからさまなため息をつかれ、泡草にばれない様に思い切り足を踏みつけてやった。さすがに客の前で大声を上げることは出来ないと判断したからか、隼馬は唇を噛んで必死に堪える。報復が怖いが、彩芽は素知らぬ表情を保った。
「しかしですね、いつもいつも、声が出せないんですわ。何と言いますか、空気が漏れるだけのような」
椎名は何度も問いかけようとしたが、喉が潰れたかのように声を発せなかったらしい。
どうしたものかと悩んでいるうちに、やがて妻は霧のように消えたという。
「この世での存在が希薄になりつつあるんでしょう。奥様の四十九日はいつです?」
「ちょうど一週間後です。二十八日の金曜日で」
「二十八日……では、それまでに見つけたほうが良さそうです」
穏やかに微笑み、泡草は「お引き受けします」と椎名に右手を差し出した。
断られると思っていたのか、椎名の表情が徐々にくしゃっと歪んでいく。かと思うと、泡草の手を両手で握って上下に振った。
「本当ですか! いやあ、あまりにも曖昧な話なもんですから帰れって言われるかと」
「しかし、情報が少なすぎます。奥様は他に、何か言っておられませんでしたか?」
椎名の握力がよほど強かったのか、泡草はやんわりと手を引きながら問いかける。落ち着きを取り戻すように何度か咳払いをした彼は、自信が無さそうに俯いた。ここ数日の記憶を探っているのだろうが、心当たりはないらしい。
とんとん、と彩芽の肩が叩かれる。何か用かと隼馬を窺うと、耳元に口を寄せられた。
「お前、車の免許は?」
「はい? 五月に取ったばっかりですけど」
いきなりなにを聞いてくるのか。この話に関係があるのかと彩芽が口を開くと同時に、椎名が手を鳴らした。
「ああ! そういえば見た目のこと、一度だけ言っていたような気がします!」
ルームミラーの下でゆらゆらと揺れる小さなのぬいぐるみが目障りで仕方がない。彩芽は花柄のファンシーなカバーで覆われたハンドルを力強く握り、助手席に座る隼馬を横目で睨みつけた。
「これ取っちゃダメなんですか! 邪魔なんですけど」
「勝手に取ると怒られんだよ」
「誰にですか!」
「お前には関係ねーだろ」
面倒くさそうに右耳を指でふさぎ、あからさまに視線を逸らされる。
それより、見失うぞ。小言と共に前方を指さされ、怒っている場合ではなかったと気を取り直した。
五分前、泡草の提案により、椎名の自宅で日記を探すことになった。自宅は市内にあるらしいが、店からは少しばかり距離がある。そこで、彩芽と隼馬がお邪魔することになったのだ。
いや、しかし。彩芽は店を出てからも疑問だったことを口にした。
「行くなら泡草さんが行った方が絶対いいじゃないですか。日記の気配を感じ取れるんだし。なんであたしと隼馬さんなんですか」
泡草本人に聞こうと思ったが、店を出る時に無理やり車の運転席に乗せられてそれどころではなかった。初めは運転を拒否したのだが、隼馬は「さっきお前に踏まれた足が痛い」と憎らしい笑みを湛えながら助手席に陣取り、シートベルトを着用してしまった。結果、彩芽は渋々ハンドルを握ることとなった。
全体的に丸っこく、可愛らしいフォルムをした黒い軽自動車なのだが、所有しているのは隼馬らしい。ぬいぐるみやファンシーなハンドルカバーと言い、彼のイメージには合わない。
これでもし事故を起こしても保険は下りないだろうに、とぶつぶつ呟いている隣で、「あいつは店から出ねーんだよ」と隼馬は前方を走る椎名のワゴン車を見つめたまま、いつになく真剣な口調で続けた。
「正確には、店の半径二十五メートルくらいか。近くのコンビニがギリギリ外出範囲。そこから先は出歩かない。絶対に」
「何でですか? 出不精? あっ、ひどい方向音痴だからとか」
「んなわけあるか」
面倒くさそうにあくびをしたきり、隼馬は何も答えてはくれなかった。それ以降は特に会話もなく、国道四二一号線を東へ車を走らせることおよそ五分、ローカル線沿線の住宅密集地の一角に椎名の自宅はあった。
少しばかり黒ずんだ白い外壁に、真っ平らな屋根。南に面した二階のベランダでは洗濯物がたなびいていた。夫婦二人で暮らしていたためか、全体的に小ぢんまりとしている。彩芽と隼馬は椎名に案内され、扉をくぐる。
玄関先の靴箱の上には、若い頃の椎名と妻の写真が飾られていた。仲の良い夫婦だったんだなと彩芽が写真を眺めている間に、隼馬は「仏間はどこです」と問いかけていた。
「ああ、こちらですよ」
椎名は手で示しながら、廊下を進んでいく。案内されたのは、線香のかおりが満ちた六畳ほどの和室だった。真新しい小さな仏壇の隣には床の間があり、「南無阿弥陀仏」と書かれた掛け軸の手前に、白木の祭壇が築かれていた。祭壇のそばには客が供えていったであろう「御仏前」と書かれた箱がいくつか置かれている。
「妻は中学校の教諭を務めておりましてね。訃報を聞いた生徒さんや卒業生の方が供えていかれるんですよ」
「奥さん、いい先生だったんですね」
ありがたいことです、と椎名は目尻に浮かんだ涙を指で拭った。
彩芽と隼馬は交互に写真の前で正座をし、焼香をあげさせてもらった。黒い額縁の中で微笑んでいる妻は、玄関先で見た若い頃と同じ笑い方をしていた。
「さて、それじゃあ早速ですけど、奥さんの日記を探そうと思います。あるとすればどこが思い当りますか」
隼馬の問いに、椎名は天井を見上げて指した。
「生前よく使っていたのは、この部屋の隣にある和室ですね。夫婦の寝室なんですわ。それ以外だと妻の私室……とは言ってもほとんど妻専用の物置みたいなもんですが、そこですかね。階段を上がって手前から二つ目の部屋です。ああ、ちょうど寝室の真上かな」
「どうも。そんじゃ俺らは家ん中探してみます。一応聞いておきますけど、入られると困る部屋は?」
「特にありません。私はここで妻と待っておりますから、何かあれば呼んでください」
「分かりました」
仏間を後にし、彩芽と隼馬は玄関先にあった半螺旋階段の前で割り振りを決めた。
「二手に分かれて探すぞ。手がかりは『鳥の模様がある。薄い』。それだけだ」
隼馬の言葉に力強くうなずく。
椎名がなんとか思い出したのは「鳥の模様、薄い」の二つだけだった。あまりにも手がかりが少なすぎて初めは眉を顰めたが、泡草に「ぼくの代わりに行ってくれないか」と頼まれたからには断るわけにはいかない。
『話を聞いた限りで判断すると、奥様が日記に残した感情はじきに消えてしまう可能性が高い。忌明けの四十九日がタイムリミットとして、残されているのは一週間』
泡草から聞かされた話を脳内で繰り返す。
どうして四十九日なのかと聞いたところ、「死者があの世へ旅立つ日だからだよ」と教えてくれた。今のところ幼い頃に曽祖父の葬儀に出たきりの彩芽にはピンと来なかったが、そういうものなのだろう。
「俺は下を探すから、お前は二階な。見つけたらすぐに知らせること」
さすが従業員だけあってテキパキとしている。彩芽は階段を上り、部屋が三つあるうちの、言われた通り手前から二つ目の部屋に近づいた。
部屋の入り口である襖は開け放たれていたため、そっと中を窺う。広さは彩芽の部屋とほぼ同じくらいだろうか。故人の部屋だし、と顔の前で手を合わせ、「お邪魔します」と小さく声をかけてから室内に足を踏み入れた。
ほのかにイグサが香る居心地の良さそうな部屋だが、使う者がいなくなり、東向きの窓はしっかりと閉め切られて遮光カーテンがかかっていた。換気がてら窓とカーテンを開け放つと、窓の外には曇天が広がっている。そういえば、天気予報では夕方から雨だと言っていた。
「こっちの机とか、そのままにしてあるんだなー」
彩芽は窓の隣にある机に近寄った。日記を書いていたとしたら、ここを使っていたのだろうか。年季を感じるそれの真向いには、床が抜けてしまうのではと思ってしまうほど文庫や雑誌が詰まった本棚が鎮座している。
妻が夢に現れてから、椎名は一人で、時には息子と共に家中を探し回ったという。この机も例外ではないだろう。それでも見つからなかったというのだから、紛失したというよりは。
『どこかに隠してあるか、隠れてしまっている可能性が非常に高いと思うな』
店を出る直前、泡草がそう言っていた。自分は行けないから、と考えつく限りのことを教えてくれたのだ。
『多分、求めている日記を書いていたのは嫁いでくる前なんじゃないかな。とすれば、意図せず嫁入り道具に紛れ込んでいる可能性もある。例えば、本の隙間とか、押入れとか、洋服箪笥の奥とかは定番だね。とにかく、目につかない場所を重点的に探した方がいいと思う』
本棚に近づき、一段分引き抜いた。それを畳の上に置き、一冊ずつ中を改めていく。よく漫画や小説で、本の中身をくりぬいてものを隠していたり、表紙を付け替えて偽造したりというのを目にする。もしかすると、そんな風に隠しているのかもしれないと思ったのだ。
が、そう簡単に見つかるはずもなく、
「本棚の分は全部見ちゃったな……」
彩芽は一番下の棚に本を戻しながらため息をついた。我ながらいい線をいっていたと思うのに、少し自信がなくなってしまう。
腕時計に目を落とすと、時刻は現在昼の十四時。本棚を探すのにざっと一時間を費やしていたようだ。すでに若干疲れているのだが、弱音は吐いていられない。
「あっついな……」
首筋を汗が流れ落ちる。窓から涼しい風が入ってはくるものの、このまま扇風機やエアコンもなしに日記探しを続けるのはかなり厳しい。しかし、そのどちらも部屋にはない。せめて扇風機だけでも借りようかと腰を上げようとした時、階段を上ってくる音が聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます