第5話 池ぽちゃ
「お主、農奴だったのかの?」ネイサンの空道場本部を後にしたチョンガルとセインは、また薮の道なき道を歩いていた。
「そうです」
「"セイン"とは古代数字の"7"の事じゃ」
「それは聞いた事があります。同僚が、俺たちは番号で呼ばれてるって。まあ僕らほとんどは気にもしていませんでしたが」
「古い風習じゃ。昔からの名残じゃから古い数字で人を呼ぶんじゃ。どうじゃ?自由の身になったし、改名してみるのは。それか師父に空道家としての名前を授けて貰うというのは?」
しばらくセインは考えた。
「いえ。このままの名前でいいです」
「ほう。なぜ?」
「ただでさえ生まれも分からないのに、これ以上ルーツがなくなるのも寂しい気がして」
「そうか。わしも奴隷じゃったが、師父に出会って名前を貰った。チョンガルというな」
センスな。
「マチョパにクヌンケ、ロミロミもみんな師父が新しい名前を授けたのだ」
やっぱり。
「セインがしっくりきます」セインはキッパリ言った。
「そうか。よし着いたぞ」
チョンガルとセインの目の前には崖があり、その下に小さな池があった。高さはというと、三階の建物くらい。
「これは皆が通る適性試験にして、一番基礎の訓練じゃ。この池には人を噛む魚ピロニカが住んでおる。ちなみに肉食だ。ここからジャンプして池に着水しなくなるまで繰り返す」
「え?飛び込むのに着水しない?」
「そうじゃ。どうすべきか、それは風や空気を味方につける事じゃ。それが出来て適性ありとする。よいな?」
セインには理解できなかった。
「ほれ」
「うああああ」チョンガルの手に掴まれて、セインは池に放り込まれた。
セインは頭から真っ逆様に落ち、水面に激突した。意外と深い池の中を枯れた水草に絡まりもがいていると、腕に鋭い痛みを感じた。
はっきりとは見えないが、手のひらほどの悠々と泳ぐ何かが数匹、セインを取り囲んでいるみたいだ。
セインは急いで水面にかきあがり、陸に上がれる縁を探す。池に足を付けた木にしがみつき、何とか陸によじ登った。
腕と足に痛みを感じた。見てみると噛み跡。細い血が伝わり、深くて鋭利で人の顎くらいの幅があった。
「おうい。上がってこーい」セインが崖の上を見上げると、チョンガルと目が合った。
セインは空腹を忘れてクタクタになりながら崖を回り込んで上がる。全身びしょ濡れだ。
「どうじゃ。何か掴めたかの?」
「あのう」セインが言った。「この方法しかないのですか……」
うわああああああああ。
「ないんじゃ。すまんの」
はあ。はあ。はあ。
「そうじゃ、ヒントをやろう。昔わしが気づいたヒントじゃ。知っての通り師父は鳥人。彼がなぜ弟子にこれをさせるか。分かるか?」
「……分かりません」
「鳥人は空を飛べる。しかしわしらは空を飛べない。つまり空を飛ぶという原理を知ってもらいたいのじゃ。カラはその原理を応用しているのじゃよ」
空を飛ぶ?人間には無理じゃ……うああああ!
「鳥はの。空気抵抗を利用して空を飛ぶ。不思議とは思わんか」
「不思議も何も体が軽いし、羽根が……ひっ」うわあああああ。
「羽根で空気を受ける。それが人じゃとどうする?」
ぜえぜえ。はあ、はあ。「手足……」
「原理はそうじゃ。あとは感覚を掴め」
うわあ!ん?
「おっ」チョンガルが崖から身を乗り出した。セインが身体をくの字に折り曲げて、手を広げて落ちて行く。「いいぞ。気づいたか!」
分からないが、セインは少し落下速度が遅いように感じた。曲げたお腹に何かを感じる。ふわふわした言葉で言い表せないもの。
セインは池に着水した。そして水中でお腹と両腕に溜め込んだ空気を、頭上目がけて、まるで岩を投げるが如く放り上げる。
池の水面にけたたましい音を立てて水飛沫が巻き起こり、激しく水柱が立った。それに巻き上げられたおびただしいピロニカが空中に巻き上がる。やがて、ぼたぼたと驚いた肉食魚達は水の中に帰って行った。
ピロニカはもうセインに近づかない。恐れているのか、噛みつきには行かなかった。彼は悠々と池を泳ぎ、陸に上がった。
その様をチョンガルは呆気に取られて見ていた。
驚いたわい。空中停止より先に竜巻を巻き起こすとは。しかも水中で。あやつ……。
セインはやっとのことでチョンガルの元に辿り着くと、ばたりと倒れ込んでしまった。
「先生、やはり腹が減りました。次は成功させますので、何か食べさせて下さい」
「せ、先生?ぷっかっかっかっ」チョンガルは笑いを堪えきれない。「いいじゃろう。しかし、池はもうやめじゃ。次の修行に行くぞ。まだ先は長い」
「終わり?そうですか。次は出来そうだったのに」
わしは1週間かかったわい、とチョンガルは少し才能をうらめしがった。
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