第15話『鬼退治(下)』

 杉の細枝のそこかしこが枯れ落ち、茶に死んだ葉がはらはらと落ち舞っていく。草はしなび、砂混じりの土は潮騒とともに彼岸の海へと流れゆく。


 生死の狭間で向かい合った鬼と人が、喘月を手に滑り進む。

 死生の舞台にて活殺を期す鬼と人が、喘月を静かに立てる。


 青き鬼入道は両手を尋げる。右手には黒き喘月。覆い被さるが如き身のひと丈、彼我の間合いすでに体躯に勝る鬼が有利と看る。誰しもが、人の宗章が肉体は次の一瞬で首を刎ねられるか、丸太が如き爪腕のひと振りでひしゃげ潰れ飛ぶか、そのどちらかだと予感する情景であった。


 対する宗章は、緩く体をまとめた、垂直剣の拝み撃ちのまま、叩きつけられる鬼の魔気を己が喘月の呪いとともに、ゆっくりと心胆に落とし込んでいる。


 青鬼の巨体はさらに大きく映るようになり、転じ、武士の体は萎縮したかのように小さく緩んでいく――錯覚。


 この武士のどこを打っても勝てそうであった。どこを狙おうとも当たると思えた。下がる前に打てるうえに、受け止められる威力ではない。鬼の体躯と気迫、黒き喘月の妖気は人外の圧力に満ち満ちている。

 蛇に睨まれたカエルどころではない。

 鬼が鬼に呑まれるほどである。いわんや、人をや。


 されど、それがどのような結果をもたらすか。人外の威力が人間をどのように磨りつぶすのか。

 皆知っている。

 しかし、わからない。


 対峙している青鬼自身、変生したれば、もはや敵はおらぬ。

 怨み骨髄の祟り神とまではいかぬが、歳経れば十二分に世を震わせる鬼になろう。

 藤原道真なにするものぞ。

 茨木童子なにするものぞ。


(人の子なぞ、いかようにも……。――)


 思考の逡巡、実にひと呼吸の間。実際に立ち合って、いまだ数分。変生した青鬼が産声を上げてからも、いまだ十と、数秒である。


(反魂香といったか。この香の香りは死者の空気。煙の結界は死者の生きる領域か)


 本能で、それは分かった。

 つまり――。


(香が尽きる前に倒さねば生き返れぬ)


 鬼は悟った。

 この武士。


「……。――」


 相変わらず、垂直剣の拝み撃ちの構え。

 この状況でなお、業炎波濤の最中に匹敵するであろうこの状況で、なお。この男は腰を低くした拝み撃ちの構え、その頤はやや上がり、表情は凪ぎ様。


 この表情、仏か。

 呪いも吸う、魔気も瘴気も吸う、鬼気も吸う。そして、丹田深奥に落とし込み、深い呼気でゆっくりと吐き出している。

 その呼気には、純粋な闘志が混じった、しかし穏やかな気迫が満ちている。

 矛盾のようでいて、実に腑に落ちる。


 仏法の道に片足とはいえ突っ込んだ本間の記憶にある、三十三間堂に立ち並ぶ仏法像の姿。数百体の千手観音像。

 あの無数の腕を持つ姿が、武士の姿に薄らと重なりゆく。


 顔前、顎から頭頂まで垂直に立てられた喘月の刀身越しに窺える半眼。柳生宗章の姿こそが、冥府魔道のまぼろしなのではないかと錯覚する。


 その喘月の切っ先が、刀身で右目を隠すように――僅かに傾く。剣者なら隙と看破するか、はたまた誘いと看るか。

 鬼は観音の幻想に気を取られ、誘いに乗ってしまった。意識せず、撃ち込まされていた。


 びくりとしたように、撥ね打たれた黒き喘月が宗章の隙――左袈裟を狙い空を劈き落とされる。


「えいやあ」


 瞬時遅れ、白刃が閃いた。

 鬼の右前腕が斬り落とされた。左足を後方右に退いた宗章が同時に放った斬撃が小手を斬り裂いたのだ。

 同時に、踏み込む。

 大股に二歩、肉薄した瞬間、喘月のきっさきが青鬼の心臓を貫き脊椎まで達していた。

 即座に、抉るように抜く。


「うぬぅ」


 鬼が呻いたときには、すでに宗章の体は鬼の背後へと。噴き出す血潮に身を汚さぬ位置である。


「介錯いたそう」


 鬼のふくらはぎを左右両断し、倒れ間合いに入った左腕を肩から斬り落とす。右肘と膝のみで体を支えた青鬼が、天も裂けんばかりの絶叫を放つ。


「地獄へと還るがよい。……仕る」

「待て、待――」


 宗章の喘月が閃いた。

 妖刀は鬼の筋骨をものともせぬ斬れ味を示し、どさりとその猪首を両断――切り落とした。


「あああッ」


 みっつの妖魅が声を漏らした。

 鋼鉄もかくやと引き締まった青鬼の肉体を骨ごと切り飛ばした業前は舞の如く最短最小最大の働きであり、黒き喘月ともども微塵と散りゆく青鬼の灰の中立つその姿は仁王もかくやである。


「……このようなものか。――」


 喘月を右手に提げ、左手で死を悼む。

 資朝と、阿新。その無念に。

 歪んでいたとはいえ、喘月に魅入られた本間入道ら一党に。


「旦那。――」


 信じられぬものを見たと呆としていた御嶽が、急激に冥府の気配が引き潮のように去りゆく中、ふと現れた青白き人影を目にして宗章を呼ばわる。


 烏帽子姿の、壮年の男であった。

 その相貌は柔らかく、目礼をする姿には見覚えがあった。

 従三位じゅさんみ、権中納言。


「日野資朝きょう。――」


 武士の言葉に資朝の思念は頷き、雑木の一角、その地を指さしながら声もなくスゥと消え去っていく。

 鬼気が晴れて逝く。

 彼岸の砂浜が、赤黒き黄泉平坂へと飲み込まれて逝く。


 こうも、濃密なけぶりの結界も、消え去って逝く。


 そこは、慰霊碑前。

 真昏き深夜の妙生寺である。


「藤斬丸、御前。――」


 抜き身の喘月を立て刃を返し、棟を向けて差し出す。刀を渡すときの作法である。藤斬丸はそれを受け取り、御前とともに星明かりへと刀身をかざす。


「ああ、ああ。喘月が。――」


 御前の嗚咽とも取れる歓喜があふれ出る。

 見よ、贄を糧に贄と為していた喘月の刃紋に、変化が訪れた。

 物打ちの一画に波濤のように踊り光っていた叢沸の粒子が、直刃に近づくように落ち着いているではないか。


 差し表も、差し裏も、落ち着き厚き品の良い鉄となっている。


「喘月解呪の儀、滞りなく。――」


 藤斬丸も息を呑んだ。

 その刀身の美しさにである。

 やはり自分の生まれには、刀剣が深く関わっているのだろうか。鬼となりし身の上、過去のことは覚えてはいない。時の偶に、ふと感じ入ること、既視感を覚えることはある。だが、生前のこと、死ぬまでのことは覚えてはいない。


「宗章。やはり、喘月の呪いは解くべきだ」しみじみと、藤斬丸。

「何をいまさら」と宗章。


 そこでようやく、宗章は土の上にあぐらを掻き、脂汗をどっと噴き出させる。気力は、摩耗していた。魔気の世の立ち合いは、尋常ならざるダメージを残していたのだ。


「少し安心したぜ旦那。こういうところは人間なんだな」

「喰えば力を得られるかもしれんぞ」

「やめてくれ、妖魅になってからこっち、殺しにきたヤツしか喰ったことねえよ……」

「そうか。――」


 肩を貸される宗章。

 藤から喘月を受け取り、納刀する。

 新陰流の呼吸が、徐々に剣者の肉体を正常へと戻していく。ひと呼吸ごとに覇気を取り戻す宗章に、「やっぱり只者じゃあねえ」と御嶽は唸った。


「もうよい、御嶽兵衛。……さて、御前。――」

「先ほどの日野資朝卿の――」

「掘ってみるか。そうそう深くはあるまい」

「――御嶽」と御前。


 びしりと背を正し、「へぃ」と応える御嶽兵衛。


「土を掘り返すは得意であろう」

「お任せくだせえ」


 少し歩き、御前と兵衛は山林へと分け入って行く。墓場の端から少し入ったところである。なにやら気配を探るふたりが土を掘り返し始めた頃、宗章は杉の幹へと背を預ける。


「たいしたものだな、柳生新陰流」と側に控えた藤斬丸。

「厳しく仕込まれたからな。宗矩は俺よりも強いぞ」


 ふと、笑う。


「あいつは、余計な真似をせず、野暮なこともせず、斬ってしまうだろうさ。愛憎は愛憎として認めながらも、けっして揺れずに事を為すだろう。灼熱の氷だ。――」


 鼻血の痕を拭い、揺れた自分を想い苦笑する。


「俺はどうやら、やはり、子を汚し利用する輩には我慢がならん性質タチらしい。はは、いかん、いかんな」

「柳生の意地」

「ん。――」

「仁義、勇。意地が強いから、怒ってやれたし、悲しんでやれたし、あの悪鬼を前に臆すことなく太刀を振るえたのだろう。誇れ。少なくとも、柳生なら。まあ、少しは見直した。少しだけだがな。ふふ。――」


 鬼に慰められたか。

 宗章は笑う。


「みつけやした」


 御嶽が声を上げる。

 日野資朝の骨が見つかったのである。

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