それは喘月という名の妖刀
西紀貫之
それは喘月という名の妖刀
第一章 月に喘ぐ
第1話『献上されし妖刀』
関ヶ原の合戦より、五年ののち。
西暦、一六〇五年。慶長十年のことである。
その正月、家康は江戸から伏見城へ入り、翌月、秀忠も東国の譜代の大名あわせて十数万人の軍を率い上洛した。
朝廷へ家康は将軍職の辞任と、後任に秀忠の推挙を奏上し、春先に秀忠は第二代将軍に任じられることになる。
秀忠が徳川家当主となると、各大名からの献上品が江戸へと送られる中、名物の鑑賞のため、秀忠は近侍の者のみで江戸城
そんなころあいのことである。
ゆるりとした雰囲気の中、秀忠がなにやら呟いた気がし、太刀持ちの小姓と、鑑定のために招かれた柳生
そのときであった。
あふれ出す殺気に白刃が舞い、「あッ」と呻く小姓の膝が浮くよりも先に、宗矩が動いていた。
二代将軍、徳川秀忠の肉体がぐるりと舞い、板間へと叩きつけられる。
小姓が度肝を抜かれる中、将軍を投げ飛ばした宗矩は脂汗を流しつつひと振りの太刀を後ろ手に跪いている。
「うぬ。――」
しかし、投げを打った宗矩のほうが苦しげに呻きつつ、後ろ手に真剣を捨て置かれた鞘に滑り入れ、鐺を叩くよう逆手に鯉口を閉じ納刀し――大きく息をつき、がっくりと項垂れる。
「宗矩」
仰向けに倒れた秀忠が、むくりと上体を起こしながら、深い黒を思わせる声を滲ませる。
「宗矩、その刀を、ぜんげつを寄越せ。いや、だめだ。宗矩、その太刀は。――」
宗矩が納刀した太刀は、すでにみなの背後に捨て置かれたままだ。その
「いや、寄越せ。その剣を、美を完成させるために、わしがその剣を振るわねばならぬ」
「上さま」
手を伸ばしかける秀忠だが、彼自身、その誘惑に抗っているのが見て取れる。寄越せと手を伸ばしながらも、かの刀剣から遠ざかろうと身は退かせているではないか。しかし、伸ばす手は上体を擡げさせ、ついには腹ばいになって宗矩へと、その背後の刀へと這い寄ろうとする。
「喝ッ」
秀忠の上体が浮いた一瞬、宗矩はその
「そのほう」
大きく息をついた宗矩が、小姓に目を向ける。
声を掛けられたふたりは、ようやく事の次第を理解しぶるりと震える。
「乱心に非ず。――上さまを寝所へお運び致せ」
「しょ、承知仕った」
すぐさま、側仕えが数人やってくる。秀忠は寝所へと抱え運ばれ、残ったひとりが脂汗の小姓と、憔悴した様子の宗矩に尋ねる。
「なにが起きたのです」
その言葉に、小姓は「上さまが、先日献上された太刀を確かめるため、その姿を観て取っていると、急に柳生さまへ斬りかかり。――」と答えると、宗矩へと視線を促す。
「お手討ちならいざ知らず、幽鬼が如し立ち居振る舞いでの斬撃で果てるわけにもいかぬ。無刀捕りにてお叱り付け申したまで」
柳生宗矩、このとき三十三歳。すでに徳川二代将軍秀忠の覚えよく、信用と信頼を一身に受ける大重鎮である。武家の倣いとして、無礼打ち――しかも将軍自らのお手討ちともなれば宗矩も無抵抗で斬られたであろうが、作法も武術もみられぬ太刀ならば、剣術指南役としても斬らせるわけにはいかない。秀忠の恥となるからである。
「これは、試しよ」と宗矩。
「試し。――」
「然り。わたくしは上さまが『大義』と口にするを確と聞き申した」
将軍の言説を曲げぬ小姓の言葉に、側仕えも「ふむ」と腕を組む。
さすれば、不問である。
一目蝋燭の火が、フっと揺れる。
日は暮れ、すでに将軍は中奥にて就寝前の生活に入っている頃合いであった。今宵はここまでか、と宗矩は背後の白鞘を掴み、ふた呼吸ほどじっと何かを確かめ、ひとつ息を吐き、それを手に立ち上がる。
「柳生さま、
「上屋敷へ。こちらの刀は拵えを造り、お持ちいたす。それゆえ。――」
「は。――」
宗矩は側用人へひとつ頷き、「書状を用意するゆえ、京の本阿弥家へ使いを頼む」と申しつけ、そして少し考え、「大悟――沢庵和尚にも使いを頼む」と付け加える。
その言葉に「沢庵和尚でございますか」と聞き返す側用人へ、宗矩は「うむ」と白鞘の刀を一瞥し、「たのむ」と念を押す。
――「ぜんげつをよこせ」。
あの秀忠の言葉が耳に残っている。
ぜんげつ、とは。
その、ぜんげつ、であろうか。
宗矩は訝しんだ。
刀の銘では聞かぬ
五箇所伝のどれにも類する者はあるまい。少なくとも、宗矩は知らぬ。故に、来歴を知るために、刀剣鑑定の第一人者である京都の本阿弥家へ使いを出すのだ。
しかし。あの怖気。
刀を手にしたときの、あの怖気。刀身をまともに見ていたら、宗矩でさえただでは済まなかったであろう。ゆえの脂汗である。
これは、魔剣妖刀の類い。
なればこそ、大悟へと至った僧――とりわけ総てのしがらみを笑い飛ばすような本物の僧である沢庵宗彭という男に縋るほかはない。これは剣士の手には余る妖刀、況んや侍をや。
宗矩は「喘月」と呟き、あのときちらりと見えた姿を想起するだけでも寒気が奔る……その事実に、さて、と思案する。
そして書院にて素早く書を認めると、使いの者に渡し、自身は上屋敷へと向かう。
「将軍、妖刀に魅入られし。捨て置けば天下は即ち再びの戦国。仕掛け主は、いったい。――」
刀剣に添えられていた献上品の品書きを検めたときに見えた名を思い出す。
毛利輝元。
それは戦国最後の爆弾ともいえる大大名の名であった。
*****
西暦一六〇五年、晩夏。
慶長十年も秋の気配を見せてきた頃合いである。
京へ飛んだ宗矩の使いが沢庵を捕まえられたのは、さらに西へ走った大坂は堺の南宋寺であった。
折り悪く、悟道成就の印可である大悟を受け、正式に『沢庵』の号を授けられた
折りよく、またぞろ仏僧世界の格式に囚われそうになっていた沢庵宗彭にとっては、使者の書状を手に「これは
しかしその実、書状を目にフムとひとつ唸ると、その無精髭をぞりと撫で鳴らしながら使者へ「しかと承った。柳生どのにはこの文を。準備があるゆえ、拙僧は京へ寄り、同行者を連れ赴き申す」と眉根を引き締める。
かくして、近年完成した東海道五十三次に江戸を目指す沢庵と、随行するふたつの影。市女笠姿のふたりの、おそらく女であろう。大悟沢庵宗彭このとき三十二歳、男盛りであるが、女人を引き連れた旅路に向けられる衆目は、不思議と集まらない。
そんな彼らが平塚を過ぎ川崎を過ぎ、江戸は品川、日本橋まで入ったとき、すでに夜半に差し掛かっている。
「頃合いか
今宵から明日夕にかけては新月、晦日――である。
さしかかる雲もなく、そのまま堀に沿って北に進むと、沢庵とふたりの従者は高徳寺というこぢんまりとした寺の山門をくぐっていく。
かつて踏み固められていた土からは方々に草が伸びており、うるさいくらい秋の虫が鳴いていたが――三人の足が近づくにつれてぴたりと止んでいく。
「秋庭の虫々は、さすがに気付くか。――」
肩越しに苦笑しつつ振り返ると、市女笠のふたりに頷き返す。市女笠の奥から伺う瞳の色は、月のような黄白色である。闇深まれば空の月と変わらぬ妖しの瞳であろう。
沢庵は合掌し、「不動、智真。喝」と短く呟くと、ざわと草木が波打ち、恐る恐ると虫の声が鳴き響き始める。
「さて、参ろう。宗矩のヤツが首を長くして待っておる」
頷く市女笠を従え進むと、本堂の奥、竹林の向こうに続く道の先に灯りの漏れる庵がある。薪の匂いが漂い、温かい灯り、「さて、ひと息つこうか」と沢庵が促す。
「御免」
ひと声掛けて引き戸を開けると、三和土と沓脱ぎ石。草履がひとつ。
囲炉裏の向こうに、ひとりの影が正座をしている。
その眼光鋭く冷たい氷の様相だが、沢庵の背後に向けられる気迫は灼熱そのもの。柳生宗矩である。刀が、左手に置かれている。
「やめい宗矩」
「されど御坊」
「――やめい」
気迫に曝された市女笠が、ほっとひと息をつく。
宗矩は刀を右側に置き直しながら「まずは御坊ら、お上がりください。して、書状に書かれていたその同行者は。――」と、熱を落とした氷の瞳で見据え「明らかな禍の気配」と息を吐く。
「虫の声が止んで気が付いたか」
沢庵が呵々と笑う。
件の市女笠の女らが、靴を脱ぎ、笠を取り、その流れるような黒髪が露わになると、さしもの宗矩も「ほゥ」と唸る。
双方、瞳の光りは月の如く、美貌は菖蒲、髪は長く公家の奥にも勝る濡れ烏。姉妹のような、ふたりであった。
「
「
「宗矩、このふたりなんと見る」
「鬼ですな」
「慧眼」
ぴたりとふたりの素性を言い当てた宗矩は、もういちど息をつくと腕を組む。組んで、ウウムと唸る。
「宗矩、鬼を見るのは初めてか」
「初めてにござる」
「にしては落ち着いておるな」
沢庵は火に当たりながら、ふたりを促して顔を上げさせる。
「拙者も、あの刀を手にするまでは神妙不可思議なものを信じてはおりませなんだ」
「不信心ものよな。……まあ、分からなくもない。平安の昔ではあるまいし、この科学万能の時代、鬼だ怪だ魑魅魍魎だなどとは思うまい。人心の乱れと戦国の殺戮のほうがよほど陰惨極まりないものであったし喃」
宗矩は刀袋を背後からたぐり寄せると、ずいと囲炉裏向こうの沢庵へ差し出す。無言である。
その宗矩に応えたのは、沢庵の背後に控えていた落葉御前である。彼女は「藤斬丸」と妹分を促すと、宗矩の側に膝を進めたその少女が恭しく手を差し出す。
――気配は人そのもの。しかし、裏返っておる。
静かに判じ、彼女へと刀袋を渡す。
受け取った藤斬丸がしずしずと戻り、落葉御前へと手渡す。
「確かに、『
「ぜんげつ。――」と宗矩。
「安心せい、この妖刀、女人には決して災いを為さぬ」と沢庵。
沢庵が、傍らで刀袋を解き、内より白鞘を取り出す御前を傍目に、ふと伏し目になる。刀身そのものを見ないためである。
「御坊、ぜんげつとは」
「月に喘ぐ、と書く。この妖刀の名よ」
「呉牛喘月の、喘月。――」
「ちと違う。ま、すぐに分かる。宗矩、目を伏せておれ」
刀身を抜くのだと彼にも分かった。
かの将軍、秀忠を狂わせた魔性の刃紋を目にすれば、さしもの大剣士宗矩と大悟沢庵といえども、負けぬとも惑わされる危険がある。
クン――と、はばきが鳴る。
速やかに抜き放たれた刀身を立て、御前は表と裏をじっくりと見、「確かに喘月」と。次ぎに囲炉裏向こうの行灯に鋒を向け、遠目に刀身の映り込みを見、着物の袖から取り出した袱紗を峰に当てて、近くからその刃紋を見る。
恐ろしいほど粒子の輝きが煌めく、沸出来の湾れ広い直刃であった。思わず視界の端に捉えてしまった宗矩は、その真っ直ぐな刃が持つ白さと硬鉄マルテンサイトの輝きに、知れず脂汗がにじみ出る。
魔性への抵抗であろう。
白鞘の柄を外し、茎を露わにする。
ここからはあの秀忠も行ってはいない。
御前は
刀身が隠れているおかげで、冷や汗で済んでいる。いや、言葉にせぬ経文を唱える沢庵の合掌で魔性が抑えられているのかもしれない。宗矩は喘月を受け取り、茎を検める。
「月が袈裟に斬られておりますな」
通常、刀の柄に収める部分を茎といい、そこには作り手の銘が刻まれる。鏨で強く彫り込まれた月のひと文字が、鑿のひと太刀でまるで袈裟斬りにされたように傷つけられている。
「月、どの刀工の作か」
月山ではあるまい。
刀剣に明るい宗矩も聴いたことはない。刀身を検めれば時代と作が分かるが、それは危険である。
「この喘月は、刃紋を見た者を魅了する」
「刃紋を。――」
名以外、そこで藤斬丸は初めて言葉を発した。
「この沸出来は、贄として人の命を与えることで輝きを増す。遣い手に人斬りの衝動を促し、殺刃漢と変容させる」
「鋳つぶせば呪いは解けるか」と宗矩。
「ひとたび呪いに罹った者は、喘月を手にせねば執着を暴走させ、心を魔性へと変える。どちらにしろ、大納言さまがこの世を地獄へと巻き戻すでありましょうよ」
この藤斬丸という少女は、鬼ゆえか、あまり歯に衣着せぬ質らしい。
宗矩が刀を返すと、彼女は白鞘を戻し、刀袋の上に置く。
「大納言さまの呪いを解くのではない。宗矩、この妖刀『喘月』の呪いこそを消滅させ、無垢の刀身を献上するほかはない。この者たちは、そのために随伴させたのだ」
「御坊、喘月の成り立ちをご存じであったか」
それには応えず、沢庵はおんなふたりに向き直る。
「それ――人を生むは気の化なり。この気、人を離れ独脱して人を生じることはない。気は人に依らねば肉体を生ぜざるもの。山河の気は山河の中で静動し、草木の気は草木によって動く。水土は水土で」
沢庵の宇宙観である。
「だがしかし、人の気が、人を生む気の化ではなくなることがある。すなわち化生であり、鬼である。刀剣の気が、刀剣を生む気の化で収まらなくなること即ち化生、妖刀を生じるものである」
沢庵が言葉を切ると、落葉御前が静かに口を開く。
「喘月に囚われし贄の魂は、かつての遣い手たちをほかならぬこの喘月を以て斬ることで解放されまする」
「かつての。――」
「喘月の呪いが解ければ、畢竟、大納言さまへの呪いも晴れましょう。戦国の世に戻らぬためにも、柳生さま、何卒。――」
沢庵は、「この者、鎌倉の世から生きる喘月ゆかりの者だ」と静かに告げる。
「かつての遣い手と対峙する
沢庵の言葉に、宗矩が唸る。
「その遣い手らを倒すため、この妖刀の呪いに負けぬ者が必要になると」
「宗矩、お主しかおらぬと思うておったが。いや、天下の目付、それは無理な話か」
と、一件沈痛な面持ちを装う沢庵であったが、ふと案外冷静なままの宗矩を見て、呵々と口元をほころばせる。
「御坊、拙者を焚き付けても、無駄でござる。が」
「妖刀に負けぬ心と、剣鬼を斬り捨てる術を併せた、そんな者が他に。――」
宗矩がこのとき初めて笑う。
「拙者にただ
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