第2話『それは柳生宗章という名の男』
深編み笠の武士が、武家屋敷の並ぶ通りを滑るように歩いている。中背で胸板は厚く、袖なし羽織からのぞく二の腕は、着物越しでも
太刀は差していない。二尺足らずの脇差しのみ帯びている。果たして武士なのであろうか。武士ならば太刀と脇差しは具えていようものだが、さりとて無頼の徒とも思えない。
身なり自体は、悪くはないのだ。
その歩みが向かう先、柳生下屋敷に近づくと、一歩だけ遠間で立ち止まる。ちょうど、門番の姿が
ふと、その翁の視界に武士の姿が入る。いや、気付いて貰おうとした武士が気を引いたのだろう。
翁は「はぁ、もうそんな時期ですか」と独りごちると、相棒の男へ断りを入れ、通用門から屋敷内へと引っ込んでしまう。
残ったひとりは、いつものことかと気にも留めていない。
武士は、ようやく通用門から五間ばかり離れたところまで歩み寄り、じっと待つ姿勢であった。
敷地内に入った翁が、中庭を迂回して書院へと向かうと、そこには柳生の大殿である柳生宗矩の姿があった。愛刀の手入れをしているのか、翁が声を掛けると静かに頷き控えさせる。
「殿、例の御仁がいらっしゃいました」
「そうか」
刀を拵えに戻しながら、宗矩は苦笑する。
文箱から切り餅と称される慶長小判二十五枚を封じた紙包みを四つ、取り出す。しめて百両の大金である。
「いつもはその半分では」
翁は不満そうな顔である。
「お尋ねするつもりはありませんが、殿、季節が変わるたびに金を
「ふふ、そういうな。だがな」
そこでいつもならこの翁に金を渡し、門の脇に控えたその御仁へくれてやるところだが、今回は違った。
「すまんが、その御仁、此度はここに連れてまいれ。なに、用心無用。案内すれば、人払いを頼む。小半蔵にでも申し伝えておくがよい」
「へぇ。――」
この翁に限って「大名屋敷に胡乱な者を」などとは詮索しないだろうが、宗矩は苦笑交じりにその背中へ「構わぬ、通用門から入らせるがよい」と申しつける。
翁はさすがに「表門を通すわけはありますまい。まったく、おふざけになりますな。――」と、眉間を寄せて去って行く。
「なに、本来は私が出迎えねばならぬ客なのだがな」
と、刀掛けに太刀を戻して宗矩がひと息つく。
書院南側の障子を開けると、深まる秋の風が抜けてゆく。
ふと見れば、宗矩考案の庭のはずれから、深編み笠の武士が歩いてくるのがみえる。
実際に会うのは、そろそろ二年ぶりになろうか。
「お久しゅうござる、兄上」
「門の爺さんが、百両欲しくば顔を出せといっておった。金に釣られたわけではないが、面倒くさい頼み事でもあるんじゃないかとな。逃げてもよかったが。――」
「霞を喰って生きられるほど、兄上は仙人ではございますまい」
ちがいない、と侍は笑い傘を取る。
茶筅に結った髷と髪の手入れはやや乱雑だが、太い眉と意志の強い双眸が仏像のようにまろやかな色を湛えている。
柳生宗矩の兄、柳生宗章であった。
関ヶ原で戦国の世が終わり、その残り火の最中で大きい戦いを経て、この世の表舞台から去った柳生一族の遣い手であり、剣豪柳生宗矩が若かりしとき柳生新陰流を指南した男である。
戦乱に疲れた兄に代わり、弟の宗矩は泰平の世を築くために奔走することを選んだ。家康と秀忠の覚えめでたく、その過程で加増、一万石の大名へと出世したのだ。
で、無頼となった宗章は、ことあるごとに弟に金を
「頼みますから地蔵に供えられたまんじゅうなど喰わんでいただきたい。兄上も柳生に顔向けできぬ生活は……」
「といってもなあ。親父ももういないし」
「この役職、譲れというなら譲り申すが。――」
「勘弁してくれ」
どっこいしょと、縁側に腰を下ろす。太刀がないと楽である。
完全に自分に向けて背を向けて寛ぐ宗章だが、隙がない――と思いきや、隙だらけである。武芸者なら撃ち込む妄想すらするだろう。
「下手な誘いをするなら、金子は金輪際援助いたしませぬぞ」
「すまんすまん」
あわてて向き直る宗章。
この兄はまったく以て昔から変わってはいなかった。
実際に手刀なり撃ち込んでいたら、宗矩と雖も庭に投げられていたであろうことは明白であった。強い弱いではない。単純に仕掛けた方が弱い。いわんや、誘いに乗せられて撃ち込む方はいいようにやられるのが武術である。
宗矩も腰を下ろす。
遊びの気配はなくなる。宗章も話をする姿勢だ。
「頼みたいことがございましてな」
「いやだなあ」
とん、と、切り餅ひとつ二十五両を畳に置く。
「弟たっての頼みだ。まあ聞くだけ聞こうか」
「大納言さまに献上された鎌倉期の太刀がございます。送り主は、毛利輝元。――」
「西軍の総大将だったな」
「如何様」
関ヶ原で西軍の総大将であったのが、毛利輝元。
おなじく東軍の総大将であったのが、徳川家康。
「将軍家へ恭順を示すため金子と共に献上されたひと振りの太刀が、これまた厄介な代物でしてな」
「太刀か。剣豪将軍足利義輝より『輝』の一文字を賜った、揺るぎなき大大名。改易を重ねたが、今もなお戦国下剋上を夢想する外様の怨念だな」
思うところがあるのか、宗章はあごの無精髭を撫で掻くように唸る。
「どのように厄介な太刀なんだ。まさか偽物だったかのか」
「いえ、それが。――」
と、ことのあらましを宗矩は説明した。
「そこで、白羽の矢を立てたのが。――」
「俺だって訳か」
「如何様」
さて、「じゃあな」と帰ろうとした宗章が腰を上げる。――が。
とん、と、切り餅ひとつ二十五両が重ねられる。しめて五〇両である。
浮き掛けた腰が、沈む。
実に美事なタイミングでの加算である。宗矩はこの呼吸の読みが実に上手い。弟のそんなところが薄ら寒くさえ感じる。
首の裏を掻きながら「お前がやればよかろうよ」と宗章はいうが、いっておいてなお、宗矩には無理であろうとも納得している。
実力がないのではない。精神技術申し分ないが、柳生宗矩には万が一があってはならない。
「喘月に呑まれ、殺刃漢となり果てたら、もはや何があっても闇に葬るほかない。ま、もはや死人である俺ならいくら失敗しようが、始末にはさほど困るまい。――宗矩、おまえや大納言さまはそうはいかぬ」
「しかし兄上、よくぞ妖刀や鬼の話を信じられましたな」
「お前の口から聞いたら、信じるほかあるまいよ。なに、この俺も伊達に武者修行はしておらぬ。鬼や妖怪よりも恐ろしい人間と何度も戦ったわ」
「では。――」
やってくれるのかと聞こうとした矢先、宗章が人差し指で膝元の畳を、とんとん、と静かに、そしてしっかりと叩く。
「ん。――」
とん、と、切り餅ひとつ二十五両がもうひとつ重ねられる。しめて七五両である。
「おほん。――」
とん、と、切り餅ひとつ二十五両がその横に置かれ、ふたつ重ね、ふたつ山に整えられる。しめて百両である。
「よし、やろう」
「兄上」
ひとつ膝を退し、頭を下げようとする宗矩を止め、宗章は「脇差しに手を伸ばすな宗矩。もう駄々は捏ねぬよ」と苦笑する。
「金の無心ばかりなら、切り餅に手を伸ばしたところを斬ろうかとも思っておりました」
「兄に向かってお前」
「なに、兄はもう死んでおりますれば」
その手配をしたのは、かくいう宗矩であるから頼もしい。
「しかし、鬼か。俺は人間のほうが怖いがな。ワケも分からぬ
「さすれば」
宗矩は文箱よりさらなる切り餅と書状を取りだし、ふたつ重ねふたつ山の百両の上に載せる。しめて百と二五両である。
「では、今宵その鬼に会うてもらい申す。場所は増上寺」
(――徳川の菩提寺か)と内心呟きながら金と書状を懐に――納めようとして、かなりの重さなのでしっかりと腰の巾着に入れ帯の隙間に根付けを捻入れる。書状は懐である。
「沢庵宗彭さまは」と宗章。
「お城にて上様の御心の平静を保つため、お側についてもらう必要がありますれば。鬼との邂逅は、どうかおひとりで」
「ひとりかァ……。わかった、怖い顔で刀に手を伸ばすな。いくよ。いくってば」
と、彼は慌てて立ち上がる。
しかし、抜き撃ちすら届かせぬ、否、抜き撃ったら脇差しを以て宗矩の手と首は無事ではいられないことは明白であった。
この誘いと間の上手さ、兄であっても空恐ろしい。
菩薩のようで、ひょうきんで、しかし怖い男。
柳生の信念、仁と義、そして勇。この厳しいみっつの戒めなくしては、柳生たり得ない。宗章はそれらを具えた男であった。だからこそ、宗矩はこの男に徳川の――この国の平穏なる未来を託したのだ。
兄の去り際に、宗矩は問う。
「私が諸大名の監視に服部半蔵らを使い、陰謀の気配あるところ、それを潰す。その際、人命をあたら損なう暗殺や謀略を私に硬く禁じたのは、兄上でしたな」
「――柳生だからな。気配の前、起こりの兆しを掴み潰してこそよ。仁義勇は、決して捨てることのなきよう頼むぞ」
「心得ております」
さもなくば、兄は私を、服部半蔵を容赦なく斬り捨てるだろう。泰平の世のためであっても、彼は柳生を貶める真似を許さないし、自分もそうである。
ともすれば、権謀術数、氷の目付。柳生
彼を光りにとどめる
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