第21話『魔剣――疾風の太刀(下)』
瀧泉寺は目黒川を越え品川に向かう途中にある、
小山になった目黒丘の上で結構な広さを誇っている。檀家衆の強さが窺えるというものである。
見上げれば、星。
月は気配も煙る新月である。
境内へと設けられた石の階段を、一段一段、ときには二段またぎに上り往く武士がひとり。腰には喘月、脇差しは兼定。茶筅曲げが乗る顔は四角く、しかし柔らかい。
柳生宗章である。
石段であるにも拘わらず、まるで滑るように追従する影がふたつ。尼姿のおにがふたり。金色の目を輝かせると、人はもとより、虫も獣も、しんと静まり遠ざかる。
落葉御前に、藤斬丸である。
時刻は丑三つ時。
御前が指を振れば、自然、灯籠へ鬼火が宿る。
此度の戦場は、瀧泉寺が境内。
御前が、堂への上がり階段に立ち、三段高い場所から宗章を振り返る。
藤斬丸はその側に控える。
「新月でございます。宗章どの、お覚悟は。――」御前の言葉。
「具備ととのうておる」宗章の応え。
具備。
具とは、能力のそなえ。
備とは、状況のそなえ。
身体と武器、出立いでたちに於いていかに能力を具えているか。
心胆と思考、精神こころに於いていかに能力を備えているか。
宗章は「ととのうておる」と即座に首肯した。
喘月解呪、その儀を執り行う
壇上の御前が、変生する。
胴箔紅入の鬘帯で髪をまとめ、垂髪を程よく背へと流している。純白の小袖に、これも白の打ち掛けは薄く羽衣が如し。小面をつけてはいないが、天冠を被り鬘扇を手にしている。
まさに能が姿、天人の装束である。
白き衣は、弔いの色である。
死に装束であり、送り装束である。
「鬼ガ『婆娑羅舞』、奉る」
香の香りが、ゆるりと漂い始める。シャンと、天冠の鈴が斬り裂くよう鳴る、耳の奥へと抜けるような刺激。
香の香りが、いや、濃度を増した反魂香の煙が碑の周囲を覆い漂い始める。
そわりと、首の毛が騒ぐ。
みしりと、喘月が軋鳴る。
なるほど、やはり生きたまま地獄へと落ちたかのような、この気配。やはり反魂香は死者の世と生者の世、彼岸と此岸を繋ぎ溶かす魔性の香であるに相違ない。
魑魅魍魎が秘術、最大の禁術である死者蘇生の香。
この煙晴れるまでの生を死者に与え、香が燃え尽きるまで夢ゆめと現うつつは迎合する、世の理をねじ曲げる外法。
鬼の声が響き渡る。
隔絶された領域が、舞と扇で広がり往く。
寺の境内は、昔の境内に。
過去と未来が、薄く確かに重なり合う。白き天鬼が幽玄の中舞い踊る。あたかもすでに夢の中で舞うかのように、天と地とを分け隔てなく舞う。舞って、鬼の声なき声、鬼哭が如き旋律がすべての光りと音を消し去って行く。
柳生宗章はつま先を開き、やや浮き身に重心を下げ、頤を上げ、口も目も、半分の開き。鬼気が流れゆく中でも、泰然とした
「そのむかし、備後にとある武士が在りけり。――」
藤斬丸の声なき声、口上なき口上。
柔らかき無音が、過去の情景が溶けるように混ざり来る。
そこは、天正の世の、瀧泉寺。
煌々たる満月の夜である。
しんしんとした、しかし蒸し暑さを感じる夜である。
月下の元、ふたりの武士が向かい合っている。
「柳生新陰流、小杉源太郎。――」
「陰流、佐々木重三郎。――」
闇に、白刃がふた筋閃く。
源太郎の太刀と、重三郎の喘月である。
「……。――」
喘月の刀身を見た瞬間、いや、目に入った瞬間、源太郎の息が……やや乱れた。
が、表情そのものは静かである。
互い、青眼に構え合う鋒より心臓を止める勢いで放たれる殺気に、虫の声もぴたりと止まる。
達人同士の戦いは、瞬時に決まる。
ただ一颯あるのみ。それが剣者の意地であろう。
「えい」
斬らずに斃れるは武士の恥。
どちらの掛け声か応え声か、ひと声の気合いとともに、ふたつの影が迫り重なり、ヒュンと斬られた風の音とともに、左右入れ替えるようにすれ違う。
互いの斬撃は同時。
首を狙う重三郎と、腹を抉り肉薄せんとした源太郎の片手突きが空を斬り合い交錯したのだ。
白刃が閃く。
斬るのではなく、対手との間に刀刃を挟み仕切り直したのだ。
「陰流、
重三郎の呟きとともに、白刃の三日月が、新月の如く闇に溶け消える。傾けた
――あっ。
そう思ったときには術中であった。
武器の長さを見誤った源太郎が気が付いたときには、パっと胸が斬り裂かれていた。致命傷には遠いが、出血が酷い。
喘月は上段に跳ね上がっていた。振り落とされれば頭蓋が割られる。源太郎は前に出た。薙ぎ上げ斬りを伴う漆膠で肉薄するも、重三郎の手で刀を押さえられる。
しかし、無刀の心得から小杉源太郎は掴まれた腕を、掴まれたまま、重三郎の腕を
拘束は弛み、源太郎の一刀のもと勝が確定するかと思われたそのときである。
「見られしか、喘月の太刀。――」
きらりと、沸が煌めいた。
溶け隠した喘月を露わにし、満ちし月光に輝くその刀身を大きく対手の視界へと映したのだ。
「ううっ。――」
源大夫の動きが、喘月の魔性に囚われる。
ざざっ……。と、弾け立った重三郎は、呆けたような源太郎の首を喘月で刎ね飛ばした。横薙ぎの右一閃である。
首はやや右後ろに落ち、どぷりとした血潮が心の鼓動にあわせて吹き散って行く。――どう、と、小杉源太郎の骸が倒れ伏す。
あとは重力に従うよう、肉体から押し出された血潮が石畳に赤黒き沼を作っていく。
「おお。――」
対手の息の根が止まっているのも確認することなく、重三郎は喘月を月にかざす。
見よ。
いままさにひとつの命を吸った喘月が、贄を沸とし、妖しくその刀身を輝かせたではないか。血糊すらついていない。刃こぼれもない。魔剣、妖刀の類いである。
佐々木重三郎は、刀剣――名物に関心のない男であったが、このときすでに魔性へと落ちていたに相違がなかった。
彼は贄の首を拾い、懐から出した不動明王の像――石彫りであろうその黒曜石を首の口へとねじ込む。
さらにその首を石畳におき、喘月の鋒で額へ『玄』と記し汚すと、血も滴らなくなったその傷をべろりと舐め上げる。
情欲の色が窺える。
彼はそれを本堂の床地下へと埋める。
口に真言を唱えながら。
口々に真言を唱えながら。
何処からか、彼の真言に共するかのような、死者の怨嗟が境内に反響していく。
「贄は小杉源太郎、仇は――外道、佐々木重三郎。――」
満月の境内が、ふっつりと闇へと滲む。
耳には、落葉御前の鬼の歌、鬼の舞。
藤斬丸の下がる衣擦れの音。
周囲の反魂境は、もうもうと、何処までも広がっている。
石段の前、しかし、足下には血だまりが広がっている。
「幽玄、虚実冥合ナリ――」
ざん、と、空気が変わった。
のうまくさんまんだあ、ばさらだんかん……。
のうまくさんまんだあ、ばさらだんかん……。
煙の結界に赤黒き奈落への穴が空く。
その奥の闇より、黄泉平坂をやってくる声が響く。重く昏い、亡者の声である。
のうまくさんまんだあ、ばさらだんかん……。
のうまくさんまんだあ、ばさらだんかん……。
不動明王の真言であろう。
呪いを掛けた、あの声だ。
喘月がみしりと、鳴る。まるで魔封じの札が燃えるかのように熱を持つ。まぼろしの炎は、札に描かれた不動明王が司る炎がもたらす外道照身の熱であろうか。または、黄泉の底より黄泉返りし亡者の呪い不動の火炎なのか。
短躯が、のそりと、上がってくる。
不動明王の真言を喉の奥から絞り出し、上がってくる。
死したときの格好か、関ヶ原で着込んだ血まみれの甲冑姿で現れる。それは、人か、悪鬼か、はたまた。
その手には、黒き靄の長柄が握られている。
「――のうまくさんまんだあ、ばさらだんかん……」
そして、「ほほう」と、亡者が笑う。兜の奥で、
「あな嬉しや。戦の果てに死して、やはり江戸へと黄泉返りしか。あな嬉しや。おお、ここは瀧泉寺。はは。なるほど然り。なるほど然り。妻が伝えしまことの生、謳歌よ、謳歌よ。……なるほど、なるほど。然り、然り」
虚実の世で見た、佐々木重三郎に相違なかった。
姿は甲冑武者だが、あの声と気迫、そして金色に変生してはいるが、ねっとりとした目には見覚えしかない。
「佐々木重三郎だな。――」
宗章の通る声も、もしかしたら届かぬかもしれぬような、深く厚い瘴気を隔てること、実に
否――聞こえている。
否――宗章を見ている。
三度否――喘月を見ているのだ。
「喘月。――」
その一瞬ばかりは、憑き物が落ちたかのような声であった。
どこか懐かしむような目で宗章の腰間を凝っと見て、「今がいつの世か分からぬが、喘月未だ健在か。かかか」と、再び狂気に染まった笑いを放つ。
「柳生新陰流、柳生宗章。お相手仕る」
「新陰流。新陰流と申したか。おお、柳生新陰流。本流より外れし名声の剣よ。誰に習ぅた、宗厳か。ほほ、仕儀いかなるものかと思うたが、立ち合うに充分。ふふ、喘月を持つならばいうことはなし」
重三郎が、長柄を構える。
過去の喘月では、なかった。
「陰流、佐々木重三郎。具足にて仕る」
「喘月ではないのだな」
――
応え、宗章は喘月を抜き放つ。
鯉口が開けた瞬間、凝縮された魔性の気迫がぶわりとあふれ出す。御し得ぬ瘴気を、しかし、宗章は鼻から吸い込み、存分に腹の底にて凝縮し、ゆるゆると口から吐き出していく。
満月と新月に、喘月が煌めく。
「おお、おお、確かに喘月。されど――」
重三郎が、喘月の刀身、その沸落ち着く物打ち付近を見て、にんまりと笑む。
「言うたとおりだ。言われたとおりだ。……貴様、新陰流。やはり喘月の呪いを解く者が現れたか。然り。この拙者が
「地獄は口きく相手もおらなんだか。よぉ喋る口だ喃」
「これは辛辣。せっかくの立ち合い、すぐ終わればつまらぬであろう。……が、そうそうのんびりともしておられん」
亡者の鼻が、くんくんとひくつく。
香の香りを嗅いでるのだ。
反魂香の煙る結界をちらりと伺い、ひとつ頷く。
(香の時間に気が付いておる。いや、おそらく識っているな)
宗章は、黒幕の存在を意識した。
が、すぐに意識の外から消し、闘争の気迫で喘月を八相に構える。高い。左拳が右の頬まで上げられている。
左半身をやや前に、右足を引く。
誘いである。
「やはり美しい。美しい喃。喘月よ」
「長巻かね。――」
「わしの獲物か。ほほう、靄でも都合は悪くなかろ。さだめし長巻よ。陰流、小太刀と長巻の術に長けておる。とりわけ戦場では、太刀でも小太刀でもなく、やはり長巻よ」
長巻は、太刀の柄が刀身ほどの長さになった長柄の武器である。叩きつける使い方ではなく、長柄によるテコの原理から生み出される、突きと切断と石突きによる打突が強靱強力であった。
「喘月の柄を長巻拵えにしたのかと思ったが、違うか。お主、喘月に執着はないのか。――」
「ある。たしかにあった。が、それは白の者に譲ったわぃ」
白の者。
「ずいぶんと喋るな。冥土の土産か。――」
「然り。冥土よりの土産ではあるな。――」
ズ――と、甲冑の腰から腿に掛けての
さらに、長巻を抱き込むように重心に沿わせ、まるで鉄球から刀が生えているかのような奇妙な構えを取る。
――まずい。
宗章は反射的に飛び込むように前へ出た。
瞬間、ブンと風が鳴り重三郎という名の鉄球が駒のように回転し、宗章が飛び退った場所を大きく薙ぎ払い――。
――がちん。
抱き込んだ長巻が、石灯籠を両断していた。
ズと音を立て、竿から斬られた
「陰流――
「定めし魔剣よな」
単純明快な剣である。
短躯を独楽とし、甲冑具足の重量を加味した自重を存分に乗せられる長柄が武器である長巻を使い、下がりも受けも出来ぬ強靱強固な刀勢で薙ぎ払うのだ。
「
装甲薄く、大動脈が奔る部位。戦闘能力を奪えば、あとは仕留めるも容易い。戦場の剣である。薙ぎ落とし、薙ぎ上げ、自由自在であろう。
(しかし能く避けたものだ)
(しかし能く避けられたものだ)
お互い、同じようなことが脳裏によぎる。
ただ、抱え込む左右、刃の向きである程度の軌跡は読める。それが初手で宗章が死ななかった理由である。
だが、それで前に出るという選択が取れなければ死んでいたであろう。
下がれども、追撃で死ぬ。
受けても死ぬ。
故に前に出た。
刀刃の描く殺傷圏の隙を突いてすれ違ったのだ。
「新陰流。破れるか、疾風の太刀。――」
「なるほど、やはり甲冑は面倒くさいものよな」と宗章。
重三郎の兜の緒がはらりと解け切れ、吹き返しとしころが石畳へと落ちる。
「そっ首には届かなんだわ。命拾いした喃、陰流」
交差の瞬間。入れ替わりの瞬間。
柳生宗章は八相からの一撃を叩き込んでいたのだ。鋒はしころを切り裂き、亡者の頸動脈に迫る際、吹き流しによって押し流されてしまったのだ。
「防御は甲冑。されど、甲冑武者の仕留め方は、お互いよぉ知っておる。のう、新陰流。――」
「それはまあ、な。――」
刀槍は装甲によって弾かれる。故に装甲薄き――顔面、口中、脇、股間、内太股など、大動脈はしる急所を狙う。はたまた、組み討ちで首手足の関節をへし折って仕留める。
だがしかし、喘月の斬れ味は凄まじかった。
まるで、甲冑が半紙のような手応えであった。
甲冑ごと、斬れる。
だがしかし、宗章はその選択を端から除外している。
「兜割もそそられるが。――」
宗章の喘月がぴたりと下段に付けられる。
腰もどっしりと落としている。足は右前の自護体。
重三郎は、魔剣の構えに。
そして宗章は全身の脱力。闘争の放棄ではない。この剣士にとって、ここより発生させる肉体心胆すべての力を殺すために使うことの備えである。
「疾風の太刀、破れたり」
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