第22話『秘剣――巻焔』

 重三郎が安定せぬ兜を脱ぎ捨てる。頭部の防御を捨てた形だ。

 疾風の太刀は、体軸を乗せた回転運動にある。甲冑を身に纏っているからこその、大ぶりの攻撃。術があるからこその一挙同での薙ぎ。


 回転故、兜の緒は締めておかねば不覚を取る。

 捨てるということは、交差で頭蓋を割られればお終いということに他ならない。

 だが、しかし。


「破れたり、と申したな。、と」

「申した。――」

「それが兜を失い不覚を取るからであるといっておれば、浅はか。頭蓋を狙えば、畢竟、お主も胴を割られるが理よ。それはわかるな」


 ずいと、斬れるものなら斬ってみよと面頬の剣鬼が重心を深く落とす。それだけで、隙が消える。


「つくづく相打ち上等、生き残ればあら不思議の世界だな。――」

「されど、新陰流。お主は死すればそれまで。拙者は死すればそこが始まり故、な」

「ほほう、知っておるのか。なら話は早い」


 人の、死人の殻が破れれば、剣鬼は正真正銘の鬼へと変生する。本間入道のように。


 しかし、知っているとは。

 本間入道も、斬られた自身に起きたことから悟ったに過ぎない。

 では何故、この佐々木重三郎はそれを知り得ていたのか。


(すべて承知で喘月を使い、不動に呪術を仕掛け、次の遣い手に手渡している。即ち、教えた者がいる。黒幕、か。――)


 双手で把持した喘月を左肩に担ぎ、右足を大きく前に出して腰を落とす。

 重三郎は、いちどの死は厭わぬ。

 宗章は、剣抜き対峙すればすでに心は死人である。死と生を共にし、刀刃吹きすさぶ荒野を小春の草原を往くが如く死地へ赴く。その身に染みついた剣者の術に従うのみである。


 生きるとか死ぬとか、殺すとか殺されるとか、そういうものではないのだ。たいていの剣者というモノは。特に柳生は。とりわけ、この柳生宗章という男は。


 ひりつく肌の感覚。

 真剣勝負のみに生じる、生死いのちに届くお互い納得ずくの殺意。単純な殺傷にすべてをかけて揉まれる高揚感。

 高揚感。

 この悪しき誘惑に屈した者が、ひとのまま心のみ鬼となる。剣鬼となる。


(はたして、宗章おれはどうだろうか)


 粘り着く瘴気を呼吸しつつ、深く、遠くより自分を見る。

 雑念とも取れる自問自答だが、どこか他者のように思えてくると、煙の結界に居るすべての者が把握できるようになる。

 まるで五感が鳥になったかのように、空からこの場所を見下ろしてるような感覚。


 切り倒れた灯籠も、本殿前の御前の姿も、藤斬丸も。「お主ら鬼のくせにそんな顔をするもんではない」と、内心笑う。「まるで俺の処刑を見るようではないか」と、また笑う。

 心の鳥が、笑う。


 空を舞い、だんだん、だんだんと、上へ上へ。

 煙の結界をも越え、瀧泉寺の全貌が視野に収まり、自分の姿も、佐々木重三郎の姿も、米粒のように小さく小さくなっていく。


 されど視覚に頼らぬ感受の心は、塵の動き、風の動き、地中の動きまで詳細に感じるまでに研ぎ澄まされた。

 脳の脱力が、五感からの情報を恐るべき精度で処理している。

 脱力による全力という、矛盾する領域。


 残る無念、残らぬ無想。虚実冥合による、無念無想の境地。

 静かなる灼熱の氷鏡。

 その感受が、己の背後に開く奈落への口――黄泉平坂を読み取る。ああ、確かに、これは死者の国だ。


――そこに、居るのだな。


 宗章は心で問うた。

 赤黒き平坂の先で、何かが蠢いた。

 ああ、やはりいるのか。


 だがしかし、目は、心は、神経は、重三郎に集中し、かつ、すべてを俯瞰している。

 この境地、こんなものまであるのか。

 初めて感じる境地であった。

 昨今は、親父の剣境に達したと思っていたが、さにあらず。

 俺も、宗矩も、まだまだ。まだまだ。


「仕る。――」


 この間、寸毫の時間。

 無限に感じる刹那の中で、宗章はいつのまにか滑り往くように間合いを詰めている。

 あまりにも自然で、あまりにも力みなく、あっという間に重三郎の間合いに入る。


 疾風が、吹いた。

 重三郎もまた、魔性に染まりながらも陰流の術が強かに反応したのだ。


 逆回転。

 先ほどとは、逆の回転。

 疾風が宗章の右から吹き上がる。その鋒が、ぐいと伸び来たる。長巻の間合い――。


「えいやあ」


 えい――担いだ喘月が回転する重三郎のこめかみ近くに当てられる。重い鋒が両目を斬り裂く。彼の回転により自ら斬られた形である。


 やあ――正中線で保持された喘月の鋒が垂直に落ち、頸動脈へと深々と潜り込む。回転は止まり、お互いは肉薄し、喘月が鋒が重三郎の首後ろから飛び出るや、存分に刀身を生やし夥しい鮮血を吹き上げる。


 お互い指呼の間合いで睨み合う。

 かたや、斬り裂かれし金の眼が垂落ちる魔性の死相で。

 かたや、返り血に塗れた御仏の笑顔で。


「――新陰流ッ」

「見られしか、柳生が剣。名付けるならば、巻焔まきほむら


 喘月が頸動脈を抉り飛ばす。

 対手の懐に潜り込む。その接近の力を以て、肉薄したときにはすでに命を奪っている。

 担いだ刀は、抱き込むように喘月を体幹に固定させるためだ。

 素早い肉薄。その体移動の運動エネルギーを存分に鋒に乗せた目を斬り裂く。そのまま、直下に落とし、首を抉る。


 両者とも、同じ術理。

 体移動のみで、武器が相手の命を奪う。

 かたや疾風、かたや焔。


「のうまくさんまんだあ、ばさらだんかん………………」


 靄霞の長巻が、解けるようにかき消える。

 佐々木重三郎の肉体が、膝から折れ、そのまま後ろへと倒れ伏す。


「のうまくさんまんだ……。――」


 事切れた。

 その瞬間、御前が「宗章どの、とどめを」と叫ぶ。

 叫び訴えるも、宗章は「すでに事切れておる。死人に言うことではないかもしれんがナ」と、残心のまま、五歩ほど下がる。


「鬼へと変生いたします。死が、再度死を得れば、鬼へと」

「まだ、こやつは仏。死せばみな、仏。勝負はついた。……変生し、鬼となり、再び立ち上がるのなら、そのときに改めて立ち合えばよい」

「何故でございます。――」と御前。


 控えていた藤斬丸が、「……武士の、情けか」と呟く。

 武士の情けとは、仮令、憎き相手であれども、その者の名誉を重んじることにある。

 柳生宗章は、武士であった。


 彼はさらに、五歩離れる。

 離れ、血もついていない喘月の刀身を袖で拭う。

 拭い、逆手に背後へと回す。控えの姿で、立て膝に座る。


「のうまくさんまんだあ、ばさらだんかん」


 カッとばかりに、重三郎の目が光りを取り戻す。

 斬り裂かれた目ではない。

 眉のあたり、顔に新たに生じた四つの目がどろりとした黄金に輝く。折った膝が伸び、同時に体が起こされる。

 佇立した鬼の体が、短躯が、分厚くなる。

 内圧で甲冑が弾けるはずだが、その甲冑具足、すでに鬼が肉体の一部であるようだった。兜を拾い、かぶる。癒着するように、頭の一部となる。

 兜の建物の部分に、太き角が二本生えゆく。

 赤黒い血にまみれた爪のような角である。


「のうまくさんまんだあ、ばさらだんかん。――待たせたかな」

「俺は構わぬ。が、そろそろ香が尽きる。始めようか」

「うむ。――」


 そして、宗章は告げる。


「柳生新陰流、柳生宗章」


 さて、どう応える、佐々木重三郎。

 して、彼は応える。


「陰流、佐々木重三郎」

「仕る。――」


 そうか、そうきたか。

 未だ自分を陰流と位置づけるか。


「そうなった今が、清々しいほど武士らしいぞ」

「いうてくれる。――か」

「そうとも、喘月だ」


 宗章は、喘月を水平に掲げ、刃を上にしてみせる。


「見られしか、喘月の太刀。――」


 かつての言葉が、かつての言葉を紡いだ己へと返ってくる。

 佐々木重三郎は、喘月の沸姿を見て――ひとつ頷いた。

 四つの目と潰れたふたつの目が、歪む。


「確と。――」


 あのときの、苦し紛れの戦法。

 喘月の魔力に頼り、小杉源太郎の動きを止め、首を撥ねた己への後悔。

 あれは武士にあるまじき、陰流の剣士にあるまじき外連けれんであったのではあるまいか。


「表道具が具えし能力、それがしは外連とは思わぬ」


 ただ、それだけ伝える宗章。

 喘月を、妖刀としてその能力を使いし重三郎の戦いを、柳生宗章は認めている。


「ただ、ただ。お主が使ったのか、喘月に使わせられたのか、だ」

「手厳しい喃」


 言葉はもう、不要であった。

 問うまい。

 問答は終わった。必要なものは伝えた。

 あとは必要なものを奪い合うのみだ。


 瘴気に、清然たる闘志が巻き起こる。


「ゆくぞ、新陰流」

「おうよ、陰流」


 疾風の太刀。

 秘剣巻焔。


 手合いの知れた技で遣り取りする必要はない。なかったのだが、お互いがお互いの知れた技で命を取り合う。


 互いが間合いを詰める。

 水面を滑るように。

 一足一刀の間合い。

 そして撃尺の間合いに。


「えいやあ」


 どちらの気合いであったであろうか。


 風きりの音が、幾たびか。

 肉を断つ音が、ひとたび。


 喘月の鋒が重三郎の右腋から腋下動脈諸共、両肺と心臓を貫いていた。鎧の隙間、脇の狙い目である。

 重三郎の長巻は、宗章の額手前でぴたりと止まっている。


「この首、いや、あの首――もっていけ」


 重三郎の体から力が、瘴気が抜けていく。妖気が急激に薄れ、煙の結界の中、肉体が塵と灰へと化していく。

 溶けて消えにしその場には、貫いた喘月の刀身。

 過去の望月がもたらす明かりの中、贄の沸がスゥと消えゆく。


 黄泉平坂の赤黒い穴が閉じ、煙が溶け消えて行く。


「……左近翁、恩に着る。――」


 喘月を右手に提げ、左手で死を悼む。

 新陰流が小杉源太郎の、その無念に。

 喘月に魅入られ歪んだ、陰流が佐々木重三郎に。


「宗章どの」


 御前が促す。

 青白き男の姿が、本堂の側に立っている。

 小杉源太郎であろう。

 膝を折り、石畳に片膝立てて座った彼が、本堂下を示して目礼する。


 鬼気が晴れ逝く。

 虚実が離れ逝く。

 望月が夜が、新月の夜へと。


 喘月を血振りし、横納刀。

 重く、静かな吐息。


 その静謐な境内に暗闇と静謐がもどったとき、宗章はがっくりと膝を着き、脂汗とともに血の涙を流していた。

 呻きを上げなかったのは、さすがか。

 されど、喘月の妖気をたっぷりと吸った代償は大きかった。

 呪いは弱まれど、喘月自身の妖気こそは、さらに鋭さを増してきている。


 これは、たまらんな。

 苦笑しながら顔を拭い、立ち上がる。

 ふらりと視界が揺れるも、ひと息ついて佇立する。


「藤。――」


 宗章が、本堂下を指さす。


「私がやるのか」


 文句がありそうな貌だが、藤斬丸はすぐに床下へと潜り込む。そして、小杉源太郎が指し示したと覚しき箇所に近づくと、スンと鼻を鳴らし、右の掌を地面に当てる。

 土地の記憶を読み取っているのだろう。

 かつて日野資朝の指し示した場所を詳細に見つけたように。


 素手で、土を抉り掘る。鬼の膂力と、屈強な手指による業だ。

 すぐさま二尺ほど掘り返すと、指先に固い手応えが。


 壺である。

 みっしりとした重さを感じるそれを抱え出すと、這いながら境内に戻り、「これだろう」と、石畳へと置く。


「禍々しいものが漏れ出している。――」


 御前が、眉をひそめる。

 壺は油紙と膠で封じられていた。宗章が封を破り――凄まじいまでの怨嗟が走り抜け、喘月と呼応するかのように周囲に濃密な瘴気が溜まり始める。


 その別種の妖気に「これは堪らない」と、さしもの藤斬丸も眉根を顰めた。宗章の脂汗が増す。


「これは、塩か。――」


 固く締まった塩が詰められている。

 色は、黒い。赤黒い。

 解し出すと、壺の中からひとつの首が現れる。

 水気を失った生首であり、額には『玄』の傷痕。


 ――小杉源太郎。


 口の中には、真っ黒な不動明王像。

 顎を緩めそれを取りだし、「御前。――」と、ひょいとばかりに放り投げる。心得た落葉御前が指を振るうと、カンと音を立てて像が真っ二つに割れ砕けた。


 怨嗟が、消えて行く。

 ひとりのものではなかった。

 何人もの男の念が、新月に喘ぎながら昇って逝く。


「この武士の首を埋め、月夜まんげつのたびに生け贄を捧げていたのであろう。喘月で、三年の間。殺していたのだろう。黒曜石の不動像は、その核だ」

「そうであったか。――」


 読んだのだろう。

 この首の記憶を。


 宗章は両手を合わせる。

 宜なるかな。

 人の念いを自在に吸い取り操る喘月。この妖刀を造りだし、使わせている黒幕への憤りが静かに髪を逆立てる。


「見えぬ妖魅、許すまじ」


 宗章は御前へと向き直り、「この首級、無念は感じぬ。弔っても宜しいか」と聞く。御前は頷き、その首を抱えて祈りを捧げる。


「おんかかか、びさんまえいそわか」


 おんかかか、びさんまえいそわか。

 地蔵菩薩の真言である。

 説得の回向ではない。かぎりなく安らぎを与える、温かな回向であった。


 首が、鬼火に包まれる。

 熱なき炎の焼却に、首がぼろぼろと燃え尽き昇天して逝く。

 骨も、肉も、すべてが風に運ばれこの世に還って逝く。


 ふたりは手を合わせ、御前は片手拝みで左手に乗せた首が燃え尽きるまで真言をくちにしていた。

 おんかかか、びさんまえいそわか。

 おんかかか、びさんまえいそわか。


 送りながら、宗章は考える。

 藤斬丸は、その才能と無念で鬼と成った。

 では、落葉御前は、なぜ鬼と成った。積み重なりし落葉らくようの褥から、なぜ生まれ出でた。――なぜ、落葉が下に居たのだろうか。


 すべては、この戦いの果てに明らかになるであろう。

 難しい話は、苦手なのだ。


 すべてを葬送し、彼らは瀧泉寺をあとにする。

 かささぎ庵に帰る頃には、すでに空が白み始めていた。

 そして、月はまた満ち行く。


 残る首は、あと四つである――。


 

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