第16話『夢寐にも忘れず』
喘月。
人の命を贄とし、刃文に奔る沸を美しく踊らせる妖刀。
妙生寺の庵にて、一目蝋燭の灯りを頼りに喘月の手入れを行う藤斬丸が、その数百年変化しなかった魔性の刀身を拭いながら凝っと黙考している。
時刻は、あれより間も置かぬ、午前四時過ぎ。
いまは柳生宗章も隣室で深い眠りについている。旅の途中もそうであったが、よくもまあ鬼に囲まれてあれだけ寛げるものだと感心する。
その寝息を感じながらも、
鉄の深みと優美な姿。沸造りのきらびやかな品。
白きマルテンサイトの粒子が細かいものを『匂』というが、それよりも主張の強きものが『沸』とされる。その強き主張を、荒々しさと取るか煌めきと取るか。当時の公卿らは
しかし穏やかな気迫。
直刃調となった刃文の犇めく沸を見れば、いささか闘志に過ぎるやもしれない。これを後醍醐帝の叛意と取られた可能性は捨てきれない。
京の伝統、山城の作風。
正宗が美、相州の作風。
その戦いでもあったのやもと、藤は考えざるを得ない。
決定づけた日野資朝の誓書は、いままさに遺骨の灰を混ぜ込んだ護摩にて焚き清められている。
喘月。
その呪われし来歴を紐解き、禊ぎをするときが来たのだと実感する。
藤は懐より、小壺を取り出す。掌にすっぽりと収まるそれには、利島より調達した椿油が入っている。紙に滲ませ、刀身に塗布してゆく。薄く、広く、鍔元から鋒に向かい丁寧に。
椿油は刀剣の防錆防塵に適している。同じく能く用いられる丁子油よりも粘度が高く斑にならぬのが特徴であり、丁子の持つ殺菌効果こそないが、鼻にとどく匂いも少ない。
なかでも八丈島そば、
刀身にハバキ、切羽、鍔、柄を嵌めていき、目釘――真鍮製である――を差す。軽く振れども、鍔鳴りひとつしない。完璧な仕上がりである。
鞘に戻し、眼前に横たえる。
「……。――」
一目蝋燭の火が、揺れた。
ひと声掛けて襖が開き、御前が帰ってくる。
「儀、滞りなく終わりました」
「ご苦労にございます」と藤。
鬼にいうのも変な話だが、憑き物が少し落ちたような安堵の表情であった。藤の向かいに正座し、しばし、無言である。
「御前。始まりましたね」
「藤、お前にも苦労をおかけします」
「いえ、これも備前で命を救われた恩。――」
そこで、サっと、隣室への襖が開く。
「すまん、聞き耳を立てようと思ってたが、俺の
宗章だった。
つい今しがたまで寝息を立てていたはずだが、この接近には藤も御前も気がつけなかった。
どこまでもたばかる男だと思う反面、正直に顔を出す根性も可笑しい。御前は、藤斬丸に目を向ける。「話してもいいのか」「聞かせてもいいのか」と伺う目だ。
「聞かせるのも癪なので、またの機会に。もう床につきますれば」
「つれない喃。――」
ふふ、と剣者は笑う。笑い、喘月を手に、土間の沓脱ぎ石へと向かい腰を下ろす。草鞋を履きながら「のちほど起こしてやるゆえ、ゆるりといたせ」と声を掛ける。ふたりへの労いだ。
実に、婆娑羅の舞と、鬼口上。反魂香のみならず、このふたつの術でさえ心血振り絞る秘術であろう。護摩の儀と刀の手入れも併せれば、倒れて伏したくもなるだろうと思う。
「どこへ行く」
「俺か。俺は、ちと
腰に差し、戸から外へと。
歩く先はあの碑の前。時刻は払暁近く。
刃文を見るには最適の時間と
空気が、深と静まっている。
草鞋が土を擦る音も大きく聞こえ響く。
「備前か」
聞くともなしに聞こえた藤斬丸と落葉御前の
備前は鎌倉中期から後期にかけて勃興した、トップブランドのうちのひとつである。
とりわけ吉備の京都寄り、備前は良質な砂鉄を産出する地域であった。山より流れる吉井川がすべての恩恵を与えていたと言っても過言ではない。良質な鉄は良質な鍛冶を集め育てた。
長きにわたる備前長船の郷の歴史は、しかし、この吉井川がもたらした大洪水で壊滅してしまう。人も、工房も、採鉄場も、甚大な被害を受けてしまう。
鉄のみに非ず、その加工技術と鍛冶の知識の多くが失われ、生き残りし長船
(あの洪水で、俺の知己が何人も逝った。――)
十五、六年前の洪水。
その一報を聞いたとき、大自然のもたらす災害とはいえ、やるせなさを覚えたのを、じんわりと思い出す。
そのころはまだ浪人せず、小早川家の家臣として働いていた柳生宗章は、知己の弔いに行くことが出来なかった。が、それも運命かと思うていたが……。
「藤斬丸は、備前で死に、鬼となった。何故だ。そこを、落葉御前に助けられた。なぜだ。――」
喘月を逆手で抜き、慰霊碑の石段に腰掛ける。
考えているうちに、東の空が明るくなってきた。山がある関係だろう、角度も申し分ない。
喘月の刃文を見る。
見ようとして、油が塗られていることに気が付いた。椿油である。この油分は実に繊細優美な刃文の働きを鑑賞するにあたり、光りの加減を邪魔してしまうため、都合が悪い。
しかし、せっかく藤が手入れをしてくれたのだから、拭うのも心苦しい。……困った。
なので、地鉄を見る。
しかし、心がそぞろなのか、大してよくも見えなかった。おそらく、物打ちあたりのこの変生と併せ、多少は変わっているのやもしれない。
「ふふ、あまり刀身に目を向けておると引き込まれてしまうぞ」
ふと、視線を動かさずに、背後、碑の影に声を掛ける。
「気付かれたのは大殿以来でございます。――」
「小半蔵か」
姿を現したのは、あの風呂屋で声を掛けた若者であった。驚きもせずに、双方、喉の奥で笑い合う。
「備前に行っておったのではないか」
「向かっている最中にて」
「佐渡に寄るなど、大回りであろうに。……宗矩も心配性ではないか」
江戸より北上し、京あたりを経由し備前まで西行するのだろうか。忍びの道は分からぬ。
「御嶽兵衛、うまく掻き回して頂けて何よりにございます」
「なんだ、宗矩のヤツ、あの人足頭に疑念を持っておったのか。さすがよ喃。礼なら御前にいえよ。俺は何もしておらぬ」
「何も、でございまするか。――」
宗章は納刀する。
刀を観ながら考え事をしようかとも思ったが、辞めた。
「俺がやったのは、風呂に入って、幽霊に向かって刀を振り回しただけだ。何もしておらぬ。して――」
「なんでございましょう」
聞いたものかと逡巡したが、肩越しにようやく振り返り、宗章が訪ねる。
「小半蔵、香取新十郎が一件、どのように致した」
「…………。――」
「教えてくれぬか」
「ご遺体は汚さず、遺髪を取り、お体は手前の手下共が葬ってございます。……刺客残党には訪ねることあるゆえ、今は個々人別々の道で江戸に送りましてございます」
そうか、と宗章は想った。
浪人の身、柳生として死を装い、生まれを捨て諸国を旅してはいたが、武者修行のなか名うての忍者や剣達者との立ち合いで命を奪ったとに、ふと回顧とも違う、さりとて後悔には遠い感情を抱くことが多くなった。
斬った者ら、出会って交流した者ら、生まれてから今までの、記憶の残滓が夢に出るのだ。
「そうか」
「して、小半蔵。お主、鬼たちの動向を知っていかが致す」
「鬼は鬼。妖魅は妖魅。魑魅魍魎、この世に確と居る者、在る者として、すべて把握するものにございます」
落葉御前と、藤斬丸。そのふたりの鬼、だけではない。御嶽兵衛は無論のこと、未だ人の世に潜みし魑魅魍魎すべてを把握しようとしているのだ、柳生宗矩という男は。徳川の世のために。
「いや、人の世のためか」
違うな。
生きとし生けるもののための世か。
命清ければ命住まず、とでもいうか。
「宗矩の配下は苦労する喃。――」
「お手前ほどではございませぬよ」
「いうてくれる」
喉の奥で笑い合う。
「備前は任せた。あと多少、頼まれてはくれまいか。――」
と、小半蔵は静かに座り、自分の前の石畳を指でトントンと叩く。金を無心する宗章の真似であった。
「冗談にござる。正宗の足跡だけでなく、藤斬丸どのの足跡を……でございますかな」
「やってくれるか」
「女の秘密を探ろうという野暮、汚れ仕事には慣れておりますれば。致し方在りますまい、主家筋のご命令とあらば。――忍者は、己を慰める術を知っているものです故」
言ってくれるわと文句を言おうとしたら、小半蔵の姿はすでに闇に消えている。さしもの宗章も目を見張る。あの若さで大したものよと、あの二十歳ほどの忍者の評価を改めることにした。
日が明け、妙生寺に使者が来る頃合いになると、三人は準備を整え、小湊に向かい、そのまま本土へ渡り、江戸への帰途についた。
そこで待っていたのは、江戸城への呼び出しであった。
沢庵宗彭からの請願であった。
鬼らを伴い、江戸城へ来いという。
目付の兄とはいえ死者同然の浪人風情が、妖魅のふたりを連れ、あろうことか幕府中枢の江戸城へ上がれという。
「とんでもなく面倒くさい予感がするな」
宗章は独白し、喘月の柄をぽんと叩くのであった。
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