第4話『反魂香』
「日野資朝の仇である、本間入道は太平記の登場人物で、いまから三百年近く前に死んでいると」
「左様にございます」
「斬れんではないか、おい」
喘月の柄頭を拳骨で小突きながら「幽霊でも斬れというのか」と冗談めかしていったところ、ふたりの鬼は揃って居住まいを正し、沈黙の肯定を以て答える。
「まことか。――」
「如何様」
再度の問いかけに答えたのは落葉御前である。尼僧装束がはたと波打ち、黄の瞳の輝きが増すと、見よ、その両眉の直上より赤黒い角が生えてくるではないか。
怖気を振るう鬼の瘴気がふわりと漂い始めると、さしもの柳生宗章も真一文字に口を引き結び「これは」と息を吐く。
鬼という非現実的な存在の、非現実的な現象を目の当たりにして、しかしその呼吸自体は落ち着いている。心拍も跳ね上がってはいないことを落葉御前も藤斬丸もその超越した感覚で感じ取っている。
要するに、やはり太い男、なのだろう。
「柳生――いえ、宗章さま。喘月を以て斬割して欲しき悪鬼が魂は、文字通りの幽鬼と成り果てし魍魎の類。かつて人であった魂が喘月の呪いに歪められ、人の枠をはみ出し化生となった魂。――」
「要するに、魔性の者ということか」
それに答えるかのように、同じく藤斬丸が縁側の沓脱ぎ石から草履を引っかけて下り、宗章の向こう正面、月下の元で静かに佇立する。僧服の裾がはためき、いくぶんネバリのある瘴気が叩きつけられると、宗章は彼女の額に丸みを帯びた菱のような小角が生えているのを観て取った。
鬼ふたり、正面と左手に異種の存在を置き、宗章はふと落葉御前から差し出された黒き棒状の鉄を受け取る。
箸――ではない。
手裏剣である。
それが、三本。
重心整いし古鉄の逸品。
「藤へと、お打ちください」
手裏剣は、投げるとはいわず、打つ、という。
その手裏剣で、藤斬丸を打てと御前は告げたのである。
鬼とはいえ、風貌は大人とはいえ、僧形の女人に武器を放てと告げられ、こんどこそ困ったように「うむン。――」と宗章は押し黙ってしまう。
「鬼というものを、よくよく識ってもらうためでございます。まず、当たりはいたしませぬ」
「当たらぬと」
「鬼は、その感ずるところ獣以上、膂力は仁王の如く、首を刎ねねば、いや、刎ねたところで死ぬことすら能わぬ魔性。遠慮なさらず」
宗章は自信に満ちた御前の言いようと、傷つくつもりのない挑発的な眼をした藤斬丸を前にして、某手裏剣を弄りながら「試しか」と、念を押すように訊く。
「剣者を試すか」
静かな問い。
びくりと、ふたりの鬼のうなじが逆立つ。
叩きつけられた殺気のせいである。
殺すつもりで打て、どうせ当たっても死なぬし、当たりはしないだろうからと。鬼をそれで識れ、こちらも剣者をそれで識ろうと。
「ひとつで充分」
宗章は腰掛けていた縁側からそのまま地に立ち、右手に一本の手裏剣を立てて構える。
彼我の距離は
いくぞ、とは声を掛けない。
そのままひと拍子の投擲で藤斬丸の眼球を狙い打ち放った。
鋒を天に向けた手裏剣が、飛び倒れながら眼球に迫る。美事な回転打法のそれは、視界の中で線から点に変じ、死角に隠れるよう飛来する。
宗章の踏み出した右足がザンと地を擦る音とともに、その手裏剣は藤斬丸の手でつかみ取られている。
「この闇夜で、それが見切れるなら大したものだ」
宗章は、お見事と微笑み、そのまま腰掛け直す。
腰掛け直し、藤斬丸に自分の隣をぽんぽんと叩き、座るよう誘う。
「まあ、ざっとこんなもんだ。おっちゃんの手裏剣も、なかなかのものだったぞ」
「そいつァどうも」
得意げの顔の藤斬丸が、いっぽ踏み出しかけたそのときだ。
「あっ。――」
草履が、動かなかった。
動かない故に、重心を崩して前のめりに倒れ転んでしまったのだ。
手をついて受け身を取れたが、そんな藤斬丸の眼前の土に、ザンとばかりに棒手裏剣が恐るべき威力で半ば以上まで突き立った。
あまりの出来事に、藤斬丸は息を呑む。
その威力、当てようと思えば当たり、殺そうと思えば殺せる威力に相違なかった。
外されたのだ。
手加減されたのだ。
そして気が付く。
宗章の手に手裏剣が一本も残ってはいないことを。
一本は、自分が受け止めた。
一本は、いま目の前に刺さっている。
では、もう一本は――。
「草履に。――」
縫い付けられていた。
手裏剣によって縫い付けられていた。
いつ放ったのか、いつ打ったのかわからないが、それは確かに宗章の手にあった手裏剣であった。
右手で眼球を狙い打ったときに、同時に左手で投げた一本で草履を縫い付けていたのだ。地に縫い付けるその音は、わざと程強く地を擦った足音でごまかしたのだと、今になって気が付いたのだ。
そして、気を抜いて戻りかけた藤斬丸に隙を作らせ、そこに斟酌のない一撃を打ち放った。――
「よいか」
眼鏡に適ったか、という問いではない。
宗章が続けた「剣者は試すな」という言葉の枕である。その冷たい言葉と気迫は、本気の表れである。有り体にいえば、少し怒っていたのかもしれない。
「……ご無礼仕りました」と御前。
「いいさ」
御前に笑いかけると、こんどは誘いの笑みではなく、普通にぽんぽんと自分の右手の縁側に藤斬丸を誘う。
「感覚と膂力が強さであると勘違いしてはいけない。人間は、常に自分たちよりも強いモノたちを倒して版図を広げてきた図太い弱者だ。ゆめ、侮ることなかれ。いわんや剣者をや」
「肝に銘じまする」と、こちらは殊勝な落葉御前だが、「なんかむかつく」とどっかり腰を下ろす藤斬丸は不満たらたらの貌である。
当然だろう。勝ったと思ってのこのこ戻ろうとしたら、最初からしてやられていたのだ。いい道化っぷりではないか。
「お前さんは人がよすぎる。鬼ならもっと欺かんと。――とはいえ、ひとつ教えておく。大和は柳生の郷は、伊賀と甲賀に挟まれた土地ゆえ、忍者との交流も多い。故に柳生の剣士はその新陰流剣術とあいまった独特の忍術を体得しておる。いまのは目くらましの一種だな」
がははと笑う。
最後の一撃が、首を刎ねるモノならだうだったであろうか。
まるで斬り落とせとばかりに倒れ差しだした形。
得物が喘月であれば、鬼であったとて藤斬丸の命は露に消えていたであろう。
「だがしかし、されどしかし、本間入道はこの程度ではあるまいと申すのだな」
「如何様」
「して、魍魎羅刹と化した死霊をどのように呼び出し、斬るのだ」
「されば。――」
ふわりと、藤の花の香りが乗る。
御前の懐から取り出された、一本の線香の香りである。香りこそ良いが、藤の花はその美しい見た目とは裏腹にレクチンを多分に含んだ毒花である。
「藤の花は、
「ふじ。――」
「古代、古来、長きにわたり、鬼、妖魅たちの間で培われし藤を用いたこの香を――『反魂香』と申します。鬼の生き血を用い、角を削り混ぜ、幽谷の舞いを以て命をかりそめに復活させる香」
魂を反す、香。
「新月の夜に反魂香を焚けば、燃え尽きるそのときまで煙に巻かれた世界は彼岸と此岸が綯い交ぜになる、幽玄の世界と成り果てまする。その中では、例え死んでいようと、生きていようと、どのような姿になり果てていようと、必ずや召喚できるのでございます」
言葉を聞きながら目を落とせば、確かに――濃い紫には血の色か、角の生々しき赤黒さが際立っている。そんな香である。
「燃え尽きるまで、およそ童が毬をつきつつ暦を五度、数え終えるほどかと」
およそ三百秒、時間にすれば5
「そのうちに、仇敵を討ち取れというのか。――この喘月で」
「幽鬼たる仇もまた、呪と化した喘月を手にしてるやもしれませぬ」
(得物は同じ可能性があるか。――)
宗章は、途方もない話だが、そういうものなのであろうなと頷いた。どちらにせよ、あの宗矩に頼まれた上、この鬼ふたり――とても鬼と聞くような暗い影を未だ見せぬおんなたちに興味が引かれたのは隠せない。
藤の香が満ち鬼が舞う幽玄の舞台にて、死人と剣を交えることに剣者の心が動かなかったといえば嘘になる。
「では次の新月か」
「香と、舞いは
「口上とな」
「仇敵の魂をふるいに掛けるためだ。単に香を焚いて舞えば、雑多なモノが集まってくる。
この小生意気な鬼おんなの方は、由来来歴を総て記憶しているという。なるほど、ふたりはそれぞれ、役どころがあるということか。
「喘月の手入れも、藤斬丸にお任せください。藤は備前の生まれゆえ、刀剣の手入れに始まり、鍛刀までこなせますれば」
「――そうか」
宗章は御前の言葉に頷く。
しかし、風変わりなことに首を突っ込んでしまったものだと、いまさらながらに首筋を叩き苦笑する。
「よし、じゃあ酒でも飲むか。やっと落ち着いて話ができる」
「酒。――飲む――あっ」
そこで藤斬丸はぴしゃりと膝を叩き、ついで落葉御前もはっと口元を覆うように声を上げてしまう。
「ど、どうした?」
「いや、おっちゃんに食わせた雑炊に毒を入れてあったんだが」
「なんだとッ」
「解毒薬を飲ませないともうすぐ死ぬンだ」と藤。
「喘月に飲まれ
お恥ずかしいと差し出された丸薬を、宗章はヒョイと奪って一気に飲み下した。恐ろしいことをしてくれる。
鬼のような奴らだと、心中文句をいうのであった。
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