第3話『仇はもう死んでいる』
増上寺は、徳川の菩提寺である。
徳川家康が豊臣秀吉により三河周辺の土地を取り上げられ、関東に配置換えをされてからの縁である。特に関八州を固める家康を支えてきた名刹であり、その権威はこの頃より盤石なものであった。
夕暮れ時、その山門をくぐり、石段を上がる武士の姿があった。
柳生宗章である。
怪訝な顔つきの僧に挨拶をしながら、左手に提げた一升の酒瓶をゆらゆらと振りながらの参詣である。この増上寺が殊更に掲げてはいないまでも、『
僧が怪訝な顔をするのも当然であろう。
――西の方丈にて。
方丈とはこぢんまりとした、寺の住職の居室のことである。ほんらい禅宗に於ける言葉であるが、増上寺自体は浄土宗である。
だが、書状にはそう書かれていた。難しい話がいろいろ書いてあったが、難しい話は苦手なのでろくに読んではいなかった。そのあたりは会ったときに直接聞く方が面白い。
そして、手入れの行き届いた小路へと入ると、日暮れの気配に混じってスンとした静けさが彼の耳の奥に落ちる。喉の奥を広げるが、気圧のせいで耳孔が揺らいだわけではないことを知ると、
酒瓶の揺れが、歩んでいるにも拘わらずぴたりと止まる。
「柳生、宗章さまでいらっしゃいますか」
先の方丈の灯りより手前、薄闇の深まるその一画に立つおんなの姿があった。伏し目で言葉をかけてきたそのおんなに、宗章は不用心に歩み寄り、酒瓶を掲げて「身分ある鬼からご招待を受けては無碍にもできまい。飲みながら話そうか」と方丈へと歩きを止めない。
「柳生さま」
「柳生はやめてくれ。故あって、あんまり柳生は名乗っておらん。宗章でいい」
「宗章さま」
おんな、落葉御前である。彼女は構わず先を行く武士の背中に、もういちど「柳生宗章さま」と、やや強く念を押す。
そこでようやっと、宗章は足を止めて振り返る。
菩薩のような表情の男を見る乳黄色の瞳が、困ったように揺れていた。
「
「すまん、懐が温かくなって、つい久しぶりに飲んだら寝ちもうてな」
ははは、と笑う。
徳利に墨で書かれた店の名前、そこで飲みながら一晩過ごした後、昼まで寝てからゆっくり酒を手土産に歩いてきたのだろう。
緊張感がなかった。
「どうせ伺うなら、
「道中、沢庵さまにもいわれました。なにぶん、人の世には疎いもので。当世風のものに改めましてございます」
「で、尼僧の姿か。髪はまだあるな。うん、綺麗な髪だ、剃髪はもったいない」
言い訳を考えていたら、公家女のいでたちと思い出し、なら
「鬼との約定を違えるとは。――」
怨みの色はない。呆れているのだ。
「かの大悟、沢庵宗彭さまならいざ知らず、あなたといい、但馬守さまといい、鬼というものが怖くはないのですか」
「女はみんな怖いものよ」
連れ立って、方丈への小路を進む。
夕餉の香りが漂ってくる。これは粗食に勤しむ坊主たちにはつらい匂いだろう。離れた小屋でよかったといえる。
「もし。――」
女が呟く。
「もし我が肉体の本性をさらけ出せば、さしもの方々も
「女が化粧して化けるのは、大和の昔からの伝統よ。いまさらだな」
「白粉やお歯黒の類いではございませぬ」
「……同じだよ」
そのときの優しい声音はずいぶんと落葉の心にすとんと染みた。
一気に瘴気と毒気が抜かれた気がする。この男は怖い物知らずなのか、図太いだけなのか、はたまた。
あの柳生宗矩が推す人間なだけはあるのだろう。
鬼である自分を背後に回しておいて、こんなに隙だらけなのに。
ふと、そんなことを考えてしまったときである。
「仕掛けてくるなら相手をするが。――」
と、肩越しに振り返る宗章の笑みに、武術家の誘いを受けうなじが総毛立つ戦慄を覚えた。
「ふふ。冗談、冗談。――」
ちゃぽんと、酒瓶が鳴る。
鳴って、ようやく揺れ始める。
彼は油断などしていなかったのだ。
味噌仕立ての雑炊が煮える音に迎えられ、宗章は方丈――かささぎ庵というらしい――の縁側に腰を掛ける。出迎えたのは中にいたもうひとりのおんな、尼僧姿の藤斬丸である。彼女は名を名乗ったあとに「逃げたかと思ったぞ」とひとこと毒づくと、ひょいとばかりに碗を差し出してくる。
雑炊だ。
「頂こう。なれば、酒を持ってきた。杯は……碗でよいか」
「酒。飲んだことは……ないな」
受け取った酒瓶をちゃぽんちゃぽんと振りながら、藤斬丸は小首を傾げて耳を当て水音を不思議そうに聞いている。
「
「しってる。偉そうにするな」
こちらの妹鬼は随分と口が悪い。
聞こし召すは、聞くの尊敬語。飲む、食べる、何かをする、などのときにふざけて使う言い回しだが、香りを楽しむことを『聞く』ということからも、五感に心地よい感覚を与える一連の行いに対してよく使う。
「藤、失礼はなりませぬよ」
こちらは落葉である。
彼女はちゃんと草履を脱いで、三和土より上がってきたのだ。上がってこない宗章には、特に何もいわないのは、むこうも恐らく用向きが分かっているからだろう。
「古来より、鬼には酒と相場が決まっているからな。ふむん……なあ、箸をくれ。いくら何でも碗から啜れなどとはいうまいな。お前なら手づかみでいきそうだが――そんな顔で睨むな、冗談だ」
「ほれ。使い終わったらかえせよ。私らはまだなんだから」
それでも妹鬼は行儀よく箸を差しだしてくる。育ちは良いのかもしれない。身の回りの世話は、この藤斬丸がやっているのであろう。
しかし、この方丈、いや庵というほうがしっくりくる。方丈は、文字通り一辺
徳川の菩提寺ゆえ、それなりに使う身分の歴々が身を隠すときに使っているのかもしれないと宗章は――弟の仕事を思い出し考えている。
「表向きは方丈なんだろうな。――馳走になった。ほれ、箸」
「喰うの早いな。犬か何かか」
「お前はスミのような黒髪だな。雪舟の絵から生まれたのか」
箸を受け取り「阿呆か」と引っ込む藤斬丸。彼女に先に食べるよう落葉御前は促し、小広の縁側に膝を整えて座る。
(御前は身分ある男女への呼称、とりわけ婦人への呼称の印象が強い。それに、丸は幼い男に付けるもの――が、おんな、か)
不思議なふたり組であった。どちらも瞳は乳黄色である。鬼なのだろう。
そんなふたりの瞳じみた色の月を見上げる。
満月である。
ふと、宗章は目を閉じる。
「ほんらいなら。――」
落葉御前が、静かに口を開く。
「ほんらい、
「柳生屋敷に、望月まえに顔を出しておいてよかったというわけか」
宗矩のことゆえ、兄が金を無心しにくるタイミングを読み、それとなく調整くらいはしていそうであった。小憎らしい。
「藤。――」
落葉御前がひと声掛けると、茶碗を置く音とともに囲炉裏の火が沈められる。次いで、フっと――行灯の火も吹き消される。
刀袋を携えた藤斬丸が縁に出て障子を閉めると、暗く沈んだ闇が落ち着いてゆく。光の下にいた者なら、この闇に目が慣れぬ内は一歩先も見えないだろう。
そのとき、宗章はゆっくりと閉じていた目を開く。
あらかじめ慣らしたその暗闇に、月の明かりが眩しいほどであった。木立の隙間からみえる天に雲は少なく、星は多い。冬を間近に控えた静謐な空に吸い込まれていきそうな錯覚を感じる。
しゅるりと、刀袋が解かれ、中からひと振りの太刀が現れる。白木の鞘ではなく、黒蝋塗りの拵え。カタバミの葉の透かしが小さく施された鍔に、鹿革裏巻の細めの柄。縁頭と柄頭にも黄銅の牡丹と椿の花が窺える。
刃長二尺四寸五分。
かの妖刀『喘月』である。
「お検めください。――」
喘月を鞘込めに受け取った御前が、手を袖隠しにして、太刀を恭しく宗章に差し出す。ぴしりとした、冷たい空気を感じる。
男に、柳生宗章に、あの但馬守の兄である達人に、血に狂わせる妖刀を手渡す。その緊張が、鬼のふたりの震えを含む呼吸に現れたのだ。
刀の危険性は彼も充分聞かされているであろう。手にするのも勇気が要る。そのため前日に話を重ね、覚悟を問おうとしたふたりであったが、あろうことか宗章は無言でそれをヒョイとばかりに受け取り、いちど月を見上げて深く長く呼吸する。
やや硬めの鯉口を握り開くと、キンという振動。鞘の中で喘月の
速やかに抜き、鋒を立てて月にかざす。その姿に「ほぅ」と嘆息する。
ここからが、本番である。
「小板目が能く詰む透き通るような青い海のような地鉄、その大海の波濤が大いに乱れるが如き刃紋。――」
そのときである。
柳生宗章は、その刃紋に浮かび上がる白き輝きが、己に問いかけてくる気配を感じた。
曰く、認められぬ境遇への怨嗟。
曰く、積み重ねたものが明るみに出せぬ憤懣。
曰く、血を以て贖わせるべき純然たる呪いの思念。
一瞬のうちに濃厚な瘴気を叩きつけられ、しかし――。
「そんなものは、剣者にはごくごくあたりまえのことよ」
脂汗どころか、冷や汗すら掻いていない、実に涼しげな表情だった。あの柳生但馬守宗矩でさえ、視界の端に映っただけで疲弊した呪いを受けて猶、宗章の表情は柔和な
――乗り越えたッ。
落葉御前が満月に目を見開く。驚いているのだ。
喘月の呪いが、宗章の肉体を縦横存分に通して、喘月自身へと帰結していくのを感じる。あり得ないことだった。
強い意志さえあれば、苦悶しつつも短い時間使いこなして用を成せるとは思っていたが、「まったく意に介さぬとは」と口に出し、彼の代わりに冷や汗を滲み出す。
それは少なからず藤斬丸も同じであったろう。
水平に寝かせた刀身を差しのばし、全体、その鎬筋を見る。と、太さは4ミリほどか、はっきりとした映りと呼ばれる古刀の輝きが奔っている。
「刃紋は沸出来。――」と宗章。
硬き鉄、マルテンサイトの粒子が白く大きく浮かび上がった刀刃であった。
「差し表の物打ちを、ご覧いただきたく」と落葉御前。目を伏せ、頭をやや垂れて促す。
差し表とは、刀の刀刃を上向きにして腰帯に差し装備したとき、外――表側になる面のことである。太刀の場合は刃を下に向け
物打ちとは、刀身に於ける斬突に使う構造と重心が整った部分の総称である。
「見えまするか」
喉を震わせぬ無声音で訊ねる御前に促され、袱紗を手に、その鋒から物打ちへと目を落としていくと……。
「これは妖し。――」
ここで改めて、宗章は呻いた。
見よ、白き粒子が輝き、金砂流れるが如き刃紋の流れに何やら浮かび上がってくるではないか。それは渦となり、禍となり、過ちを浮かび上がらせていく。
それは、顔であった。
絶望に歪む貌であった。
死の淵で喘ぐ断末魔の死に顔であった。
――ほん、ま。
幻聴ではない。浮かび上がった相貌が、たしかにその
恐ろしいばかりの粒子の輝きが、増したような気がした。
「これは。――」
「喘月の、
故に、喘月。
にえ、という言葉が、そのまま呪いとして機能する。
古来より言葉には力があると考えられている。
同音異義と因果が絡み、そのような呪いの発露となったのであろう。
「総髪の白装束。罪人のような男であった。ほんま、と呻いておった。よもや。――」
「差し裏の物打ちをお検めください」
それには答えず、促す。
宗章はスっと返すと、裏物打ちを月に賺す。
「これは。――」
同じく、その差し裏の刃縁に浮かび上がる白き粒子のまぼろし。転じて、愉悦の表情である。茫洋としたその吐き気を催すよくの貌が像を結びてゆくに従い、その僧形の禿頭貌が煌めく。
「柳生さまが喘月を以て討つべき、差し表に浮かんだ犠牲者の仇にございます」
「どこの誰なのだ。僧形、坊主が殺生を。――」
そこで、藤斬丸が言葉を差し挟む。
「表の男の名は、日野中納言
「すけとも、それにほんま、入道か」
「日野資朝、幕府を倒す謀反を企てた罪で、佐渡で斬首になったとされる男。本間入道は、罪人となった資朝を喘月の贄として斬り殺した破戒僧よ」
御前が伏した顔を上げ、「藤斬丸は喘月の因縁を調べ、読み解き、その総てを記憶している鬼にて」と口添える。
「なるほど、見聞きした者を忘れぬ、か。しかし、徳川幕府をひっくり返そうなどという企みがあったとはな。噂でも聞いたことがなかったが、まあなくもない話だな」
宗章が微笑む。
「で、その破戒坊主はどこにいる」
「おらぬ」
藤斬丸が呆れた顔でいう。
「いつの話をしている。日野資朝といえば、後醍醐天皇に仕えていた者だぞ。幕府は、鎌倉殿のことだぞ。太平記をしらんのか」
このとき、宗章はあんぐりと口を開いてしまう。
ともすれば、三百年ほどの大昔も大昔の話になる。
つまり――。
「仇はもう死んでいる」
「そういうことだ」
ふふんと笑う藤斬丸の表情が、月光に光る喘月の鎬地に写り込む。
宗章は「どうやって斬れと」と眉根を寄せる。その自分の顔を差し表の鎬地に写し見、次いで望月を見上げ喘ぎ呻くのであった。
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