第8話『魍魎斬り(下)』
黄よりも妖しい金の瞳に覗き込まれた瞬間、体中の力が抜けていくのを感じた。反面、その金の瞳に縁のある何かが、何をきっかけとしてか――暗闇に閉ざされかけた意識、その最後まで感覚は脳に繋がっているとされる聴覚を刺激する怨嗟の呼び声が聞こえた気がする。
新十郎の生い立ちは、戦が終わりし世の三男坊である。歳こそ二十歳そこそこであったが、弓と馬、そして剣の腕前はみっつ上の兄たちと比べても実に確かな者であった。
功労挙げねば、戦なき世のなか、一生涯――そう、一生涯日の目を見ることはない。養子に出されるか、当主の予備として『お控えさま』として飼い殺しにされるかである。
故に武芸に身を置き、新当流の目録を受けるまで心身を鍛え上げていたのだ。
が、しかし。かの関ヶ原でも活躍できず西軍総大将毛利は実に本州の西の西、周防周辺に追いやられてしまった。
もはや、身を立てること能わず。
そこにきての、今回の任務であった。
男から太刀を奪え。
その任務は、殿である毛利輝元より与えられたものではない。ましてや、父から下されたものではない。
過去、養子に出される話に出てきた武家の隠居からもたらされたのだ。
男から太刀を奪え。
持ち帰りし暁には、それなりの家に婿入りさせ、家督を継がせるという内容であった。その家は、新十郎も聞いたことのある家であった。
それなりの家である。
血肉を捧げて武芸に励めども、戦働きで武功明るく立身出世などという時代ではなくなっていることを、大名たちも、いまの侍も、浪人一歩手前のこの新十郎でさえ肌身に感じている。
江戸屋敷から先んじて動きを探り、八州を出たところで仕掛け――太刀を奪って、手下を連れて山賊にでもなるか。足利の秘宝とやら、売ればさぞかし値が付くだろう。それを土産に、どこぞに雇われるのもいい。
どうせ身を立てられぬなら。
どうせ認められぬなら。
「――喘月」
新十郎は、右手の瘴気を宗章に突きつける。
欠けた月光と星の灯りが、中州のふたりに降り注いでいる。
「そいつをよこせ」
呟きと、要求を聞き、兼定を手にした宗章がフと笑う。
「剣者の囚われよの、香取新十郎。故に喘月に呼ばれた。この太刀にな。――」
左手で
欲しければ取りにこい。
そういっているのだ。
彼我の距離、およそ
聞けば遠い間合いだが、傍目にも遠く、しかし立ち合ってる当人から見れば――実に近い。互いに七、八歩も間合いを詰めれば打てば当たる撃尺の間合い。そのひと息手前、踏み込めば当てられる一足一刀の間合いまでにすべてがあろう。
「――太刀を抜かぬか、下郎」
「この一尺五寸、命に届くぞ」
(あの黒い、靄。刀剣のような、武器であろうな)
刃長の分からぬ瘴気の剣。
槍の長さか長巻の長さか、はたまた野太刀か脇差しか。
(武器の長さで有利を語るは兵法に非ず)
長さが可変であることも考慮に入れてしまうと、術中にはまる。そも、長柄の重さがあるのか。そも、扱う技量があるのか。思考の迷宮に陥ってしまう。
迷宮は人の手によるモノ。
息を大きく長く吐き出しながら、宗章はやや腰を落とす。
殺傷の気迫に満ちながらも、その表情は頤を上げかけた
音が、止んだ。
集中力が排除したのではない。
視覚と聴覚が渾然とし、個々、細やかな情報として脳へと届いているためだ。心胆と、肉体と、脳の脱力。情報のすべてを処理するために、心と体の脱力による最適かを一瞬でやってのけたのだ。
対する香取新十郎は、足を斜に開いた正眼の構えである。これぞ、不動。これぞ、新当流のお手本のような構えであった。靄の武器の鋒が、おそらく宗章の左眼あたりにピタリと付けられているだろう。
ひりひりする殺気が――いや、妖気が漂う。
「手出し無用。――」
静かに呟く。
御前と藤斬丸への言葉である。
闘争の気配を掻き回さぬよう、ふたりは川辺に控えて静かに呼吸をも押し殺している。
正眼に対し、脇差し担ぎの佇立。
彼我の間合い――八間ほどにいつの間にか迫っている。双方の足下の砂が、後を伸ばしている。摺り足で間合いを詰め合っていたのだ。
「柳生と申したな」
「左様」
「但馬の犬かと思うたが、よもや一族とはの。徳川に取り入って盤石なお主らにはわかるまい」
「俺は死人ゆえ、ご遠慮無用。柳生の意地は捨てられぬが、氏姓には未練はない」
静かな呟き。
元来、怪異の世界に於いて、人と妖怪が言葉を交わすのは厳禁である。常識の違いは、必ず混沌をもたらす。個々の話は正しくとも、引いて俯瞰すると矛盾しかない。それが混沌である。
「
新十郎の言葉にする前の言葉、呼気が音を形づくる瞬間の流れのまま、その肉体が弾かれるように間合いを詰めてきた。
飛来する矢の如く、間合いを詰め青眼のまま突きを放つ。
新島流秘剣、『霹靂』。俄に鳴り響く雷鳴の如き突きが一閃するや、寸毫で躱した宗章の体当たりによって新十郎の肉体が接近に勝るとも劣らぬ勢いで弾き飛ばされていた。
「――なぜ、斬らなかった」
それでも転倒しなかった新十郎は、暗黒の眼窩を宗章に向け、憎悪が抜けたかのような疑問を投げかけた。
「突きは、死に技。外せば死。この身の二十年を込めた霹靂、よぉ躱した。しかし、なぜ殺さぬ、なぜ斬らなんだ」
「ふうむ。気まぐれ――というわけではないな」
しかも宗章は、脇差しをも静かに納刀。
素手にて構えている。
「剣者の妄執、捨てられぬものか。これぞと決めた剣の道、その研鑽の果てが使い走りが如き刺客行では、収まりもつくまい。喘月は『認められぬ不遇』への怨嗟を糧に忍び寄り、その発散により世を渡り歩く魔性の剣。いまなお、そのような妖魅に操られたままでいいのか」
「……。――」
静かな問いかけに、新十郎が鋒をやや落としながら黙考する。
その鋒が、しかしまたツイと上げられる。
「無理か」
「これしか自分を証明するものがなし。哀れと思う勿れ、柳生新陰流。これで剣者として死ねる」
勝てぬだろうとは、新十郎も気付いている。
脇差しで対峙したときも、手加減されたとは思ってはいない。
肩での体当たりの際、当たらずに首を斬っていれば勝負はついていたのだ。脇差しは、半身片手撃ちの半径と間合いが広く、早いのだ。
そんな自分に、剣者として去れるか、死ねるかを問うてくれたのだ。敵だとて、対峙し生き死にを遣り取りする者の名誉を重んじる――それが武士の情けであると、このときやっと新十郎は思い出した。
その手から、靄の刀刃が消え失せる。
「呑まれたゆえ、理解る。いちど喘月の妖気に中てられた者は、もはや人としては死ねぬ。柳生……」
「柳生宗章」
「柳生宗章どの。香取新十郎、一手ご教授賜りたく」
人としては死ねぬが、剣者としてなら死ねる。
「承知仕った。――藤斬丸、香取どのの祐定を」
宗章の静かな言葉に促され、藤は彼の祐定の大小を手に、中州へと。瞳こそ黄金だが、女侍の姿である。
彼女より太刀と脇差しを受け取った新十郎が腰に差すのを、宗昭はじっと待つ。
そして、お互いに抜刀。
新十郎は太刀を、宗章は脇差しを。
「新陰流、『
「新当流、『水仙』。――」
交錯は一瞬だった。
宗章の右首に落とされた刀刃が皮膚に接触する直前、その小手が脇差しによって切り飛ばされていた。そのまま右腕を伸ばしただけで、あっさりと脇差しが心臓を貫いていた。
血と共に染み漏れた「お見事」の言葉。
即死であった。
魍魎と化した男が、最後に剣者として立ち合い、死ねたのだ。
その肉体がどさりと中州に倒れ伏すのを確認し、川の水で脇差しを洗い、袖で拭き清め納刀する。重い息が漏れた。
「剣の担い手として魅入る魔性、剣の運び手として誘う魔性。やはりこの剣、捨て置くわけにはいかぬな。――」
されど、毀せば呪いだけ残り、将軍は狂い、世はまた乱れに乱れるだろう。
ゆえに、呪いを解かねばならない。
この喘月に討たれた者の無念を祓い、喘月そのものの無念も――。と、宗章は、自分がすべきことを考え、ようやくストンと腹に落ちるものがあった。
「宗章どの」
落葉御前が、屍を抱えて川から戻った彼に尋ねる。
「なぜ太刀で戦わなかったのです」
さも疑問のように聞くが、御前にとっては確認するような問いかけであることは宗章も承知している。
答えは簡潔だった。
「この喘月に、これいじょう血を吸わせるわけにはいかぬ。喘月で斬るは、仇――その幽鬼のみ」
「……。――」
ふかく頭を垂れる御前に、藤斬丸がそっと付き従う。
「いじわるをするな、侍」
「何をいうか」と、新十郎の骸を手下の側に寝かせる宗章。
大小を彼の腰から抜き胸の上に抱えさせるよう合掌させ、宗章もまた彼に手を合わせる。
「言えないことを抱えてるんだ。少しは責めんと気が済まぬではないか」
「小さい男だ」
「なんと。こんないい男を捕まえてなにをいうか」
「死者の
「……。――」
「おい、何か言え。ほんとに考えてたのか。おい」
宗章は答えず「さて」と切り替えて立ち上がる。
「始末自体は、朝に起きるであろうこの者らに任し、俺らはも少し離れたところで寝るとするか。馬に水を飲ませ、草を喰わせ、やることは多いぞ。な、藤斬丸」
「そうだな」
と、にべもない。
さっさと馬を曳いていく藤斬丸と、目礼し先を行く御前。
その背を追うように、宗章も自分の馬を連れて歩き出す。
(近くでも、無念を孕む者を惑わす。劣等感、閉塞感を持つ素養ある武士には、注意せねばいかんか。なんとかせねばな)
月は欠けた光りを落としている。
新月まで、のこりわずかである。
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