第7話 一大事
つい漏らしてしまった
「申し訳ございませぬ。あの、まるで
「馬鹿な」
弁明がまったく弁明の体を為していないことには、言っている途中で気付いた。言葉を尽くして真摯に詫びるだけ、定信公の発言の歪みを強調することになってしまう。息子のために声を荒げていた
「あり得ぬことでございます。
静かに頭を下げた
「……話を戻すが」
「
穏やかに微笑みながら──それでも意次の目は油断なく定信公の反応を窺っていた。これは戦いなのだと、先に八重が訴えたのをなぞってくれているかのよう。こちらの一手に敵がどう出るかを見極めようとしていると見えた。義理の父の初めて見る老獪な表情に、八重はやっと理解した。負けの形、とはどういうことかを。
意次は譲歩を示したのだ。定信公に退く気がないのを見て取って、龍助の身柄と自身の進退を引き換えにしようとしている。金弥を訪ねた時のこの御方とのやり取りは、先ほどすでに報告している。金弥に
(無理を押し通そうとする方に、ここまで言わずとも良いのに……!)
八重にしてみれば過ぎた譲歩では、あるのだが。いわば、講和が成るのかどうか──考えるのを人任せにしたらしく、ふんわりとした面持ちで座る周防守以外の全員が、息を呑んだ。
勝ち誇って笑んでも良いところだろうに。だが、定信公は整った顔を露骨に顰めた。
「逃げるおつもりか」
吐き捨てるような非難の言葉に、八重は耳を疑った。万喜も金弥も同じなのだろう、揃って目を剥いている。周防守でさえ驚いた風で落ち着きなく周囲を見渡している。ただひとり、意次だけが答えを予想していたかのように泰然と構えていた。
「私が始めたことの行く末は、見届けるべきなのであろうが。だが、後進にも優れた心ある方がいらっしゃる。老骨は潔く引く時期なのかもしれぬと思うのだ」
「それもまた我が身可愛さとしか思われぬ。自家のために幕政を投げ出すとはいかなる
意次が何を言おうと、この御方は難癖──としか言えない──をつけると決め込んでいるかのようだった。しかも、例の高みから見下して教え諭す口調を崩さないのだ。
(何なのだ、この御方は……!)
「父が退けば老中の座にも空席が出ましょう。越中守様が進まれるのではないのですか」
高慢な物言いに耐えかねたのか、八重がまた口を滑らせる前に、と思ったのか。金弥が上げた声も即座に切り返される。
「このように易々と譲られて喜べるものか!」
八重と万喜の、不安に揺らぐ視線が交わった。定信公は、まるで意次が悩み苦しんだ末に失脚するのでなければ承知しない、とでも言うかのようだ。低い出自の成り上がり者であること、政策の上での考えの違い、将軍家を追い出されたと信じているらしいこと。意次を目の敵にする相応の理由があるのだとしても、あまりにも幼稚で狭量だ。とはいえ嗤うこともできない。この方には実際に意次を破滅させ得る権力がある。それに──明らかに歪んだ性根で喚く姿を嘲るなど、人として憚られてしまうではないか。
「違う……違うのだ……もっと──」
女からの同情と気遣いの目は、高貴な方の矜持をいたく傷つけたに違いない。自身を弁護する理屈を探してか、定信公の口が虚しく開閉し、ぎょろりと開いた目が、助けを求めるように金弥のほうへと泳いだ。
「貴殿にも分からぬのか。父君の勝手で家を出されたのは貴殿も同じであろうに。悔しいとは、怨みには思わぬのか……!」
絞り出すような声に、八重はようやく悟る。金弥に対する、この方の奇妙な馴れ馴れしさの理由になるかもしれないことを。
(金弥様も、
同じ被害者の立場だと思えばこそ、意次と対立しているにも関わらずその息子と交際していたのだ。
定信公の縋るような問いかけに、一心に集まったその場の者たちの視線に、金弥は軽く顔を顰めた。そしてちらりと八重を見てから、静かに首を振る。
「分かりませぬ。田沼家と
婿入り以来、まったく変わらぬ考えであったかどうかは分からない。だが、少なくとも今の金弥には微塵の迷いも見えなかった。にべもない否定に、誇り高い貴公子は、何を思ったのか──けれど、定信公が口を開く前に、襖が音高く開かれた。同時に、浮足立った声が割って入る。
「殿……! 一大事にございます!」
「何ごとだ、騒々しい」
定信公らが訪れた時も、会話を中断させられた場面はあった。だが、さらなる来客の予定などないだろうし、身分高い客がいるのを承知しているはずなのに、無作法な振る舞いが気に懸かる。……一大事と聞くと、どうしても
「はっ、申し訳ございませぬ。ですが──」
ちらりと主の顔を窺って、一瞬間を置いてから、田沼家の家臣は恐る恐る、といった体で続けた。
「御城からの、遣いでございます。上様の親書を携えた上使が、殿に面会を、と……!」
「なんと。上様が……?」
もたらされたのは、とりあえず凶報ではなかった。とはいえ肩の力を抜くことなどできない。何しろ意次は老中なのだから。将軍
(上様?
西の丸からの遣いというなら、まだ分かった。八重が
「では、我らは失礼いたそうか。上様から主殿頭殿に、内密のご用件かもしれぬ」
「それには及びませぬ、周防守様」
「──え……?」
厄介を恐れて逃げようとした、としか思えない周防守を、若い男の声が押しとどめた。嫌というほど聞き覚えがあるその声に、八重の唇はまた勝手に声を漏らしていた。
「西の丸小姓を拝命しております、水野
上使──将軍の遣いとあって、一も二もなく奥に通されたのだろう。思わぬ事態に額に汗を浮かべる家臣の後ろに、いつの間にやら吉太郎が涼しげな笑みを浮かべて立っていた。
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