八重姫様御大変
悠井すみれ
八重姫様御大変
天明四年 八重姫様御心痛
第1話 八重と金弥
こっそりと屋敷を出ようとしていた夫の背に、
「お待ちくださいませ、殿。今日もご実家にお出かけになられるのですか?」
「──遊び歩いているかのように言うでない。請願を預かってのことである」
悪戯を咎められた子供が開き直るような拗ねた表情は、実にこの御方らしい。幼少のころであればきっと愛らしく、説教を免れることもできたのかもしれない。だが、あいにく、この方はとうに元服しているし、八重はそれほど優しくも甘くもない。
八重は深く息を吐き──そして吸うと、婚礼以来、数えきれないほど繰り返してきた苦言をまた述べる。
「であれば、父に取り次ぐのが筋かと存じます。ご実家の──
八重が言葉を紡ぐにつれて、金弥はあからさまに顔を顰めて横を向いてしまう。説教など聞きたくないと態度で示されて、八重の表情も夫と同じく険しくなるばかり。彼女だとて、言わずに済むものなら言いたくないのだ。彼女がひと言言うたびに、夫の心が遠ざかるのがありありと分かる。この十年というもの諍いばかりの夫婦であっても、まだ遠ざかる余地があるのが不思議なほどだ。
「この屋敷に居ついてくださらぬようでは、父と私の立つ瀬がございません」
「
大名や幕政の中枢を担う有力者に、諸々の相談事や請願が集まるのはよくあること、そのための日も来訪の作法も定められている。何しろ金弥の父君は今を時めく老中、
八重の父、
「本当に世のため人のためということならよろしいのですが」
「何が言いたい」
八重が言わんとすることなど分かっているだろうに、金弥は足掻いて妻を呆れさせる。言いたくもないことを、また口に出さざるを得なくなってしまう。
「神田橋様の方では、酒を過ごすことも夜を徹しての浮かれ騒ぎもなさいませんな? まして──女を侍らせたり、などとは」
田沼邸では毎日のように華やかな宴席が設けられ、音曲や笑い声が絶えないのだ。とはいえそれも社交の上で必要なこと、夫が首肯してくれさえすれば、「そういうこと」として見送ることもできるだろう。だが、今日の金弥は妻に当たる気分のようだった。
「選ぶ余地があればお前のような女を妻に選ぶものか。息抜きをして何が悪い」
露骨な侮辱に顔色を変えないために、八重は相当の気力を奮わなければならなかった。彼女が傷ついた様子を見せれば金弥は喜ぶのだろう。それくらいなら、可愛げのない女と思われるほうが我慢できる。
「当家に恩を着せたおつもりですか。私としても、望んだことではないのをお忘れくださいませんように」
武家の次男以下は、養子の話がなければ生涯を部屋住で終えるものだ。水野家二万五千石の跡取りになれたのだからありがたく思え──などとは口が裂けても言いたくはないが、水野家は田沼家の権勢に擦り寄ったのだ、とでも思われているなら心外この上ない。
八重と金弥と、夫婦はしばし睨み合い──そしてどちらからともなく目を逸らした。
「珍しく気が合うことだな」
「まことに。今日は槍でも降るのかもしれませぬ。どうぞお気を付けて──」
言うだけ言って踵を返した八重の耳に、衣擦れの音が遠ざかるのが聞こえる。妻の機嫌を取るために慌てて引き返す気遣いなど、夫にはもう望めないのだ。
* * *
三月も末の春の陽気を、八重はひとり縁側で堪能した。当主である父が住まう上屋敷でなくても、彼女たち夫婦が住む
「華、華。今日の夕餉はそなたとふたりきりのようだ。鼠など食っていないだろうな?」
八重が撫でると、華はころりと寝返りを打って反対側も、と横着にねだる。日差しで
と、八重の手元に影が落ちて、頭上から乾いた声が降って来た。
「今日はずいぶんとしおらしくしているのだな。お前らしくもない」
「父上……!」
大名屋敷の最奥に、先触れもなく通れる者は限られている。その声も、慌てて見上げた八重の目に入った姿も良く知る人のもの。水野家の当主
忠友が八重の隣に腰を下ろすと、華が彼女の膝から飛び降りて庭に消えた。見慣れぬ男の存在に驚いたのだろう。せっかく寛いでいたのに、と。八重は軽く父を睨んだ。
「急なお越しでございますな。あらかじめ知らせてくだされば、我が殿をお引止めしておきましたのに」
「いや、たまには親子水入らずで話そうと思ってな。金弥殿がおられぬのは承知の上よ」
婿と会って話す気はない──つまり、父は孝心の足りぬ婿を咎める気はないということだ。田沼家の繁栄の恩恵に、水野家も大いに預かっているのだから当然だが。だから、金弥の不在を狙って、わざわざ娘に耐えろと言いに来たのだ。これでは金弥が増長するのも当然のことだ。とはいえ慣れ切ったことだから、八重には特段の悲嘆も憤りもない。
「ご用件は察しましたので仰いますな。私のことはお構いなく。お家のためと思うて、主殿頭様にお仕えするつもりで務めますもの」
「八重、そう頑なになるな。お前に可愛げがあれば、金弥殿も、少しは──」
「私が悪いと仰せですか」
遊び女のごとく媚びろとでも言いたげな物言いに、八重は険をこめて父を睨んだ。暖簾に腕押しとばかりに、曖昧な笑顔で流されただけだったが。
「ほら、その怖い顔だ。笑っていれば見目は良いのに。婿殿がおられぬなら何か気晴らしに出かけるとか──それとも、着物でも
小娘に対するような機嫌の取りようは、八重の気に入るものではまったくなかった。絵師に特別に注文して着物に絵を描かせる描絵小袖など、年増には過ぎた贅沢だ。金弥に見せても、喜ぶこともないだろうに。
「気晴らしというなら、
だから彼女は背筋を正し、ひたすら庭だけに目を向ける。華が虫でも見つけたのか、黒い尻尾の先が茂みから覗いて揺れていた。
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