八重姫様御大変

悠井すみれ

八重姫様御大変

天明四年 八重姫様御心痛

第1話 八重と金弥

 こっそりと屋敷を出ようとしていた夫の背に、八重やえはそっと忍び寄った。囁く声は低く、けれど鋭く、匕首あいくちの一撃のように。


「お待ちくださいませ、殿。今日もご実家にお出かけになられるのですか?」


 うるさい妻の目を盗みおおせたと思っていたのだろう。夫の金弥きんやの肩が、ぴくりと跳ねた。八重へと振り向いた時、その端正な顔には、気まずさよりも苛立ちが濃く滲んでいる。青々と剃り上げた月代さかやきにも、冷や汗のひと粒も浮かんでいない。


「──遊び歩いているかのように言うでない。請願を預かってのことである」


 悪戯を咎められた子供が開き直るような拗ねた表情は、実にこの御方らしい。幼少のころであればきっと愛らしく、説教を免れることもできたのかもしれない。だが、あいにく、この方はとうに元服しているし、八重はそれほど優しくも甘くもない。


 八重は深く息を吐き──そして吸うと、婚礼以来、数えきれないほど繰り返してきた苦言をまた述べる。


「であれば、父に取り次ぐのが筋かと存じます。ご実家の──主殿頭とのものかみ様のご権勢は承知しておりますが、貴方様は当家に婿入りなさった身でいらっしゃいます」



 八重が言葉を紡ぐにつれて、金弥はあからさまに顔を顰めて横を向いてしまう。説教など聞きたくないと態度で示されて、八重の表情も夫と同じく険しくなるばかり。彼女だとて、言わずに済むものなら言いたくないのだ。彼女がひと言言うたびに、夫の心が遠ざかるのがありありと分かる。この十年というもの諍いばかりの夫婦であっても、まだ遠ざかる余地があるのが不思議なほどだ。


「この屋敷に居ついてくださらぬようでは、父と私の立つ瀬がございません」

神田橋かんだばしに取り次いだ方が話が早いのだ。人助けということにもなろう」


 大名や幕政の中枢を担う有力者に、諸々の相談事や請願が集まるのはよくあること、そのための日も来訪の作法も定められている。何しろ金弥の父君は今を時めく老中、田沼たぬま主殿頭意次おきつぐだ。神田橋に所在の田沼邸には、武家から商人、町民にいたるまでが幾重にも列をなすという。


 八重の父、水野みずの出羽守でわのかみ忠友ただともも老中格の幕臣ではある。だが、もちろん田沼意次の権勢には敵わない。どうせ頼むなら主殿頭様に、と考える者は多いのだろうし、そこで、婿入りしたとはいえ実の息子の金弥を介して渡りをつけようというのも理に適ってはいる。だが──


「本当に世のため人のためということならよろしいのですが」

「何が言いたい」


 八重が言わんとすることなど分かっているだろうに、金弥は足掻いて妻を呆れさせる。言いたくもないことを、また口に出さざるを得なくなってしまう。

「神田橋様の方では、酒を過ごすことも夜を徹しての浮かれ騒ぎもなさいませんな? まして──女を侍らせたり、などとは」


 田沼邸では毎日のように華やかな宴席が設けられ、音曲や笑い声が絶えないのだ。とはいえそれも社交の上で必要なこと、夫が首肯してくれさえすれば、「そういうこと」として見送ることもできるだろう。だが、今日の金弥は妻に当たる気分のようだった。


「選ぶ余地があればお前のような女を妻に選ぶものか。息抜きをして何が悪い」


 露骨な侮辱に顔色を変えないために、八重は相当の気力を奮わなければならなかった。彼女が傷ついた様子を見せれば金弥は喜ぶのだろう。それくらいなら、可愛げのない女と思われるほうが我慢できる。


「当家に恩を着せたおつもりですか。私としても、望んだことではないのをお忘れくださいませんように」


 武家の次男以下は、養子の話がなければ生涯を部屋住で終えるものだ。水野家二万五千石の跡取りになれたのだからありがたく思え──などとは口が裂けても言いたくはないが、水野家は田沼家の権勢に擦り寄ったのだ、とでも思われているなら心外この上ない。


 八重と金弥と、夫婦はしばし睨み合い──そしてどちらからともなく目を逸らした。


「珍しく気が合うことだな」

「まことに。今日は槍でも降るのかもしれませぬ。どうぞお気を付けて──」


 言うだけ言って踵を返した八重の耳に、衣擦れの音が遠ざかるのが聞こえる。妻の機嫌を取るために慌てて引き返す気遣いなど、夫にはもう望めないのだ。


      * * *


 三月も末の春の陽気を、八重はひとり縁側で堪能した。当主である父が住まう上屋敷でなくても、彼女たち夫婦が住む浜町はまちょう中屋敷も十分に広い。ほど近いはずの日本橋の喧騒も壁と木々に阻まれて、八重の耳に届くのは風が葉を揺らす音だけ。目に入るのは、滴る緑に海棠の薄桃色の彩。膝では三毛猫のはなが身体を丸めて喉を鳴らしている。まことにのどかで麗らかで──けれど、静かすぎて退屈すぎる。子供の笑い声も泣き声も響かないから、だろうか。


「華、華。今日の夕餉はそなたとふたりきりのようだ。鼠など食っていないだろうな?」


 八重が撫でると、華はころりと寝返りを打って反対側も、と横着にねだる。日差しでぬくまった明るい色の毛皮は柔らかく、緩みきった身体の重みさえ愛らしい。だが、猫は猫であって人の子ではない。子がいれば、金弥との関係も少しは違ったものになっていただろうか。あるいは、夫に置き去りにされても寂しさを感じることもないだろうか。婚礼を挙げて十年近く、三十路を間近に迎えては、もしも、を考える気力も尽きかけている。


 と、八重の手元に影が落ちて、頭上から乾いた声が降って来た。


「今日はずいぶんとしおらしくしているのだな。お前らしくもない」

「父上……!」


 大名屋敷の最奥に、先触れもなく通れる者は限られている。その声も、慌てて見上げた八重の目に入った姿も良く知る人のもの。水野家の当主忠友ただともが、娘を訪ねて来たのだ。


 忠友が八重の隣に腰を下ろすと、華が彼女の膝から飛び降りて庭に消えた。見慣れぬ男の存在に驚いたのだろう。せっかく寛いでいたのに、と。八重は軽く父を睨んだ。


「急なお越しでございますな。あらかじめ知らせてくだされば、我が殿をお引止めしておきましたのに」

「いや、たまには親子水入らずで話そうと思ってな。金弥殿がおられぬのは承知の上よ」


 婿と会って話す気はない──つまり、父は孝心の足りぬ婿を咎める気はないということだ。田沼家の繁栄の恩恵に、水野家も大いに預かっているのだから当然だが。だから、金弥の不在を狙って、わざわざ娘に耐えろと言いに来たのだ。これでは金弥が増長するのも当然のことだ。とはいえ慣れ切ったことだから、八重には特段の悲嘆も憤りもない。


「ご用件は察しましたので仰いますな。私のことはお構いなく。お家のためと思うて、主殿頭様にお仕えするつもりで務めますもの」

「八重、そう頑なになるな。お前に可愛げがあれば、金弥殿も、少しは──」

「私が悪いと仰せですか」


 遊び女のごとく媚びろとでも言いたげな物言いに、八重は険をこめて父を睨んだ。暖簾に腕押しとばかりに、曖昧な笑顔で流されただけだったが。


「ほら、その怖い顔だ。笑っていれば見目は良いのに。婿殿がおられぬなら何か気晴らしに出かけるとか──それとも、着物でもあつらえるか? 狩野派の、贔屓の絵師がいたのではなかったか?」


 小娘に対するような機嫌の取りようは、八重の気に入るものではまったくなかった。絵師に特別に注文して着物に絵を描かせる描絵小袖など、年増には過ぎた贅沢だ。金弥に見せても、喜ぶこともないだろうに。


「気晴らしというなら、万喜まき様に芝居見物のお誘いを受けております。父上からお気遣いいただく必要はございませぬ」


 だから彼女は背筋を正し、ひたすら庭だけに目を向ける。華が虫でも見つけたのか、黒い尻尾の先が茂みから覗いて揺れていた。

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