第2話 凶報
江戸三座のひとつ
ごく近しい姻戚で立場も近いとなると、話題は、自然と互いの夫のことになる。昼を過ぎて、次の幕間までにはまだ間があるという緩んだひと時、眼下の座席から聞こえる喧騒に紛れさせて、八重は夫の愚痴を零した。
「──我が殿は、屋敷に居ついてくださいませんで。
「
万喜の夫は
「お恥ずかしいことでございますが。
意知は山城守に任ぜられ、先年には
「まあ、でも、金弥様も八重様に甘えていらっしゃるのかもしれませんし……」
憤慨する義妹に、万喜は困ったように首を傾け、茶をひと口啜った。婚家の身内の悪口に頷くのも、そうですねえ、などと惚気めいたことを言うのも気まずいことだろう。聞き苦しい余所の夫婦の不仲を聞かされて──それでも万喜は、優しく穏やかに笑むことができる人だった。
「遠慮のない物言いでも嫌われることはない、と──ある意味では打ち解けていらっしゃるのではないかしら」
「まさか……!」
そのようなことは絶対にない、と八重は思う。金弥は、父や兄や兄嫁の前では彼女に向けるような冷たい眼差しは見せないのだろう。万喜が述べたとおりに能力は優れ、傍目には願ってもない婿に見えるのが彼女の夫だ。本性を見せるのは妻の前だけ──いや、万喜の優しすぎる解釈に頷くわけではないのだが。
「もしもお気に懸けていらっしゃるなら、安心なさって。金弥様は、神田橋で……その、お目当ての方がいらっしゃるだなんてことはありませんから。父君や兄君もいらっしゃる屋敷で、そのようなことはございませんわ」
「それは──そうなのでしたら、喜ばしいこと、でしょうか?」
確かに、意次や意知ならば、息子や弟の無軌道は咎めるだろうか。金弥の貞節はともかくとして、八重は義父や義兄の人柄を信じている。万喜も、この場限りの気休めや慰めを口にするような方ではない。
「金弥様は八重様より年下でいらっしゃるし……ゆったりと構えていらっしゃれば良いのではないかしら」
「さようでございますね」
何であれ、心からのものと信じられる笑みを向けられれば、八重の気鬱も少しは晴れた。彼女も茶菓を摘まむと、話題を変えることにする。楽しい話もしなければ、誘ってくれた兄嫁に申し訳が立たない。
「ご子息は、
「ええ、お陰さまで。
自慢の息子の話になったからだろう、万喜は一段と笑みを深め、目を細めた。万喜の目には、十二になる龍助のやんちゃな姿が映っているのだろう。義理の甥だけに八重も同じ光景を思い浮かべるのは容易かった。
「頼もしいこと。田沼様もご安泰でございますね」
「あの、そう言う八重様は……?」
立ち入った話になってしまうからだろう、万喜もさすがに声を低めた。もっとも、八重は我が子を持つなどとうに諦めているから無用の心配だ。夫と共に過ごす機会さえ稀なのに、子を授かるはずもないのだ。
気にしていないと示すために八重はあえて晴れやかに笑ってみせた。
「私は、もう年増ですもの。何年かすれば、父も養子を探すことでございましょう。
娘夫婦が十年に渡って子に恵まれないというのに、父は呑気に構えている。家を継がせるなら血の繋がった孫に、という望みもあれば、田沼家への遠慮もあるのだろう。八重としては、利発な子を手元で育てることができれば、少しは人生に張り合いも出るだろうに、と常々思っているのだが。
「まあ、でもお若いのに──」
万喜がどのように慰めようとしてくれたのか、八重は最後まで聞くことができなかった。背後から慌ただしい足音が近づいたかと思うと、通路と席を隔てる戸が音高く開かれたのだ。
「山城守様のご正室様は、こちらにいらっしゃいますか!?」
「何ごとですか。騒々しい」
無礼な闖入者に、さすがの万喜も眉を寄せて声を尖らせている。幕間で、場内の客が好き勝手に騒いでいたとはいえ、万喜に呼びかけた者の声は少々大きすぎた。平土間の客の一部は、不躾にも八重たちがいる桟敷を覗こうと背伸びをしている。山城守の名を聞き取った者はどれだけいるだろうか。こちらを見上げては指さし、何ごとか囁き合う者たちもいるのを見て取って、八重の腹の底は不安と不快に騒めいた。
戸を開けた森田座の者の後ろから進み出たのは、八重も見知っている顔だった。神田橋の田沼邸で見たことがある。芝居がはねるまでの数刻も待てないほどの要件、しかもこの慌てようはいったい何ごとか、八重には想像もつかない。
「お楽しみのところを申し訳ございませぬ。ですが、火急のことでございます……!」
万喜と八重とが身構えたところへ、その男は平伏した。声を潜める余裕も失くす、相応の理由はあるのだろう。だが、迂闊だった。大き過ぎる声は、桟敷席の変事を教えてしまったのだろう、眼下にはますます人が集まり始めている。
これは良くない、と思ったのも遅すぎた。八重が咎める暇もなく、その男の次の言葉は、満座に高らかに響いてしまった。
「江戸城内にて、山城守様が
「そんな──っ」
口元を抑えて悲鳴を上げた万喜の横で、八重は目を瞠って息を呑んだ。紙のように白い顔で男に詰め寄る万喜は、ことの次第を問い質しているはずだ。だが、何を言っているのかほとんど聞き取れない。平土間の客たちも、一斉に驚きや興奮を口にして沸いたのだ。
「刃傷沙汰? まるで忠臣蔵じゃねえか」
「山城守様ってのはどなただい?」
「主殿頭の倅だよ。この前若年寄になった」
「ああ、あの七光りの!」
「調子に乗っているからだろう。良いざまだ」
「天罰だな」
(何を……!)
聞き捨てならない放言を聞き取って、八重は思わず立ち上がり、平土間を睨め下ろした。だが、彼女の袖を引いて止める者がいた。
「八重様も、どうか。父君様も若殿様もご心配召されていることかと──」
水野邸から伴った侍女が、必死の顔で八重に縋りついている。父はともかく夫が彼女を案じるなどあり得ないだろう、などと。言っている場合ではないのはさすがに分かる。
「うむ……」
「早く、
促されるまま、八重と万喜は支え合い、よろめきながら桟敷席を後にした。背後から聞こえる蜂の巣を突いたような騒ぎに、押し出されるようにして。事件を聞いて下々が色めき立つのは当然のこと──だが、人が傷つけられて安否も知れぬというのに、騒ぎ立てる声はどこか楽しげで、はしゃいで浮き立つような気配さえ感じられて。八重の昂った神経を無性に逆撫でた。
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