第2話 亡公の影
思い詰めた表情の少年の顔を、
「
「だがな、
また手をつこうとする八重を遮って、
だから特段に驚くことも怒ることもなく、八重は少年を宥めようと笑みを浮かべた。
「我が一門の者を買ってくださったゆえでございましょう? 感謝こそすれ、お恨みするような心得違いはいたしませぬ」
この御方は、気に入りの小姓を手放すまいと焦っただけだ。幼い御方が真っ先に父君を頼ったとして、どうして責められよう。家斉公とて、一橋卿がその情報を利用して
だが、家斉公の表情は晴れない。すでに八重とさほど変わらない背丈のようなのに、身体を縮めるようにして、小さく呟く。
「……吉太郎の申す理屈は分かっていたのだ。
「一橋様は、何と仰られたのですか」
夫と妻、父と子を引き離すのが非道というのは当然のこと、八重も同様に父に憤ったものだ。だから家斉公が何を詫びようとしているのか分からぬまま、できるだけ穏やかに先を促す。
「子の栄達を望まぬ親はいない。手元に置いて父と同じ道を継がせるよりも、たとえ離れてもより高みに就けたいと願うものだ、と。……
これまで闊達で、生意気とさえ思えた少年が──立場からも生まれからも当然だったが──いっそ怯えた様子で教えてくれたこともまた、不可解だった。
(この御方も養子の身の上であったか。だが……?)
あの定信公などは、御三卿から養子に出されたのを追放の憂き目に遭ったように思われたらしい。だが、将軍の後継者として家治公の養子に迎えられたこの御方が、そのように
「恐れながら、大納言様はまだお若くていらっしゃいます。
腑に落ちないながら、八重は少年の幼い矜持を傷つけないように必死に言葉を選んだ。できるだけ優しく、怒りなど微塵も感じていないと伝えようと。だが、信じてはいただけなかったのかもしれない。家斉公は、激しく首を振ると、声を荒げて噛み付くように八重に訴えた。
「だが、儂は父上がそう仰るだろうと分かっていた! 知っていながら、甘えた性根で泣きついて……それで、越中守は
「まあ……そのような──」
不意に自身のことに話が及んで、八重の胸はちりりと痛んだ。離縁のことが覆れば、と願ったのは一度や二度のことではない。だが、その責を幼い方に帰することの愚は、臣下としても大人としてもよくよく承知している。
「そもそもは父が企んだことでございます。たとえ何もなくとも、私も吉太郎殿も、親や家長の命には逆らえませぬ。そして田沼様については、ほかならぬ大納言様のご尽力のお陰で、無理が通らずに済みました。これで感謝申し上げぬなど、忘恩にもほどがありましょう」
「八重。本当に怒っておらぬのか?」
八重が言葉を尽くしたにも関わらず、この方は、何もかもをご自身のせいだと考えているらしい。父君からの温かい言葉が欲しいばかりに、臣下の家々を乱してしまった、と。元を辿っていけば、それもまったくの嘘という訳でもないのかもしれないが──
(この御年でそこまで考えてくださるとは……!)
それでも、怒りや不満などとんでもない、八重の胸に浮かぶ思いは感動だけだ。上に立つ者の些細な言動は、時に大きな波紋を呼ぶものだろう。そうして思わぬ悪い結果が出た時に、責を他者に──民や臣下に求める主君も、往々にしていることだろう。だが、家斉公はそのような心の弱さとは無縁のようだ。直に仕える吉太郎のみならず、今は縁者に過ぎない八重にまで心を砕いてくださると知って、どうして悪い感情を抱くことなどできるだろう。
「まったく怒ってなどおりませぬ。むしろ、次の将軍となられる御方の御心の広さ深さを伺って、大変嬉しく心強く存じまする」
「そうか……」
八重の言葉も笑みも、心からのものだとやっと信じてもらえただろうか。少年の柔らかな頬もようやく緩み──けれどまた、すぐに心配げに曇る。
「吉太郎にも怒っておらぬか? 日本橋で会った時のこと、あの折に述べたことについて、ひどく叱責されたと聞いたが」
(ご世子様に何ということを……!)
婿入りについて初めて聞かされた後に、吉太郎に茶を浴びせたことを言っているのだろう。彼女自身の軽挙でもあるし、内輪の恥でもある。それを主君に対して口を滑らせたらしい吉太郎に対してこそ、八重は眉を逆立てかける──が、家斉公の内心を慮って、どうにか微笑みを絶やさずにいることができた、はずだった。
「あれは……私の非でございます。吉太郎殿のご事情も聞かずに早まったことをいたしました。私のほうこそ、伏してお詫び申し上げましたのに」
「そうか……?」
やや硬くなってしまった声での答えは、やはり不安を拭うには足りなかったのかもしれない。家斉公は首を傾げながら小さく頷いた。
「どうせあの者はすべて教えていないだろうから、この際そのことについても詫びる。そなたにも、そなたの夫にも申し開きのできぬことだが、どうか吉太郎を嫌ってくれるな。吉太郎は、儂のためにも気にするな、と言ったのだから」
首を傾げるのは、今度は八重のほうだった。だが、口に出して問う必要もなく、家斉公はひと際声を落して、なぜか周囲を憚る素振りをしてから八重の耳に口を寄せた。
「
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます