第2話 松平越中守定信
松が明けたころになって、
真冬の寒さにも関わらず、門前には相変わらず請願の人が列をなしていた。昨年の凶事がありながら図々しい、と憤ると同時に、田沼家の斜陽を恐れる父の懸念は杞憂に過ぎないのではないか、と一抹の安堵も覚える。いずれにしても、八重が第一に思うのは義父である方のことだ。
「
「暇を作らないようになさっているようにも見受けられる。以前よりも根を詰めることはない──できなくなっている、と言うほうが良いかもしれぬが」
寒中に待たされる請願者たちの長蛇の列は、むろん八重たちには縁のないことだ。奥に通された八重と金弥は、屋敷の主の身が空くのを待つ間に密やかに言葉を交わした。
「ご
意次は、近く一万石の加増を内示されているという。八重の父
「うむ、そうだな──」
金弥が頷いた瞬間に、障子ががらりと開く音が響いた。意次のいる座敷に呼ばれるのだろうと、八重は腰を浮かせかけたが──
「金弥殿。こちらにお出でと聞いて参ったぞ。まことに奇遇な」
現れたのは、金弥と同じ年ごろの侍だった。老中邸を訪ねるのだから当然ではあるが、肩衣の折り目も正しい
。
「これは、
越中守──朝廷から賜る官職を呼び名にしているということは、いずれかの大名家の当主であろう。金弥とも交流があり、意次を訪ねるような御方ならば、父も話題に出したことがあるのではないだろうか。
「ああ、貴殿のご実家ゆえ、奇遇というのもおかしな話か。だが、嬉しい偶然であった」
八重が記憶を探る間に、越中守はさっさと金弥の前に腰を下ろした。案内をしていたらしい田沼家の者が、座布団を敷くのに辛うじて間に合ったのは幸いだっただろう。
「──こちらは、奥方か」
越中守は、間近に見れば怜悧な印象の男だった。八重のほうへふと向けた視線がなぜか鋭くて、品定めをされた気分にさせられる。
「は。室の八重でございます。水野の家中は落ち着きましたゆえ、今日はこうして実家のほうに。──八重、この御方は
「まあ、『あの』──光栄にございます」
ともあれ、金弥が改めて紹介してくれた名は、八重が思い浮かべたものと相違なかった。敬意を払うべき相手と確かめて、遅ればせながら、恭しく手をついて頭を垂れる。
何しろ、白河藩の松平
(でも、なぜ主殿頭様のお屋敷に……?)
定信公は、血筋もこの上なく正しく優れた才を持っている。将軍世子の選定に当たっては、有力な候補として囁かれていたほどに。けれど実際には、次代の将軍として選ばれたのは、
女の考えなど知らぬ、とでも言いたげに、定信公は金弥と楽しげに語らっている。
「御作を拝読いたしましたよ。『大名かたぎ』──いや、愉快で、痛烈な。戯作までものにされるとはお流石でございますな」
「お恥ずかしい限りだが。儘ならぬことが多いと愚にもつかないことを書き散らしたくもなるのでな」
「まさか。御身に儘ならぬことなどございますまい」
いや、金弥のほうは、家柄も身分も上の貴公子に対して気を遣っている、だろうか。にこやかに話しているようで、どこか緊張が感じられるような。八重が夫の心中を慮るなど、おこがましいことではあるのだろうが。
八重が無言で見守るうちに、定信公はふと、声を低めた。
「そうでもない。お父上には度々お縋りしているのだが──なかなか、聞き届けてくださらぬのでな。金弥殿は主殿頭殿に会われるのだろう? ご承知のように──」
「申し訳ございませんが、越中守様」
露骨な強請りごとの気配に、身体を強張らせたのは八重だけだった。金弥はにこやかに丁重に、けれどきっぱりと首を振った。
「めでたい新年ですし、父にこの上の心労はかけたくはございません。今日のところは、世間話だけのつもりでおります」
「そう、か……。いたしかたないな。早くお心の張りを取り戻していただきたいものだ」
定信公が嘆息と共に漏らした言葉は、意次を気遣うものとは思えなかった。むしろ、さっさと立ち直って願いを叶えて欲しいのに、としか聞こえない。
(なんとお心のないこと……!)
苦言が漏れそうになる唇を、八重は必死に噛み締めた。定信公は、彼女には目もくれていない。そもそも、将軍家の血を引く貴公子相手に口答えなど許されない。
「まことに。お心遣い、痛み入ります」
平板な表情で頷いた金弥も、内心で反発を噛み殺したのだと思いたかった。定信公のもの言いは、意次だけでなく殺された意知に対しても冷淡過ぎるものだったから。
「いずれまた、道場で。それでは──」
定信公は、言うだけ言うと立ち上がり、辞していった。金弥がいると聞いてやって来たというのは、意次への強請りごとの後押しを得ようとしただけであるかのような慌ただしさだ。はきはきとした語り口に明晰さは感じたものの、情は薄い──身を切る冬の木枯らしのような。
足音が十分遠ざかったのを見計らって八重が溜息をこぼすと、金弥がぼそりと呟いた。
「柔術が同門なのだ。同い年のご縁もあって、それで」
だから交流がある、と説明してくれたのだろう。しきりに肩を回す彼も、やはり定信公とのやり取りに思うところがあるようだった。
「……越中守様が主殿頭様にお縋りすることとは、いったい何なのでしょう」
「そなたが気にすることでは──」
八重の眉に浮かんだ険を読み取ったのだろう、金弥はない、という言葉を呑み込んで、説明の言葉に代えてくれた。
「……白河藩を救ったご手腕を、幕政でも振るいたいとのお考えだ。御城では溜間(たまりのま)に詰めて、老中がたにも直接意見を申し述べたい、と」
江戸城の溜間といえば、諸大名の控えの間の中でももっとも格式の高い一室だ。将軍の御座所にも近く、席を許されるのは老中や名門の譜代大名だけ。将軍家の血を引く定信公ならば、あながち大それた望みとも言えないかもしれないが──
「意見を、というのは……主殿頭様に対しても、なのでしょうか?」
今の政道になんら不満がないのなら、意見を述べる必要などないだろう。あの御方の本心は、現在の幕閣──ことに、意次に対して物申したいということではないのか。
(それを、当の主殿頭様に願うのもおかしな話だが……)
疑問と憂いによって、八重は顔を俯かせていたらしい。ふいに、金弥の指が頬に触れて上を向かせた。それだけでは飽き足らず、強張った頬を解そうとでも言うかのようにむに、と摘ままれる。
「父上も承知されている。余計なことは言わずにこやかにするのだぞ」
「……はい。心いたしまする」
子供扱いのような言い聞かせられようは、不本意だった。だが、少しだけ嬉しくもあった。関係ないと切り捨てずに話してくれたことも、戯れでも手を伸ばして触れてくれたことも。
夫の手の温もりを惜しんで頬に触れるうち、ようやく意次からのお呼びがかかった。
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