天明五年 正月 八重姫様御憂患
第1話 拝賀の礼
半年ばかりが何ごともなく過ぎた。夏が過ぎ、秋が深まり、雪が降って冬となる。そして年の明けた
とはいえ、新年の挨拶を述べるべき父は、屋敷にはいない。正月は、江戸に参勤している諸大名は登城して将軍に拝謁する。老中格として幕政に関わる父は、その儀式を司る側として普段以上に忙しい。自らの家中のことまではとても手が回らぬから、家臣に対しては
「離縁を言い渡しておきながら、いまだ殿を良いように使おうとは。我が父ながら情けない限りでございます!」
「内密のことだからな。素知らぬ振りをするしかあるまいよ」
正月ならではの晴れ着──黒繻子に、金糸銀糸で雲取り紋に松を描いた打掛──を纏いながら、めでたい気分とは無縁で息まく八重を、金弥は苦笑でなだめるだけだった。父の命には従うしかないと諦めたかのように見えるのが、八重には悔しい。
「義母上に当たるでないぞ。めでたい新年なのだから」
「……心得ておりますとも」
それでも、誰よりも怒るべき方にそう言われれば、矛を収めるよりほかになかった。あの父の血を引きながら白々しい、などと言われれば返す言葉もないのだから。今の金弥は、そのようなことは口にすまい。だが、八重自身がそう思ってしまうのだ。
屋敷の奥向きに擁する広大な庭に、子供の高い笑い声が響いている。日ごろは当主夫婦のためだけに整えられた空間が、今日に限っては一族や家臣の子供にも解放されているのだ。男児であっても、十になるまでは子供のうち、本来は女しか立ち入れぬ奥にも足を踏み入れることを許されている。
寒さに負けずに駆け回る子供たちの熱気は、積もった雪も解かすようだ。冷えた身体を温めるため、熱い甘酒も用意されているのだが、子供たちはもっぱら甘味として賞味しているようだった。
庭先に幾つもの雪の兎やら人形やらが並ぶ一方で、座敷の中も
夫とふたりだけの暮らしで猫を愛でるばかりの八重にとっては、耳を聾する、と形容したくなる賑わいだ。雪玉が飛び交う庭の騒ぎを、目を瞠って見守る八重に、母が意味ありげに囁いた。
「幼い子供は可愛いものであろう。我が孫であればなおのこと、であろうなあ」
咄嗟に顔を顰めることも、ぴしゃりと反駁することもせずに済んだのは、金弥の忠告を思い出したからだった。それに、子らの母たち──水野家の重臣や分家の夫人たち──も引きも切らずに彼女たちの前に上がっている。人前で母と娘の諍いを見せる訳にはいかなかった。
だから八重は母と同様に声を落とし、それでもできるだけきっぱりと言い切った。
「不孝とは存じますが、私も年増でございます。今さら子など望みはいたしません」
父も孫への期待を口にしたことがあるが、それは両親の望みであって八重のものではない。むしろ、彼女を懐妊から遠ざけているのは、今はほかならぬ父だろう。離縁が近いのだから懐妊はならぬ、との父の言外の命を、八重も金弥もありありと感じ取っている。金弥との諍いは減り、対照的に語らう時間は増えたけれど、閨事など考えられない。
(確かに、愛らしく賑やかではあるが……)
この場にいるのは、いずれも華やかに装った、かつ躾の行き届いた子供たちだ。主家への拝賀に伴うだけのことはある。名前を聞かされるたび、父母に仕込まれたであろう口上を聞かされるたびにひと言ふた言声を掛けてやると、ただでさえ赤い頬をさらに紅潮させて頭を下げるのが愛らしい。ただ、それはあくまで他所の家の子の利発さを好ましく思うというだけ。父母が期待しているように自らの子が欲しい──ひいては離縁のあと、新たな夫を望む、などということではないのだ。
「またそなたは強情な──」
「奥方様、ご
唇を結んだ娘に、母は小言を言いかけたが、気を利かせたらしい侍女の口上によって遮られた。そして進み出た女が連れていたのは、八重にとっても知った名前の子供だった。
「長男の
「ああ、
雪乃は、日本橋で会った吉太郎の妻。その息子である午之助は、幼いながらに堂々とした振る舞いだった。食えない様子のあの男が目尻を下げたのを思い出すと、八重の口元は思わず綻ぶ。母も、近しい親族の跡取りの頼もしさに、目を細めた。
「跡継ぎが健やかにお育ちのようでほんに良かったの、雪乃。亡き勝五郎殿もさぞ喜んでおられることでしょう」
「まことに。七つまでは神のうちと申しますもの、今日まで無事に育ってくれて安心しております。幸いに、この子は心身ともに丈夫なようで……」
吉太郎に似合いの年回りの雪乃は、母の言葉に誇らしげに頷いていた。吉太郎は、雪乃の亡父──八重にとっては叔父にあたる水野
母と談笑する雪乃の姿を見て、八重はふと得心する。
(ああ、これが母の顔というものか……)
恐らくは、今年に限らず雪乃に限らず、子を持った女たちはこのように自信と誇りに満ちた顔をしていたのだろうが。自身が子を持つ想像をしていなかった──諦めていたために目に入っていなかったのだろう。儲けたのは娘だけとはいえ母も同じ思いを知っているはずで、ならば娘も、と考えるのはまあ自然な感情ではある。
(だからといって感謝申し上げるという訳にもいかないが──)
夫を奪って新たな婿を押し付けるのが道理に則っているかはまた別として、両親が娘を思っているのは、事実ではあるのだろう。
心の中で頷くと、八重は女たちに囲まれて所在なげにちんまりと端座している午之助に声を掛けた。丸い目が室内のあちこちをさまよった後、菓子の並んだ盆に釘付けになっているのに気付いたのだ。
「午之助殿、甘いものがお好みか? 何でも好きなものを召し上がると良い」
「まあ八重様、お心遣いを。午之助、きちんと御礼を申し上げなさい」
「……はい、ありがとう存じまする」
母の雪乃に促されてしっかりと頭を下げてから、そしてたっぷりと目と手を迷わせてから、午之助は梅や松を象った落雁をふたつ三つ、大事そうに掌にしまい込んだ。子供の真剣さを微笑ましく見守った後、大人たちはまた家の話に戻った。江戸城の大奥ほどではなくとも、女同士の社交も情報交換も、家の関係においては重要なのだ。
「吉太郎殿は
「はい、まことにありがたいことでございます。父が亡くなった時にはどうなることかと思いましたが、吉太郎様がしっかりと支えてくださって──」
「お若いのに頼もしいことでございますね」
八重と雪乃は、思えば近い立場なのだった。家を継ぐべき男子がおらず、婿を迎えた娘という意味において。無論、本家の姫である八重のほうが敬われるし、家に伴う所領も家臣も財産も、ずっと重みがあるのだけれど。雪乃の笑みは、夫と睦まじく健やかな子があることが何よりの幸せなのだと語っているようだった。
(この私に、雪乃殿を羨ましがらせようとなさっているのでしょうか、母上?)
吉太郎にも言及して話し込んでいるのはそれが目的なのか、と。娘が視線で問うたのは、意味ありげに笑みを深めた母にも伝わったに違いない。だが、言葉で答えが得られることはなく、表向きはにこやかに和やかに、女の宴は続いたのだった。
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