第4話 遅すぎはしない
「殿はもうお戻りか? 画の続きでもなさっているのであろうか」
「はい。そのおつもりとのことでしたが、お
「まあ」
猫に重石をされて仏頂面の夫を思い浮かべて、八重は微笑んだ。最近屋敷にいる時間が増えたからか、華は
先日の座敷に向かうと、梔子の花の香がまだ漂っていた。花の時期が終わる前に画を完成させたいのだろうが、金弥の手は所在なげに華の頭から背を撫でるばかり、侍女から聞かされた通りの格好は、いっそ哀愁さえ漂わせていた。
衣擦れの気配に金弥が立ち上がろうとするのを、八重はそっと止めた。
「華を驚かせないでくださいませ。せっかく気持ちよさそうに寝ておりますのに」
「うむ……」
前は、立場が逆だった。猫が膝にいたせいで、八重は立ち去る夫に追い縋ることができなかったのだ。その意趣返しとばかりに有無を言わせず横に座ると、金弥は諦めたように肩の力を抜いた。
華がいてくれて良かった。八重は、この際夫に言っておこうと思ったのだ。日本橋からの道々、足を運びながら考えたことだ。とはいえ前置きも必要だから、まずは外出の報告をしてからだ。
「
「そうか。大儀であった」
「もちろん、殿の分もございますから、今お出しいたします」
八重の言葉を契機に、あらかじめ命じておいた侍女が茶菓を運ぶ。八重が居座る構えなのを察したのだろう、金弥は顔を顰めた。
「待て。そなたの猫が邪魔だから何もしていないだけで──別に、暇な訳ではないのだぞ」
「では、華を追い出すおつもりですか。可哀想に」
またも華を盾にして首を傾げて見せると、金弥は渋面のまま何も言わずに華の毛を逆立てた。八つ当たりをされた華は、一大事と言わんばかりの勢いで、乱されたところを舐めて毛繕いする。が、それでも金弥の膝から動こうとはしない。その横着さは八重にとっては好都合だった。これで、夫は茶菓を口にせずにはいられなくなる。
「一日置いて砂糖がふいても美味ですから。また明日もお出しします」
「やけに機嫌が良いのだな。そなたが甘味を好むとは知らなんだ」
八重の好みも上機嫌の訳も、金弥は知るまい。八重も、夫が顔を顰めたままなのは、妻が気に入らぬのか羊羹が甘すぎるのか分からない。互いのことを何も知らぬ夫婦だということを心中で苦く噛み締めて、顔では笑みを纏って──八重は、本題を切り出した。
「
「それは、
いったい何を言い出すのか。いったい何を当然のことを。夫の怪訝そうな表情は、ふたつの疑問を浮かべていた。そのいずれにもゆるゆると首を振って、八重は正解を告げる。
「それだけではないのです。当時、同族の水野
それこそ神君家康公にも連なる名門であるがゆえに、水野姓を名乗る家は多いのだ。今になって思い出したのは、吉太郎に会ったから。それに──本家が窮地に陥ったとしても、助けを差し伸べられる存在があれば良い。そう気付いたのだ。
「…………」
金弥は無言で彼女を見つめ、先を促している。眉間の皺が深まったように見えるのは、八重が言わんとしていることを察したのかもしれない。多分、彼女の考えには反発するのではないだろうかと思うから。ただ、何も言わずに華を撫で続けているのは、何かしらの情の現れなのかもしれない。長くは持たないかもしれないが──とりあえずは夫の寛容に甘えて、八重は続ける。
「お家さえ繋がれば、再興することもできましょう。思えば、当家が大名家を再び名乗れるまでにも四十余年かかっております。父上は、田沼様の行く末をずいぶん暗いとお考えのご様子。それは正しいのかもしれませぬし、私とて親の命には逆らえませぬが──」
言葉を切って、ぎゅっと目を閉じた──八重の目蓋に浮かぶのは、先ほど会ったばかりの
彼らに直接助けを求めようとは思わない。だが、彼らがいるならば将来を悲観しなくても良いのではないか、と思ったのだ。世間の評判などしょせん移ろうもの、いちいち気にすべきではないのだとしたら。今を思い悩むのではなく、できることを考えて先に備えたい。若者たちと接することで、八重は目を覚まさせられたと感じたのだ。
「たとえ
田沼家が没落したとしても、八重の代では水野家が手を差し伸べる──背筋を凛と正して言い切ったのは、宣言であり報告だった。夫が何を言おうと、譲る気はない。そもそも離縁させられた後に彼女が何をしようと、干渉できるはずもないのだし。
「……前夫への操立てに付き合わされるとは気の毒な男だな」
「まあ、
だから金弥の棘のある物言いも予想のうち、八重は軽く受け流す。笑顔と渋面と──違う理由で目を細める視線が交わったのも一瞬のこと、金弥はすぐに目を伏せてしまった。
「そなたにそこまで言われたら、俺が拗ねている訳にもいかないではないか」
「別に、恩に着せるつもりでは──いえ、あの、今、何と……?」
またいじけたことを、と思いながら反駁しようとして、八重はあまりに思いがけない言葉に耳を疑った。独り言のような呟きは、果たして彼女が聞いて良いものだったのか。
「拗ねていたのだ、俺は」
まさか答えてくれるとは思っていなかったのに。金弥は意外にも、はっきりと言い直してくれた。嫌というほど見慣れたはずの皮肉っぽい笑みも、今は常とは色合いが異なるのも、分かる。金弥の苦い笑みは、自身を嘲るためのように見えた。
「父の権勢あってこその婿入りだ。俺の何が認められたわけでもない。しかも、大名家にだから虚勢を張って──だが、振りかざすものがなくなって、途方に暮れていたというところか」
「……そのようにお考えでしたか」
開き直ったように明け透けに語る夫に掛ける言葉が見つからなくて、八重はただ息を吐く。もっと早く言ってくれれば、とも思う一方で、聞いたところでかつての彼女なら叱りつけるだけだっただろうとも分かってしまう。だから何も言えないのだ。
「取るに足らぬ身になったと思えば、取り繕うだけ面倒だと思い始めたところだ。そなたにどう思われても気にするものか、と。──だが、そなたはそれを許さぬと言うのだな」
いつの間に猫の扱いを心得たのか、金弥の指は華を蕩けさせるのに成功していた。頬や顎を撫でられて、華は前脚の爪をしきりに出し入れさせて金弥の袴に穴を空ける。上機嫌の猫の、ごろごろと鳴る喉の音が八重の耳にはっきりと届く。本来の主としては妬ましくなるほどの懐きよう──だが、金弥は、どうも八重を直視しないために猫に構っている節が感じられた。
夫に、ちゃんと目を見て話して欲しい──少し前までの彼女にはあり得ない思いを抱いていることに驚きながら、八重は膝を進めて金弥の顔を覗き込もうとした。
「あの、私は勝手にそう決めたというだけで、殿にどうこうというつもりでは──」
「見損なうな。別れた後も尽くすと言ったようなものなのだぞ。それで気にせずにいられるか」
結果、きっと顔を上げた金弥の鋭い眼差しで間近に貫かれることになって、思わず息を呑む。夫がこうであったなら、と。八重が長年密かに考えていた真摯さを、今、このような時になって見ることができるなんて。
「父のため、龍助のため──
夫は、すぐにまた目を逸らしてしまった。だが、金弥の声の表情も、忘れようがなく脳に焼き付いた。なぜか早まる鼓動を宥めながら、八重は呟く。
「いえ……遅すぎるということは、ないかと存じます……」
この短い間に、どれだけ夫の知らない表情、知らない感情を知ることができたことか。少なくとも、彼女たちはやっと夫婦として互いに向き合えたと思うのだ。たとえすぐに別れが来るとしても、嫌い合ったままよりはよほど良い。そのように、八重は信じたかった。
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