第3話 若者たち

「気にしない……?」


 豊太郎とよたろうがひどく不思議そうに呟いた、その心中は八重やえにもよくよく察せられた。日ごろ屋敷の奥に籠っている八重でさえ、田沼たぬま意知おきともの死については聞きたくもない言葉を幾つも聞いてしまったのだ。公務もあれば市中に出ることもある吉太郎きちたろうならなおのこと、世間の評判に接する機会もあるのだろうに。


「ですが、吉太郎殿──」

「仰りたいことは分かります」


 それを捨て置けということか、と。鼻息荒く声を上げかけた八重に、吉太郎はあくまでも軽く笑って手を振った。若さと身分には相応の仕草なのかもしれないが、どうにもぞんざいに見えて仕方がない。


「とても信じられませぬな」

「とんでもない。山城守やましろのかみ様の件はあまりにひどい。人を殺めた者が崇め奉られて、殺された者が石を投げられるなど、許されるはずがございません」


 かと思うと、急に真剣な表情でまさしく八重の心に適ったことを言うのだから分からないのだが。意知おきともを斬った佐野さの政言まさことは、家こそ断絶になったものの、その墓には供物を供える者が絶えないという。田沼家の不正を糾弾した、世直し大明神などと呼んで。人を殺した者は唾棄すべき罪人のはずなのに、今の世の中ではそのていどの道理も通らないのかと、彼女ははらわたを煮えくり返らせては歯噛みしていたのだ。


「ただ、あの類の──人の不幸を喜ぶような手合いは、弱ったところを見せるといっそう図に乗るものでございます。獲物が弱ったところに群がるような、人よりも獣に近い性根なのでございましょうな」

「だから弱みを見せるな──気にするな、と?」

「はい。要はつまらないと思わせた方が勝ち、なのかと」

「あの者たちは、つまるつまらないであのような真似をしているのですか」

「さあ。某は経験がないので分かりかねます」


 身も蓋もない答えに八重が眉を寄せたのに気付いているのかいないのか。吉太郎は茶を啜りつつ、どこか遠くを見る眼差しをした。


「ただ、某ていどでも多少のやっかみを受けることはございまして。そういう時は笑って流す方が早く済むものですから。悔しがったりとか怒ったりとか言い返したりとか──構ってやると、喜ぶのですよ。堪えていると思うのでしょうな」

「武家にあるまじき、軟弱な態度に思えますな」


 吉太郎の考えは、処世としては無難なのかもしれないが、子供に聞かせるには相応しくない。大人ふたりに挟まれて、豊太郎は、困り顔になっているではないか。何より、八重自身が承服しがたい。


「言うべきことも言わず、為すべきことも為さずにやり過ごすだけなど──」

「そう、武家らしくない。だからこそ──はなはだ僭越とは存じますが、主殿頭とのものかみ様のなさりようが面白いと思うのでしょうな」

「面白い……」

「はい。何ごとも最初から上手く行くはずもなし、小人の嫌がらせなど大海にはさざ波のようなものでは?」


 とてつもなく無礼なことを言われたような、詐術で言い包められたような。決して納得はできないけれど、反論の糸口を見つけることもできないで、八重はむっと唇を結んだ。


「八重様」


 と、豊太郎がおずおずと声を上げた。


「ああ、すまぬな、豊太郎殿。見苦しいところを見せてしまった……」


 子供の前で怖い顔をしてしまったことを悔いて、八重は笑みを纏おうとしたのだが──


「私も、面白そうな世のほうが良いです」


 一度口を開くと、豊太郎は思いのほかに迷いなくはきはきと述べる。


「幕閣のご年配の方々のお話は堅苦しくてつまりませぬ。主殿頭様も実はそうなのですが、吉太郎殿が言うには何やら新しいことをなさっているようで……ならば、多少失敗しても怪しくても、主殿頭様の方が良いです!」


 これもまた無礼といえば無礼な断言に八重は目を丸くし、吉太郎でさえも苦笑いを浮かべている。どこか得意げな風さえ漂わせて胸を張る豊太郎は、恐らくは子供であることを利用している小生意気さがあった。だが、同時に可愛げもあって、叱りづらい。


「そう、か……」


 疑問も苛立ちもあったはずが毒気を抜かれてしまったようで、八重は息を吐いた。吉太郎も豊太郎も、これほどにさらりからりと言ってくれると、肩肘を張っているのが馬鹿馬鹿しくなってしまう。


 思えば、彼らはそもそも八重よりもよほど、政にも世間や江戸城内の機微にも通じているのだった。将軍世子の小姓は、旗本の子弟から優れた人材を広く募って選び抜くものだ。次期将軍となる御方の信頼を得れば重職を任されることもある。事実、田沼意次おきつぐも八重の父も、小姓からその経歴が始まっている。吉太郎も豊太郎も、将来は老中にもなるかもしれないのだ。


(その方々がこう言ってくれるならば頼もしい、のか……?)


 目を上げると、鶴田屋の庭は木々が陽を緑に透かし、間近のはずの日本橋の喧騒を和らげていた。瑞々しい色彩にやっと気付いた思いで、八重は目を細め──彼女の反応を待っているらしい吉太郎たちに対し、口を開いた。


「──以前、田沼様のお屋敷で、阿蘭陀おらんだ渡りの仕掛け細工を見せていただいたことがある。確か……平賀ひらが源内げんないとか申す学者の手による、えれきてるなるものであった」

「はあ」

「動かすと……こう、小さな稲妻が走るのだ」


 もう何年も前の記憶を辿って八重が手ぶりでその仕掛けの大きさを示すと、吉太郎と豊太郎は揃って首を傾げた。目上の相手だけに、唐突な話にもだからどうしたとも言いづらいのだろう。気の毒ではあるが、少し付き合ってもらいたかった。


「その仕掛けは、何の役に立つのですか?」

「さあ、それがまだ分からぬと」


 豊太郎が尋ねたのは、まさしく彼女自身が平賀源内や意次に聞いたのと同じことだった。今よりも若く悩みも少なかったころを思い出して、八重の口元は自然、綻ぶ。


「稲妻が自在に起こせるならば、灯りにするとか……火種の代わりにもなるのかもしれぬ。あの時は、珍しい見せ物でしかなかったが。だが、そのようによく分からぬものでも面白がって捏ね回すうちに何かものになるのかもしれぬ、のだとか」


 ここまで言えば、吉太郎は得心したように小さく頷いてくれた。豊太郎の方はまだ少し首を傾けたまま、けれど八重の言葉に真剣に聞き入る姿勢でいてくれるのが嬉しかった。


「若い方々の意気に触れて、目が覚める心地であった。これからの幕政を預かる方々のお考えに歪んだところがないのはまことに心強いこと。だから──どうか変節することなく勤めてくださるよう、お願い申し上げる」


 八重が深く頭を垂れると、ふたりが慌てて身動ぎする衣擦れの音が聞こえた。


「あの、八重様、そのような──」


 さきほどまで飄々としていた吉太郎が、打って変わって狼狽えたているのが愉快で、八重はしばし笑いを堪えて同じ姿勢を保った。



 鶴田屋を辞した後も、吉太郎たちは今しばらく市中見物を続けるということだった。豊太郎の門限までにはまだ猶予があるらしい。


「ずいぶん時間を取らせてしまった。休憩になれば良かったのだが」

「とんでもない! 菓子も美味でしたし、商人の家構えも物珍しくて──西の丸に詰める者たちには良い土産話になりました」


 見たい場所があったのでは、と。案じる八重に、豊太郎はどこまでも卒なく愛らしく微笑んだ。一方の吉太郎は、例の食えない雰囲気に戻って、にやりと笑いながら声を潜める。


吉原よしわらに行ってみたい、などと強請ねだられたらどうしようかと思っておりました。ほどよく時間を稼いでいただいて、まことにありがたく存じます」

「……今からでは悪所に足を伸ばす時間はないのでしょうな。重畳です」


 しきりに礼を述べるふたりを見送ってから、八重も侍女と中間ちゅうげんを連れて水野みずの邸への帰路に就いた。思わぬ出会いであったし、思いがけず長く喋った。だが、微かな疲労と裏腹に、彼女の心も足取りも、往路よりもよほど明るく軽くなっていた。

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