第4話 万喜の不安

 仏間には線香の香りが強く漂っていた。先祖の霊のためにも水や花を絶やさないのは当然だが、万喜まきは特に亡夫意知おきとものためにこそ、毎日の供養に心を砕いていると見えた。八重やえも亡き人を知っているから、供えられた花や菓子が意知の好みのものだと分かるのだ。


「殿、金弥きんや様と八重様がお出でくださいましたよ……」


 凶事から半年あまりを経て、万喜の頬にもようやく微かながら笑みが浮かぶようになっていた。亡夫に語りかける声も眼差しも、情愛と悲しみが相半ばしていて、傍目には痛々しくも感じられるものではあったが。


 八重と金弥は、順番に線香をあげてりんを鳴らし、手を合わせた。冷え切った空気に鈴の音が凛と響いて消えるまでの間、亡くなった人が安らかであることだけを一心に念じる。後事のことは心配なく、などとは八重には口が裂けても言えないのだから。


「叔父上、叔母上、わざわざお出でいただき、まことにありがとうございまする」

龍助りゅうすけ殿も、もう十三になられますか。元服も間近でございますね」


 とはいえ、慶ぶべきことも、まったくない訳ではなかった。


 今や田沼たぬま家の嫡子となった龍助は心身ともに健やかに成長している。背が伸びるのはもちろん、言葉遣いもますます大人びて、父や祖父の聡明さを窺わせるようになっている。男子三日会わざれば刮目すべしと言う通り、我が子を持たない八重にとっては文字通り目を瞠る変化だった。


「ええ、そろそろ良い日取りを考え始めませんと」


 龍助の元服は、万喜にとっても区切りになるだろう。夫に先立たれてもまだ髪を下ろしていないのは、我が子を案じるがゆえなのだろうから。俗世を離れることは幸せからも遠ざかるということなのかもしれないけれど──少なくとも、心穏やかに夫の冥福を祈ることができるようになるのではないだろうか。


「父の張り合いになるのはもちろんのこと、兄もきっと安心することでございましょう」


 田沼家にとっては、数少ない将来の楽しみということにもなる。金弥が甥を見る目も、いつになく穏やかで和やかだった。


「ええ、きっと……」


 ところが、金弥に応じて頷いた万喜は意外にも浮かない表情だった。


(あまり、喜んでおられない……?)


 幼い息子に家の行く末を負わせるのも、父が殺された政の只中に送り出すのも、不安なのだろうとは、分かる。でも、それを踏まえた上でも、万喜の顔色は冴えなかった。もしかしたらあの葬儀の日と同じくらいでは、というくらいに青褪めているかもしれない。


 義姉の不可解な態度に、八重は金弥とそっと目を見交わした。何かおかしい、とは双方ともに感じている。けれど意次に対した時と同様に、どう切り出せば良いか分からない。不自然に降りた沈黙を破ったのは、いかにも取り繕ったように明るい万喜の声だった。


「そうだわ。龍助は、武芸も励んでおりますの。叔父上に、成果を見せて差し上げなさい。金弥様、稽古をつけていただけますか?」

「……無論。誰ぞに着替えを借りなければなりませんが──」

「稽古場に参りましょう、叔父上。誰かしらはいるでしょうから。案内いたします」


 母に言われるまま腰を上げた龍助も、何かしらを感じ取っているに違いない。叔父の手を引いて立たせようとする仕草は、年齢以上に子供っぽくて──芝居がかったものも、感じてしまう。


(万喜様は、私とお話がなさりたい……?)


 夫の戸惑うような視線が、このまま行っても良いのかと八重に尋ねていた。万喜と龍助は、揃って金弥をこの場から追い出そうとしているかのよう。様子のおかしい義姉を八重に任せて良いものかどうか──何かと血の気が多い八重だから、信用がないのかもしれない。


「殿は近ごろ身体がなまっておいでです。龍助殿に鍛えていただくくらいが良いかもしれませぬ」


 夫の不安を汲んだ上で、八重はあえて軽やかに笑った。自身の気性については彼女も承知しているが、女同士、妻同士だからこそ言えることもあるだろう。何を聞かされたとしても、後で夫と話し合えば良い。そう考えられるていどには、夫婦の絆というものができているはずだった。




 ふたりきりになると、万喜はほう、と溜め息を漏らした。心に凝った憂いを吐き出さなくては潰されてしまう、とでもいうかのような、深く重い息だった。そうして、今度は深く息を吸い込んでから、万喜はおずおずと口を開いた。


「八重様は──以前よりも金弥様と打ち解けられたようでございますね」

「え、ええ。大変な時でございますし……頼りになる御方と、やっと気付いたように思います」


 大変、と言って思い浮かべる事態は八重と万喜ではまるで違うだろう。父の口止めされるまでもなく、ただでさえ夫の死で心を痛めている御方に、離縁の話など聞かせられない。そして、すべてを打ち明けられないことに加えて、夫がいることへの後ろめたさが八重の舌を鈍らせる。不仲だろうと親から離縁を迫られていようと、少なくとも生きているというだけで万喜からすれば望むべくもない幸せに見えるのだろうから。


「そう、ですか……。あの、八重様」

「はい、何でしょうか、万喜様」


 金弥と龍助を下がらせた義姉の意図を計りかねて言い淀む八重に、万喜は膝でいざってそっと近づいてきた。耳元で囁くのでなければとても打ち明けられない話なのか、八重にさえ縋らずにはいられないのか。嫌な予感に鼓動が早まるのを感じながら、八重は万喜の手を握った。その温もりに励まされたのか、万喜はもう一度溜息を漏らし、八重の肌をくすぐる。


「本当に……ほんの少しお会いしただけでも分かりましたの。自然と近づいていらっしゃるし、お互いを気遣われていらっしゃる……言葉を交わさずとも、心を通わせていらっしゃるようで」

「それは……まあ、一応は十年も一緒におりますから、多少は」

「義父上も心配なさっておいででしたから、素敵なことだと思いますの」

「はい……これまで、妻として不心得であったと悔いております」


 万喜は、優しい。夫を亡くした悲嘆の中にあっても、八重たち夫婦の姿を好ましく見てくれるほどに。けれどそれは、別れの近さを思い知ったからこそなのだ。指先が白くなるほど八重の手を握りしめる万喜に、事情のすべてを明かすことはもちろんできない。惚気のろけに聞こえるのを恐れれば、迂闊に相槌も打てない。八重は慎重に言葉を探ろうとしたのだが──


「だから八重様、金弥様とは添い遂げられるのでいらっしゃいますよね……!? 金弥様は水野様を継がれるのでしょう? そうですわよね?」

「な──」


 思い切ったように顔を上げた万喜の、立て続けの問いかけに驚いて、思わず義姉の手を払いのけていた。自由になった手で、万喜の肩を掴み、問い質す勢いで聞き返してしまう。


「万喜様、どうしてそのような……!?」

「ごめんなさい……! とても、ひどいことを申しました」


 大きく身体を震わせた万喜は、目を涙で潤ませていた。怯えさせてしまった、とひやりとしたのも一瞬のこと、万喜は思いのほかに強い眼差しで八重をしっかりと見据えていた。


「でも、父が申すのですわ。龍助を連れて実家に帰れと……田沼様のことなら金弥様が継がれるから心配するな、と……!」

「そんな……万喜様、まさか……!」


 そして、震える声で万喜が訴えた言葉を理解するのに、優に数秒は掛かっただろうか。理解した上でなお、自身の耳が信じがたく、受け入れがたいことではあったが。

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