第4話 今さら遅い

 八重やえが江戸城内での事件について多少なりとも詳しく知ることができた時、森田もりた座から慌ただしく帰ってから三日も経っていた。父、水野みずの忠友ただともと夫の金弥きんやが、揃って八重のもとを訪ねたのだ。


 ふたりの顔に滲んだ疲労と悲嘆の色からして、良い報せではないのは明らかだった。


山城守やましろのかみ殿は、昨晩亡くなられた」

「然様で……ございますか……」


 それでもその報を受け止めることは容易くはなく、八重はそれだけを呟いて絶句した。その間に、父と夫は代わる代わる彼女が欲していた詳細を教えてくれる。


 意知おきともが斬られた場には、同輩や役人が合わせて二十人近く居合わせたという。にもかかわらず、刀を抜いた佐野さの善左衛門ぜんざえもんを止める者も、殿中ゆえに脇差を鞘に納めたままで逃げる意知を庇う者もいなかった。四十畳敷きもの広さを誇る江戸城の中の間で、動くのは追う者と追われる者だけ、他の者は息を呑んで見守るだけで。だから──佐野が取り押さえられたのは、止めを刺そうとしてよろめいた時になって、やっと。その時にはもう、意知は深手を幾つも負っていたのだ。


「そんな……そのような──」

「まことに痛ましいことだ。主殿頭とのものかみ殿もご老齢なのにお気の毒な」


 いったいなぜ、そのような不甲斐ない仕儀となったのか。意次や万喜まき龍助りゅうすけは、息子の夫の父の訃報をどのような思いで聞いたのか。凶行の理由はいったい何で、下手人にはいかなる罰が与えられるのか。八重の声は怒りと疑問と悲しみに震え、父も重々しい表情で頷いた。だが──それから口を開く時、父の顔は妙に晴れ晴れとしていた。


「──だから、婿殿には田沼家にお戻りいただくのが良いだろうと思う」

「は……?」


 目を見開いた八重の視界の中、夫が大きく頷いている。妻である彼女は何にも分かっていないというのに、夫は承知しているらしい。


「こうなると、そなたたちに子がないのも幸いであったな」

「父上……? このような時に何を仰いますか……?」


 物分かりの悪い子供の気分で、八重は父に問うた。息子や夫を亡くしたばかりの実父や兄嫁に寄り添ってやれという意味ではないのは何となく分かる。では、いったいどういうことなのか──分かりたくも、ないのだが。


「離縁せよ、と申している」


 短く命じた父は、冷徹な政治家の顔をしていた。武家の娘は、親の命令には逆らえぬ。それを百も承知で、それでも八重は声を上げずにはいられなかった。


「いったいなぜそのようなことを……!? 八重には、皆目検討もつきませぬ!」


 金弥との結婚も、十年近くに渡っての諍いも、子がないがゆえの寂しさも。すべて家のため、田沼家との縁を保つためと思って耐えて来た。父もそのように望んでいたはずだ。子供騙しのやり方で機嫌を取ろうとしてきたのは、ほんの数日前のことだというのに。


 夫の意見は、と金弥の方に目を向けると、妻の激情を他所に平静そのものの表情を保っていた。夫は既に承知しているのだ。金弥はちらりとだけ八重を見ると、父に深く頭を垂れた。


「実父も老齢、兄の後を継ぐべき甥もまだ幼く──となれば成人した者がいた方が何かと都合が良いでしょうな。出羽守様のご配慮には心より感謝申し上げます」

「ならばこちらから通うのでもよろしいでしょう。そもそも、今もご実家に日参しておいででしょうに……!」


 無礼を承知で、八重は腰を浮かして父と夫の間に割って入る。上座の父に対して、娘夫婦が並んで向かう──何ということもない、ごく当たり前の席次のはずだった。だが、今日に限っては三者の距離は微妙に遠ざけられてはいないだろうか。不仲でも、不満はあっても父は父で夫は夫であったはずなのに、そう信じていたのは八重だけだったかのようだ。父も夫も、すでに他人のように醒めた目で八重の狼狽を見ている。


「あの──金弥様はご公儀こうぎにも届け出た父上の嫡子でもいらっしゃいます。このように急に、しかもさしたる理由もなしに離縁が叶うはずはございません」

「子がないのは十分な理由になろう。叶うならば、血の繋がった孫に家を継がせたいものだからな」


 辛うじて八重が見つけ出した反論も、父は即座に退けた。これが嫁の話であれば、三年子なきは去れ、とも言う。八重だとて、我が子を抱きたいという思いはある。──あった。


「そのようなことを、今さら……っ」


 だが、跡継ぎのことを持ち出すなら、唐突なばかりでなく遅すぎる。金弥を追い出して、父はまた婿養子を取るつもりなのかもしれないが、先の婿を追い出して上で、年増を娶るための婿入りなど、了承する男がいるとは思えない。長きに渡って我慢を強いて、八重の不満を顧みなかった癖に。この非常の時になって、父に突然娘を思い遣る心が芽生えたなどと、どうして信じられようか。呑み込むことができようか。


 父にぶつけたい言葉は幾らでもあったけれど、怒りのために声として発することはできなかった。八重にできるのは、獰猛な犬か狼のように歯を喰いしばり、拳を膝に握りしめて父を睨め上げることだけ。


「それこそ届け出て認められるまでにはしばらく時間が掛かるだろう。山城守殿の喪に服さねばならぬし──ただ、そういうことになるのだと、承知しておくように」


 そして、煩く歯向かわれる前に、ということなのだろう。父はそれだけを言い捨てると、慌ただしく屋敷を去って行った。

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