第4話 今さら遅い
ふたりの顔に滲んだ疲労と悲嘆の色からして、良い報せではないのは明らかだった。
「
「然様で……ございますか……」
それでもその報を受け止めることは容易くはなく、八重はそれだけを呟いて絶句した。その間に、父と夫は代わる代わる彼女が欲していた詳細を教えてくれる。
「そんな……そのような──」
「まことに痛ましいことだ。
いったいなぜ、そのような不甲斐ない仕儀となったのか。意次や
「──だから、婿殿には田沼家にお戻りいただくのが良いだろうと思う」
「は……?」
目を見開いた八重の視界の中、夫が大きく頷いている。妻である彼女は何にも分かっていないというのに、夫は承知しているらしい。
「こうなると、そなたたちに子がないのも幸いであったな」
「父上……? このような時に何を仰いますか……?」
物分かりの悪い子供の気分で、八重は父に問うた。息子や夫を亡くしたばかりの実父や兄嫁に寄り添ってやれという意味ではないのは何となく分かる。では、いったいどういうことなのか──分かりたくも、ないのだが。
「離縁せよ、と申している」
短く命じた父は、冷徹な政治家の顔をしていた。武家の娘は、親の命令には逆らえぬ。それを百も承知で、それでも八重は声を上げずにはいられなかった。
「いったいなぜそのようなことを……!? 八重には、皆目検討もつきませぬ!」
金弥との結婚も、十年近くに渡っての諍いも、子がないがゆえの寂しさも。すべて家のため、田沼家との縁を保つためと思って耐えて来た。父もそのように望んでいたはずだ。子供騙しのやり方で機嫌を取ろうとしてきたのは、ほんの数日前のことだというのに。
夫の意見は、と金弥の方に目を向けると、妻の激情を他所に平静そのものの表情を保っていた。夫は既に承知しているのだ。金弥はちらりとだけ八重を見ると、父に深く頭を垂れた。
「実父も老齢、兄の後を継ぐべき甥もまだ幼く──となれば成人した者がいた方が何かと都合が良いでしょうな。出羽守様のご配慮には心より感謝申し上げます」
「ならばこちらから通うのでもよろしいでしょう。そもそも、今もご実家に日参しておいででしょうに……!」
無礼を承知で、八重は腰を浮かして父と夫の間に割って入る。上座の父に対して、娘夫婦が並んで向かう──何ということもない、ごく当たり前の席次のはずだった。だが、今日に限っては三者の距離は微妙に遠ざけられてはいないだろうか。不仲でも、不満はあっても父は父で夫は夫であったはずなのに、そう信じていたのは八重だけだったかのようだ。父も夫も、すでに他人のように醒めた目で八重の狼狽を見ている。
「あの──金弥様はご
「子がないのは十分な理由になろう。叶うならば、血の繋がった孫に家を継がせたいものだからな」
辛うじて八重が見つけ出した反論も、父は即座に退けた。これが嫁の話であれば、三年子なきは去れ、とも言う。八重だとて、我が子を抱きたいという思いはある。──あった。
「そのようなことを、今さら……っ」
だが、跡継ぎのことを持ち出すなら、唐突なばかりでなく遅すぎる。金弥を追い出して、父はまた婿養子を取るつもりなのかもしれないが、先の婿を追い出して上で、年増を娶るための婿入りなど、了承する男がいるとは思えない。長きに渡って我慢を強いて、八重の不満を顧みなかった癖に。この非常の時になって、父に突然娘を思い遣る心が芽生えたなどと、どうして信じられようか。呑み込むことができようか。
父にぶつけたい言葉は幾らでもあったけれど、怒りのために声として発することはできなかった。八重にできるのは、獰猛な犬か狼のように歯を喰いしばり、拳を膝に握りしめて父を睨め上げることだけ。
「それこそ届け出て認められるまでにはしばらく時間が掛かるだろう。山城守殿の喪に服さねばならぬし──ただ、そういうことになるのだと、承知しておくように」
そして、煩く歯向かわれる前に、ということなのだろう。父はそれだけを言い捨てると、慌ただしく屋敷を去って行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます